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震える指

結論から先に言おう。




茜には、会えなかった。




いつもなら9時10時退社がザラだそうだが、今日はたまたまもう退社してしまっているとのことだった。

受付で応対してくれたのは、40代くらいの物腰の柔らかな女性だった。俺が立ち入ったがらんどうのそのフロアの奥の方には、別の女性が数人なにやら打合せをしていた。

出入り口でも受付のあるそのフロアでも小綺麗な私服の女性しかおらず、さすがアパレルの会社、なぁんて、内心密かに感心した。女性の社会進出がどうのこうのという巷の社会問題なんて微塵も感じない、女性特有の活気ある職場といった印象だった。

俺は心から申し訳なさそうな目の前の女性に、逆に私用で訪ねた自分がとにかく居たたまれなく感じた。

恐縮しながら手紙の入った封筒を差し出すと、今度はよほど貴重なものを受け取るかのように恭しく両手で受け取られてしまった。ビジネス臭さしかない封筒だが、中身は(ビジネスとはただの一線も交えず一銭にもならない)贖罪の手紙だ。

俺は更に恐縮して、「会社の封筒しかなかっただけで、中身はほんと、仕事には関係ない私情なんです。すみません」と肩をすくめながら頭を下げた(なにせこの会社は、実際東京のこのビルでもうちの会社と取引がある契約先でもあるわけなので)。

彼女は全神経を手に集中させたような繊細な所作で、受け取った手紙を少し持ち上げながら会釈してみせた。そして「分かりました、必ず、本人に手渡しします」と俺を見上げてしっかり頷いてくれた。

自社社員の不在を自身に置き換えて、茜の代役とばかりにそんな風にかしこまる彼女。そんな彼女を目の前にして、本当に茜はココに居るんだとじんわり実感が湧いた瞬間でもあった。


会えなかったのは残念だけどなんだか、俺自身の気持ちはじわじわと達成感に満ちて晴れやかで。


だからもういいと思えた。


きっと今日は、俺たちにとって感動の再会(と願いたい)を果たすべき日じゃなかったんだ。

彼女の「今」にほんの少しでも足を踏み入れられた。

なんだかただそれだけで、もう充分に思えたんだ。




所変わってその夜、研修センターの宿泊部屋のベッドの上。

別に枕が変わったってぐっすり寝られるタチだが、変にアドレナリンが出まくっているのか全く寝付ける気がしなかった。ある種の興奮状態にも似ていて、気持ちがひどくそわそわしている。落ち着かない。

「………」

手を仰向けの頭の下で組み直す。まるでビジネスホテルのシングルルームみたいに簡素なこの部屋には、年代を感じる木目調のタンスとベッドに机だけが置いてある。洗面台すらない部屋は、まさに寝るため、あとは申し訳程度の書き物さえできれば良いと言うわけ(ちなみ水回りは全て共用だ)。

学生よろしく誰かと夜通し語り明かしたければ、各階にコミュニケーションラウンジがある。前泊の今夜も例外なく誰かが飲んで(騒いで)いたようだが、俺には関係ない。

そんな気分なわけがない。

まぁ所詮、どれだけひとりでふさぎ込んだってハイになったって成るようにしかならない。俺にはもう出来ることはなにもないんだから、ひと思いに飲んで(騒いで)くればいいんだろうが。

俺はもう、そんなに若くない。

気になる手紙の内容だが、それはもちろんヒミツだ。

要点だけかいつまむと、俺が今仕事に悩んでいることと茜の選択を卑下したことへの詫び、この週末に会いたいことと最後に携帯の連絡先を書いた。

さてこの東京(といってもセンターがあるのは西の端だが)滞在中に、茜から連絡は来るのか。はたまた来ないのか。………ぁあそうか。


落ち着かないのは、この先の展開が全く分からないからか。

見通しが立たないことは、昔からキライなんだった。

けどそれだって仕方がない。


手紙を無事預けられた時点で、俺の今回の目的は果たせられている。

昔の自分の失態への詫び。それは明日、彼女に手紙が渡ることで完遂する。それでいいじゃないか。

「………ふぅー…」

俺は大きく息を吐いて、瞳を閉じた。


まぶたの裏に、茜の笑顔が浮かんで消えた。




翌日からの二日間の研修のうち、初日の木曜日はしっかり夜の9時まで拘束された。たまったもんじゃない。だがどのみち、俺のココロは全く此処に在らず、だった。特に課題で手こずることもなくこなしていけたが、意識は常にスーツの中の胸ポケットの私物携帯に集中していた。

特に初日始業前から昼休みを終えるまでは相当なものだった。昨日手紙を託した彼女が始業前朝一番にもし任務を遂行してくれていたとしたら、(もし来るとしたら)いつ連絡が来てもおかしくないと気合いを入れていたのだ。

だが昼食を終えて薄着で施設内を建物から建物へ移動する時間になっても、俺の携帯のバイブは一向に振動しなかった。

食堂のある建物から外に出た瞬間の肌に刺さる寒さが、まるで胸まで深々と貫いたような気分だった。俺はすっかり肩すかしをくらっていた。

ひとりでしっかり全神経をその時のためにスタンバイしていた俺は、どうにもやりきれない気持ちでいっぱいだった。外気の寒さがまるでココロまで浸透していくみたいに、俺の中には少しずつ諦めが大きくなっていった。

かじかむ指先を拳を数回握り合わせることでほぐしてから、忌々しい携帯(完全に八つ当たりで可哀想なヤツだ)を取り出した。画面は本体内蔵の待受から一向に切り替わらない。昼休みももう直ぐ終わってしまう。

「………」

俺は携帯をこれでもかと強く握りしめながら、黙々と今朝居た研修室に向かって歩みを進めた。携帯本体がほんのかすかにミシッと歪んだ音が、ココロのどこかで鳴った悲鳴のようだった。




夜になった。

今日1日、携帯が振動することはやっぱりなかった。

夜9時までの研修のあとは、食堂でささやかな懇親会が開かれていた。最早この研修でしか会わない全国に散らばった同期たちとの、貴重な交流の場である。

だがやっぱり俺のココロは、所在なくふよふよと漂っていた。例え最近ではすっかり忘れてしまった、異性特有の芳しい(かぐわしい)自然な香りが近くに来ても。

「哲平ー!久しぶりだねー、元気してた?」

数少ない女性総合職で同期の、宮前 里奈だ。

里奈はビールが入った紙コップを片手に、フリーだった右手をしれっと俺の腕に絡ませてきた。

(茜ほどではないが)世の平均的なオンナよりわずかに高めの身長の里奈は、軽く酔いが回ったていでそのまま俺にしなだれかかってくる。もちろんこのオンナは決して酔っちゃいない。

「久しぶりやな。相変わらず調子良いみたいやんか」

成績のことだ。世にいう「大企業」であるうちの会社だが、なぜかヨコのネットワークだけはやたらと深い。技術者ばかりのうちでは、それに比べて絶対数の少ない営業のウワサは比較的流れやすい。里奈は接客のセンスが良く、営業の中でも更に数少ない女性総合職のホープとして有名になっていた。

「東京って土地柄がイイだけよ。けどアリガト」

そう言って里奈は、カタチの良い唇を持ち上げてにっこり微笑んだ。ちなみに一向に離れる気配を見せない里奈の腕だが、同期たちは特に誰も驚く素振りは見せない。里奈が以前俺に告白してきたことがあるのは、周知の事実だからだ。

そのままの格好で、近くに居た同期たちも交えて会話は弾んだが。とうに終業後となっている今、俺は携帯を気にする動作を抑えることが出来なかった。




「誰からの連絡を待ってるの?」

1時間ほどで終わった懇親会のあと、俺はごく自然な流れで里奈と食堂を出た。途中里奈は俺の腕を離れてどこかへ行っていた(あのあとわりとスグに別の同期たちと輪を作って盛り上がっていた)が、終了間際になってしれっとまた俺の元に戻ってきたのだ。

里奈は全くスキのない、猫みたいなオンナだ。気分屋で攻撃的で、時折ひどく色っぽい。オンナの武器を巧みに使い分けるコイツは、公私共に駆け引きが巧い。仕事をソツなくこなすところも想像に易い。

「大事なオンナ」

「彼女?」

「いや、違う」

砂利の上はすっかり暗くなった夜でも、ザッザッと各々の存在を知らせてくれる。なぜか食堂のある建物のまわりだけが舗装されていないのだ。俺は先を歩き、後ろから付いてくる里奈の気配をこの砂利の音で感じていた。俺は里奈の気持ちに気付かないていで、あえてドライな会話を心掛けていた。

里奈とのこんな駆け引きは、今に始まったことじゃない。

「ねぇ、哲平」

里奈の気配が少し離れた。

砂利の音が止んだ。

俺は更に一歩進んでから、里奈が後ろで足を止めたことに気付いた。里奈は俺が振り返るのを遮るように、間髪入れずに次のことばを投げかけてきた。

「哲平がやっぱり好きなの」

「………」

俺はゆっくり振り返った。

レディースの鞄を肩から掛けた里奈は、その持ち手を強く握りしめていた。

前より必死な空気が、冷たい外気に乗ってひしひしと伝わってきた。

「遠距離恋愛はしぃひん」

「哲平と一緒に居られるなら、仕事なんて辞めても良いと思ってる」

里奈からまた直ぐに返ってきたそのセリフが、女性総合職のホープと言われる自分に対してのことばなのは直ぐに分かった。コイツは入社当時から志の高いヤツだったわけだが、それではあまりにも潔が良すぎではないか。

それだけ本気ということだろう。

「その言い方じゃ、近くに居たら私でもイイって聞こえるもの」

そうキタか。

俺はコートのポケットに入れた両手を握りしめた。散々のらりくらりと俺との駆け引きに暮れてきたコイツは、コイツではダメな理由を知りたいらしい。

「………」

コイツじゃダメな理由………。

俺はなんだか途方に暮れてしまった。

里奈の思わせぶりな言動も、時折潮が引いていくように突然身を引かれる言動も、これまでずっとソツなくかわしてきた。こちらから特にたぶらかすような応対をしたことはないし、完全に邪険に扱ったこともなかった。

俺はいつだって、来る者は拒まず去る者も追わずにきた。

けどそれはなぜだろう。

…改めて考えたこともなかった。

「哲平はいつも私がなにをしても相手をしてくれるから。その優しさがやっぱり好きなの」

………優しさ?

腑に落ちない。コイツに特別な何かを抱いたことなんてただの一度もない。無論そんな対応をした覚えもない。

「………」

はたと気付いた。

これまで一度もコイツを拒まずきたことが、コイツに大きな勘違いをさせてしまったらしぃ。

「今までお前を拒んだことがないんは、お前に関心がなかったからや」

「なっ………」

「この年でボディタッチのひとつやふたつで動じるようなヤワな男、お前も要らんやろ。俺やってそんなんであたふたするほど経験値少ないわけやないし」

「………」

「それを優しさやって言う時点で里奈は俺を全く知らんし、俺もお前にはやっぱり関心がないから付き合えん」

「じゃぁ一度、哲平の『彼女』にしてよ。私と向き合う時間をちょうだい。『会社の同期』としてじゃ、毎日連絡も取れないしいつまでもお互いを理解するなんてできないでしょ?」

さすがホープの里奈は、キリッと弁が立つ。確かに、滅多に連絡することがない友だちやら同期やらでは、いつまでも距離は縮まらない。

改めて向き合って理解し合おうとするポジションに持ち上がらなければ、いつまでもなにも変わらないだろう。「特に好きだったわけじゃないけど告白されて付き合ってみて、だんだん好きになった」なんて、よくある話だ。俺には経験がないが、この理屈はきっとそう言うことなんだろう。

だが俺は、里奈に対してそんな時間を割く気にはならない。

じゃぁそれはなぜだ。

なんでコイツじゃダメなんだ。

「………」


目を細めると、街灯に照らされた里奈に茜が重なった。


キリッとした里奈にはない、茜の柔和な空気が俺の頬を緩ませた。気の強い里奈にはない(ぃや、茜も実は頑固で気が強いが)、自身もろとも包み込んでくれるような安心感も愛おしかった。

「忘れられへんヤツがいんねん」

「………」

「高校一緒やったヤツやねんけど、ずっと忘れられへんねん。もう一生会わへんかも知れへんけど、とりあえず今は、そいつのことしか考えられへんから」

「………」

里奈は、俺から一瞬も目を背けなかった。俺のスキやウソを一瞬たりとも見逃すまいとするように。

「それじゃあやっぱり、まだ私には望みがあるみたい」

ふふふ、と里奈は笑った。どうやら観念してくれたらしい。

「どうやろ」

「哲平って意外と優柔不断なのね。ズルいひと。それならひと思いにキライって言われた方がマシだわ」

里奈の声が少し震えて聞こえた気がしたのには、気付かないフリをした。

「悪いなぁ。けど駆け引きは得意やろ?」

「まぁね」

お前にはない器のデカいオンナに惚れてる。

別にそんな抽象的で不確かなこと、言う必要はないと思った。

だって俺は、里奈を全く知らないから。

別に里奈の好意を完全に拒む必要もないと思った。いつか俺が里奈の寛大さに気付くかも知れないし、里奈だって他に何かに気付くかも知れないから。

「話聴かせてくれてありがとう、嬉しかった」

「ぁあ。…じゃあな」


けど次はない。


ポケットから右手を出して手を上げた俺が、「またな」と言うことはなかった。




次の日の夕方。

二日間の研修の予定はつつがなく終了した。当日中に帰路に就く人間も居るので、研修の最終日は大抵定時より少し早くに終わる。


今日も茜からの連絡はなかった。


「哲平、このあとみんなで飲みに行かない?」

声をかけてきたのは里奈だった。本当にタフなオンナだとつくづく思う。

「…いや、ええわ。疲れたから片付けたら帰るわ。荷物も重くて移動面倒やし」

「そっか、分かった。またね」

「ん。じゃあ」

里奈は微笑んだ。形のイイ目に応援されたような気になったのは、俺の都合の良い勘違いかも知れない。里奈が言ったように、俺は意外とズルい人間のようだ。

毅然とした態度で何事もなかったように離れていく里奈をなんとなく見送ったあと、俺は宿泊棟のある逆方向に向かって歩き出した。

「…哲平!」

呼び止められてゆっくり振り返る。

向こうの方で、里奈が大きく手を振りながら叫んだ。

「頑張ってね!!」

「………ぁあ、ありがとう」

俺も手を振って応えた。

どうやら俺の勘違いは正しかったらしい。

「………」

また向きを直して歩き出す。里奈にも言った通り、後泊はついさっきキャンセルした。宿泊棟に戻ったら、荷物を持ってさっさと帰ることにしたのだ。

もうココ(東京)に未練はなかった。




「………」

春は桜で満開になる並木道を歩く。

時刻は夕方の6時半。

結局あのあと、講師の先輩や上司でお世話になったひとたちに挨拶に回っていたらこの時間になってしまった。

冬のこの時間の空には、すっかり夜のとばりが降りていた。

「………!!」

思わず全身が総毛立った。

ゴロゴロと後を付いてくるキャリーバックの振動とは明らかに違った振動を、胸に感じる。

「………」

足を止めておもむろに胸ポケットに手を伸ばす。

自分の指先が震えてる気がしたが、構わず携帯を取り出した。

「………」

知らない番号からの着信。

脈が早くなりすぎて、胸が痛い。

「もしもし」

一瞬の沈黙。

世の中全ての音が無くなったような、沈黙。


『………哲平?』


変わらない、声。


「茜?」


緩んだ頬を、直せない。


『久しぶり』


ずっと頭を回ってた、懐かしい柔らかな声にココロが踊った。


「びっくりした。もう連絡ないかと思ってた」


けどそんなの、クチが裂けても言わない。


『ごめんね、遅くなって。………』


ひとりで舞い上がり過ぎた。ひと呼吸ついてやっと気付いた。


「…泣いてるん?」


声が震えている。


『…やっぱりメールにすれば良かった』


今度は鼻を軽くすする鼻声。


………そんなの、反則だ。


「………今どこ」


俺は尋ねちゃいない。

今から会う気がないなんて、言わせるつもりはなかった。





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