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贖罪を決めた日

チーズケーキは旨かった。

けどできれば、もう一度改めて食いたい。

………せっかくの凛の店の味が、全く味わえなかったからだ。




「また会えると良いな、その子」


俺が家への手土産にと別に買ったケーキの入った箱をカウンター越しに差し出しながら、凛が言った。

俺はカットケーキ4切れが入った少しかさばるそれを片手で易々と受け取って、手元に視線を落とした。箱が入った紙袋は、夏の澄んだ雲ひとつない空みたいな水色。センターには店のロゴ。


「せやな。…ケーキありがとう、また来るわ」


こういうロゴって誰が考えんのかな。そんなことがふと頭をよぎりながらも、なんとか別れのセリフを絞り出した。


「うん。セミナーもぜひ」


凜は笑う。

柔らかく、思いの外安心する優しい笑顔で。


「そっちは気ぃ向いたらな」


俺はまたな、と空いてる左手を軽く上げた。

俺の笑顔は、我ながら疲れてると思う。今日は全く疲れることなんてしていないのに。

奥のつけまつげコンビは相変わらずのハイテンションだが、入口脇の中年女性はいつの間にか居なくなっていた。




凜が言った「その子」とは、もちろん茜のこと。

俺は今強烈に、茜への尊敬と贖罪(しょくざい)の念に駆られていた。


今、茜に会いたくて仕方がない。


茜はやっぱりスゴいオンナだったんだよ。

俺がバスケと漠然とした将来像しか頭になかったその時に、あいつは夢を語った。夢物語を語るんじゃなくて、明確な夢への筋道を語った。

高校生でだぜ?

あのつけまつげコンビ(が高校生だとしたら)と同じ頃に、だ。

そして今(直哉の情報が正しければ)、彼女はその夢を叶えてしまっただなんて。


それに引き換え俺はどれだけ浅はかだったんだろう。

はっきり覚えてないんだ。

あの時自分が何を言ったか、あまり記憶にない。けど間違いなくあの時俺は、茜を猛烈な勢いで罵った。

大学進学が世に出られる全てだと思っていた俺は、短大なんて有り得ない、と。専門学校なんて出たところで、そんな数多の学生が目指すような職種に巧く就けるはずがない、と。とにかく一方的に言いたい放題言いまくった。

嫌だったんだ。短大だの専門学校だのに進学して、茜が低俗になることが。そこらのチャラいオンナと一緒になるのが。当時の俺が卑下したそんな道ではなくて(あとにも述べるが、こんなのは当時の俺の完全なる偏見である)。

茜には。茜だから、自分と同じ大学進学って道を進んで欲しかったんだ。

そんな世間知らずな偏見に満ち溢れた俺の話を、あの時茜は、………今思えば、あの時も凜としていた気がする。唇は真一文字に引き結んで、俺にはただの一度も視線を向けずにあの夕陽を見詰めてた。だんだん、けど刻一刻と沈んでく真正面の夕陽を。

全く今考えてみれば、赤ッパジな思い込みも甚だしいぜ。


数多の学生の中で埋もれたのは、他の誰でもない俺自身だ。


挙げ句いつまでも向かう先が定まらなくて、社会に出てもう4年目だって言うのにいまだに俺の足元はおぼつかない。自分が情けなさ過ぎて涙が出るぜ。

そもそも、はなから実現できない前提で話を聞いていた時点で論外だ。

あの時俺は、どれだけあいつを否定したんだろう。

どれだけあいつを、傷付けたんだろう。


………今、茜に会いたい。会ってとにかく、謝りたい。

当時の世間知らずな俺を。

当時の偏見に満ち溢れた俺を。

当時の、………あの時、茜を応援してやれなかった愚かな俺を。


茜、………今お前は、一体どこで、なにしてる………?




「………そりゃ、疎遠にもなるわな」


彼女が俺の前から姿を消した理由。

エレベーターを降りた俺はひとりごちて、重たい脚をどうにかこうにか自宅玄関前まで運んだ。


「ただいまー」


最近マンションで一斉更新された真新しい玄関ドアを気分重たく引っ張り開けて、これでもかと言う低いテンションでやっとこさ声を絞り出した。

あのつけまつげコンビのテンションが、今ほど羨ましいと思ったことはない気がする。最近じゃただでさえ少ない口数が、これじゃ増えるハズもない。基本的に俺は寡黙な人間なんだ。


「ぁ。お兄ちゃん、お帰り!」


妹の燈子(とうこ)だ。玄関入ってすぐ左右にある部屋の左側からひょっこり顔を出した。

まだ大学在学中の燈子は、大学で一人暮らししていた俺とは違ってこの実家から通学している。


「ん。みやげ」

「え?なになに?」

「ケーキ」

「ケーキ?珍しいやん、どうしたん?」

「ダチの店の売上貢献」

「へー、社会人てやっぱり気前良いんやね。ありがとー!」


彼女ナシ趣味読書の社会人の財力ナメんな、妹よ。

おかげさまで中の中の月収もボーナスも貯まりたい放題だ。

軽口をたたく現金な我が妹は俺の顔と俺の手元を交互に見やってから、飛び跳ねそうな勢いでパタパタと部屋を出てきた。そんなコイツは、我が家の元気印である。

俺は燈子にケーキを手渡してフリーになったその右手を壁についてから、靴を脱いだ。

燈子は嬉しそうに紙袋を両手に抱えて、奥のLDKに姿を消した。


俺の家は、サラリーマンの親父に母親、燈子の4人家族だ。

親父と母親は、母親曰わく「一度も喧嘩をしたことがない」程のおしどり夫婦らしい。そこそこ恋愛経験を積んできた俺としては、一度も喧嘩をしたことがないなんてにわかに信じられない話なのだが。

だが確かに、少なくとも子どもの前では、両親は喧嘩をしたことがない。

そんなふたりに憧れないわけではないが、こればかりはひとりではどれだけ頑張ったところで成し得る話ではない。


「………」


また茜が浮かんだ。いったいなんなんだ。

俺はフラッシュバックした茜の影を振り払うように、靴を脱いでから直ぐに玄関右手にあるドアを勢いよく開けた。

なんとなく涼しかった廊下とは真逆の、ムッとした空気に出迎えられた。最近コレばかりな気がする。

辛うじて廊下まではリビングのクーラーからの冷気が感じられたのだが、律儀にドアも窓も締め切って出て行っていた俺の部屋は蒸し風呂と化していたのだ。明日からドアは開けっ放しで出掛けよう。…俺の部屋にはクーラーがないのだ。

むしろ自分で新調するか?いや、今や寝るだけの自分の部屋には、それほどの需要がない。

そんなわけで季節柄萩野家のお家柄致し方ないわけだが、都度げんなりする自分の気持ちには抗え(あらがえ)ない。

ただでさえ重たい気持ちで帰ってきているのに、これでは完全に泣きっ面に蜂だ。


ドアのすぐ右手にあるメタルラック上段に鞄を乱暴に押し込む。

そのあと四角い部屋の対角線上奥にある窓へ向かって一直線に進んだ。迷わず腰高の窓を全開にする。そしてそのまま窓際にあるベッドに、重たい気持ちごと倒れ込んだ。仰向けになって頭の下で両手を組む。


これは恋なのか。


もう3年もそんなものに触れてないと、そんな感覚すっかり忘れてしまっている。ただ茜が、今一番会いたいオンナには違いない。

もしもこれが恋だとして。

けど残念ながら、今の俺には彼女にたどり着く術が何ひとつない。

メタルラックの上の壁掛け時計に目をやると、まだ夕方の6時だった。夕飯までにはもう少しだけ早い。


「………」


俺は鼻から盛大なため息を吐き出してからゆっくり目を閉じた。


「………」


直ぐに目を開けて、俺はズボンのポケットからゴソゴソと携帯を取り出した。そして何の気なしに、今や懐かしいんだか愛しいんだかよく分からないたった三文字を打ち込んだ。


伊藤茜。


ただ眺めていたかった。もう何年も思い浮かべもしなかったその字面。けどひどく耳に馴染む、懐かしい響き。

茜は俺を、哲平、って呼んだ。

同級生も先輩も後輩もみんな下の名前で呼び合う、良い雰囲気の部活だった。

茜に呼ばれるのはいつも後ろからだったっけ。体育館でも廊下でも通学路でも。

柔らかい女性的な、けどよく耳に届く、安心する茜の声。………想いを馳せ(はせ)過ぎて声まで聞こえてきそうな気がしてくる。相当焦がれてるらしい自分に、今度は頭痛までしてきそうだ。


そうしてしばらく眺めて、今度はそれをネットで検索してみた。ちょっとしたアソビだ。

昔自分の名前を検索したら、青森だかどこだかで介護士をしている「萩野哲平」サンを見つけたことがあった。世の中の同姓同名サンの存在を垣間見ることはなんだか全く現実味がなくて、少しだけ滑稽に感じた。

ただそれだけだった。ただほんの少しだけ笑いたかった。本当に、それだけだった。

それなのに。


「………―――!!」


ヒットした。


そんなバカな。

けど俺が手にした携帯の中で、クリックしたそのページの向こうで、確かに俺が知ってる茜が笑っていた。

黒髪ロングの、ぽってりした唇を綺麗に持ち上げて笑う懐かしい茜。


「!………」


俺はガバッと勢いよく起き上がって、無心になって携帯をスクロールした。

電話が繋がればそれで事足りるようになってすっかり宝の持ち腐れだった携帯が、たった今、遺憾なくその実力を発揮している。

嘘のように一発でヒットしたそのサイトは、茜が卒業した専門学校の卒業生インタビューのページだった。


彼女が高卒からでなく短大卒からの入学であったこと、在学中の功績の数々(学園祭のコンテストで優勝したらしい)、更にはご丁寧に、今の彼女の就職先まで書いてあった。あと仕事の内容がちょろっと、最後に申し訳程度に記載してあった。

今度はその就職先の会社を検索してみる。今時どこの会社だって、HPに会社概要と称して営業所の住所や問合わせ先を一覧で閲覧可能にしているものだ。


「………この建物の名前…?」


事務所としては大阪と東京に一拠点ずつ、あとは店舗を都市部に数店舗構える中小規模のアパレルメーカーのようだった。その中で本社として記載のあった大阪の建物名に、どうも見覚えがあった。俺が建物の名前を見るなんて、仕事絡みでしか有り得ない。

なんと、俺の担当エリアにある顧客の名前だった。

そこは一覧で数見るうちのひとつであって、まだ営業として訪ねたことはなかった(俺の担当顧客数は数十では収まらないのだ)。

問合わせが無ければ、営業として回らない客先もたくさんある。

そこは横文字の名前が印象に残ってるだけの、そんな数ある客先の中のひとつに過ぎなかった。

それにしたって、自分の会社と彼女の会社に取引があることに面食らった。

次は彼女が勤めているらしい東京の事務所の住所を地図検索してみる。

数秒と数える間もなく表れた地図には、東京の某テレビ局社屋の名前。の、北側にはこれまた全国的にも有名なオフィスビルの名前。…彼女の勤め先はそんな、東京オンチの俺でも迷わずたどり着けるだろう付近にあった。

ここなら俺でも行ける。

反射的に確信して、小さくガッツポーズしていたのは無意識だった。


「次の研修は、……年末か」


俺の会社はなんて手厚いかな、5年目まで何かと研修と称して東京に呼ばれる。

4年目の今年は確か、数ヶ月先の年末に予定されてたハズだ。


「………」


アタマを冷やして冷静になるには丁度良い時間に思えた。

8年振りに会ってなにを言う?

どんなツラ下げて行く?

どんな服装で?

考えなければいけないことは、まだまだたくさんあるようだった。





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