凛というひと
榊原凛。
俺が学生時代、就活の最中に知り合ってから今や腐れ縁のダチ。大学入試で一浪の凛は、実年齢は俺よりひとつ年上だ。
凛と言うとオトコだかオンナだかよく分からんが、性別自体はオトコ。だが醸し(かもし)出す空気は、名前の通り中性だったりする。
感性が女性的で、実際新卒で就職した先も東京にある女性向け事業中心のベンチャー企業だった男だ(女性の社会進出を目指した就労支援だとかの企業だった気がする)。もといその企業に勤めたのはわずか半年で、今は紆余曲折経て地元大阪に戻ってきている。
「哲平、遅なってゴメン!」
少し高めの声に気づいて顔を上げた。
凛は清潔感漂う白いワイシャツに、細身の黒パンツという出で立ちで近付いてきた。肘までまくった袖から見える引き締まった腕をヒラヒラと振ってくる。
繁華街の商店街の中にある、有名なコーヒーチェーン店でのひとコマだ。
またコーヒーかと?
失敬な。なにも俺は勤務時間中喫茶店ばかりはしごしてるわけじゃない。今日は休みだ。
「しっかり読書に勤しんだわ」
「ゴメンて。さて、行きましょう」
凛は、ゆったりソファーに座った俺に恭しく(うやうやしく)頭を下げた。
対して俺は、味気ない普通のアイスコーヒーが入ったプラスチック容器をカラカラと振って応えた。さながら出発の合図だ。
コーヒー一杯も充分に飲めたと暗にイヤミを言っているのはしっかり伝わったようで、俺はニンマリ笑った。
片手に納まっていた本は既に鞄の中。俺はよっこいしょと立ち上がって、身体のわりに小さな鞄を身体から斜めに通した。
ふたり揃って自動ドアをくぐって外に出る。
外は商店街特有の熱気でやたらと息苦しく感じた。いつぞやの外回りでの息苦しさが甦った。ちなみに今居るこの商店街は、市内でも南部の繁華街にある。800万に打ちのめされた時世話になった商店街は、市内北部にある別のものだ。
「出る直前に常連さんが来てなー」
「で、俺は30分待たされたと」
「だからゴメンてば」
凛は先を歩きながら、軽く俺を振り返って両手を合わせた。
俺は自分のデカさに物を言わせるように、そんな凛を見下ろした。別に怒っちゃいない。むしろ旨いコーヒーで優雅に普段なかなか手に取る時間のない本が読めてご満悦だ。
俺の両手は行き場を求めて、ヤル気のないカーキ色のカーゴパンツのポケットに行儀良く収まっている。半袖とはいえ黒のポロシャツに、身体にピッタリ沿う小さめの鞄を斜め掛けにしたチョイスは完全に季節錯誤だったと内心後悔してももう遅い。
世の中はすっかり夏なのだ。
黒で太陽に蒸された挙げ句、それが身体にまとわり付くこの不快感といったら堪ったもんじゃない。
外回りであれだけ苦しんでるにも関わらず迂闊だった。いやいや、休みの日くらいはアタマを使いたくないじゃないか(普段から使ってないと言う指摘は受け付けない)。俺は萎える身体をなんとか引きずって、凛のあとに続いた。
今日はこれから、凛の新しいカフェの見物に行くのだ。
凛は俺の中で、キラキラしてるダチのダントツトップだ。
直哉に似た自信家なイケリーマン気質の凛は、今自分でカフェを経営している。
なぜ東京のベンチャーから大阪でカフェに転職かと訊かれると、俺には巧く説明できない。凛曰わく、尊敬できる恩師に一緒に事業展開を誘われたんだとかなんとか(なんて胡散臭い話だと俺は思っているが)。
一度は東京で営業の端くれとして就職した凛のこの決断力と行動力には、俺は一生かなわない。もとい、俺には一生真似できない。決断力、行動力、というより、度胸、という方がしっくりくるか?
いずれにせよ自分に「やれる」自信がなければできない芸当だ。
就職してからそれまでの自信が木っ端微塵になって久しい俺には、どの道真似できないには違いない。
俺にはできないことに踏み出して、そうして実際に今、凛はこうして巧くひとりで稼いでいる。
「儲かってんけ?」
「まぁまぁ。飲食ももちろんやけど、セミナーとかもっとやってきたいしねー」
春にオープンしてから間もない凛のカフェは、食や健康に関するセミナーも不定期で開催しているらしい。参加者数が安定してきたら定期開催にしたいだとかどうとか。
前職を辞めてからこの春までの2年半は、凛の言う「尊敬できる恩師」の店に勤めていたらしい。この春から、雇われではあるが新店舗を任されるようになったというわけ。
大阪に帰ってきてからの凛は、まるでひとが変わったような健康オタクになった。一体なにに目覚めたのか、甚だ(はなはだ)理解に苦しむ。前職と今の共通点と言えば、どちらもメインターゲットが女性であることくらいだろう。
就労支援と食・健康なんて、俺からすれば畑違いもイイトコだ。
「自分の提供するもので誰かがキレイになってくって、素敵やと思わん?」
最近の凛は決まってそんなことを言う。夢にうつつをぬかすような遠い目をして。
オトコでこんなことを言っても違和感なく居られるのは、中性的なコイツの人柄が成せる技だとつくづく思う。俺が同じことを語ったところで、煙たがられること間違いなしだ。
中性的と言えば、感性だけでなく顔立ちも端正な凛にはコイツ目当ての女性客も多い。聞けば以前の店では番号を訊かれるのは日常茶飯事で、告白されたのも数回、そこから凛目当てに今の店に流れてきたリピーターも居るんだとか。………確かに、芸能人に居そうなんだよな。雰囲気的にはあの8人組で関西出身の歌手グループのメンバーのMCが得意な……なんて名前だっけ。ド忘れした。
「どぉぞー」
世間一般に言う「目の高さ」だけ曇りガラスになった正面のドアと壁から伺い見れたのは、ウッド調で落ち着いた雰囲気の店内(ただし曇り部分より頭ひとつ飛び出た俺には、いつもこのテの外装の店は店内が丸見えだ)。
凛のあとに続いて入ると、大きな一枚板でできたカウンターが印象的だった。
店内には入って直ぐのテーブル席に中年の女性客がひとりと、カウンター奥の4人掛けのテーブル席に高校生くらいのふたり組みが陣取っていた。
手前の女性はホットの飲み物片手に読書(気が合いそうだ)、奥のふたりはわりと大きい声で喋りながらポーチを広げて開店準備(と言う名の化粧)をしている。こちらは店内の空気もよまずにテンポ良い会話を繰り広げている。どうやらつけまつげがウマく付けられないらしい。ガキがイキってなにやってんだか。化粧なんて社会に出てからで充分だろうに。
そもそもそんなにムードも空気も関係ないなら、こんなトコでなくファミレスにでも行って頂きたいものだ。あるいは自宅に引っ込んで頂くか。
「ハナちゃん、お疲れさま」
「お帰りなさい、凛さん」
凛はそんなこんなもさして(当然だが)気にする風もなく、店員に声をかけた。
カウンターの向こうのハナと呼ばれた小柄な店員は、小首を傾げてにっこりと笑って応えた。ついで俺を見上げて小さく会釈した。彼女も凛と同じく、白いシャツを着ている。その下には黒のキャミソールが透けて見える。
そんなことで夏だなぁなんてしみじみ思ってしまう俺だが、決して下心はない。3年彼女が居なくても、それくらいの情欲は制御できるイイオトナだ。
ウッド調の中にこのふたりの格好はとてもスッキリしていて、かつ店内を見回して直ぐに店員と判る存在感があって好感が持てた。
「待たせたお詫びにご馳走するから、何か食べてってや」
気付けば彼女と同じくカウンターの向こう側に入って行ってしまっていた凛は、腰に黒いエプロンを手早く巻ながら左手のショーケースのケーキを見た。
「甘いんは遠慮しとく」
ケーキなんていつから食ってないか。
「うちのチーズケーキは甘ないって。オススメのほうじ茶と一緒にどぉぞ」
ニコニコやたらと嬉しそうに凛はショーケースに手を掛けた。
どうせ自分の奢りだからと、俺の意見はあまり採用されないらしい。だが凛のこのリードは押し付けがましくなくて、昔からなぜか居心地が良い。高校時代は常に誰かを引っ張ってきた俺だが、最近の俺はすっかり受け身な気がする。
自分のこのフワフワした、けど誰かにつなぎ止められた感じもひどく安心した。
「………」
脳裏に茜が、浮かんだ。また。
「はい、どぉぞ」
コトッと目の前に置かれたのは、チーズケーキに黒い粒々が散らばった灰色のクリームと彩り程度のミントが添えられた皿。
「なに、このクリーム」
「黒胡麻入りのホイップクリーム」
「………」
得体の知れない代物に少したじろいだ。
だが確かに、黒胡麻とほうじ茶は相性が良さそうだ。
「リクルートスーツ着て一緒に躍起になって就活してたのになぁ。…なんでケーキ?」
「ケーキは女のひとを幸せにできるで」
凛はその端正な顔立ちで、茶目っ気たっぷりにウィンクを寄越した。コイツだから許される。オンナウケの良いこの中性オトコの相づちのバリエーションの多さが少し羨ましくなった。
「文系の学卒なんて腐るほどおって、就活はめちゃめちゃ苦労したのにな」
「ほんまやで。あの頃はとにかく、仕事探すのに必死やった」
凛はふふっと笑った。当時の自分のリクルートスーツ姿を思い出すように。
俺は自分を皮肉るように笑った。鼻息混じりに唇を片方だけ持ち上げて。
確かに文系の大学生なんて、世の中五万と居る。その大多数が、俺みたいにやりたいことも見つからずにのらりくらりと(概ね)4年間を過ごしてきた輩だろう。
俺は社会に出てから、やりたいことのない、目指すことのない、夢のない自分にほとほと疲れ果てている気がする。
「けど今は、やりたいことばっかりで毎日考えんのが楽しいで」
言ってみたいセリフだ。心の底から。
「大学って、将来自分がやりたいこと見付けるために行くもんやったんかもな。俺は最近やっと見付かったけど」
「そんなん考えたこともなかったわ。だいたい高校ん時はバスケバカやったし、そん時は大学に行くんしか世の中道ないと思ってたし………」
チーズケーキにフォークを突き立てて、一瞬言いよどむ。
そう、俺は他の道なんて考えもしなかった。
大学進学が正だと疑わなかった。
卒業したら大企業に就職してサラリーマンになる。
安定した生活はそれしかない。
家族のために毎日あくせく働くサラリーマンの親父みたいになる。
それが将来生きるための、絶対で唯一だと信じて疑わなかったから。
だからバスケだってプロにはならなかった。
だから大学進学した。
だがそれは正しい見識だったのか?
………俺は今、幸せか?
「高校ん時なんて、みんなそんなもんしょ。とりあえず進学、みたいな」
手持ち無沙汰を紛らわすようにショーケースを布巾で磨きながら、凛は言った。
聞きながらチーズケーキを口に運ぶ。確かにあまり甘くない。
「小さい頃から夢があって、しかもそれを思い続けて叶えるひとなんてめったにおらんて」
「………」
思い出した。
チーズケーキが喉に引っかかった。口の中に広がるねっとりとした感触も今はわずらわしくて、ホットのほうじ茶を多めに含んでまとめて飲み込んだ。おかげで昼下がりの重たかったアタマもやたらクリアになった気がした。
脳裏に茜の黒髪が揺れた。
「………おったよ。そーゆーオンナ」
「え?」
「高校出たら短大行くって」
そう、あの時。
「短大で教養つけてから、専門学校行って即戦力のスキル身に付けたいって」
あの長い影が伸びた夕陽の中で。
「それからデザイナーになるんやって」
夢を語った。
「それ聞いて俺は、――――………」
なんて言った?




