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アイスコーヒーに見る影

「あかーん。しくったー」


萩野哲平、26歳。

俺は最近じゃそのポジション自体が珍しい綺麗な受付嬢ふたりの丁寧なお辞儀に押し出されるようにして、うだるような暑さに煮詰まるアスファルトに踏み出した。

無常にも自動ドアが愛想もなく静かに閉まって、さっきまで凍えそうだった冷気を幸か不幸か完全にシャットアウトしてくれた。一気に冷や汗にも似たじっとりとした汗が滲み出す。暑い。

荷物を地面に躊躇なく置いて、忌々しいジャケットをヤル気なさMAX気だるさ全開で脱ぐ。イキッた高校生よろしくそれをバッサリ右肩に担いで空を仰いだ。

さっきまで居た背の高いビルが、我が物顔で空を独占してギラつく太陽を絶妙な角度で遮ってくれていた。


「ぁー………茶、しよ。」


中身がA4の紙切れただの一枚も減らなかった重たいビジネス鞄をぎしりと左手に握り直して、近くの商店街(の中にあるだろう喫茶店)目指して歩き出した。

通り過ぎるパン屋の悪趣味な電工板のデジタル時計をみると、たらふく胃に押し込んだ昼食をとってからまだ1時間も経ってなかった。




新卒で今の会社に就職して4年。

俺には全く潤いがなかった。


まず彼女がいない。

元カノに3年前の誕生日にフラれてから、オンナとの縁はすっかり切れて久しい。

ってか誕生日にフるってなんだよ、高校生じゃあるまいし。…まぁ、何をどう言ったって負け犬の遠吠えだがな。


つぎに仕事がしこたまイケてない。

ヘタレな俺は、超が付くほどの安定を求めて世間一般に言う今の「大企業」に就職したわけだが。安定を求めるあまり、自分の興味関心は全く二の次だった。

自分のやりたいことを仕事にしようなんて考えもしなかったし、そんなの学生の戯れ(ざれごと)だと思ってた。戯れ言の下りは今でもそう思ってるが、ただ周りを見回した時ふと冷たい風が吹き抜けてくような切ない気持ちで思う。


自分はキラキラしてない。


切ないという響きは少々乙女ちっくだが、俺にはその気は全くない。

言い換えればそれは、虚しさだったり淋しさだったり、要は満たされてないんだな。


満足してない。


ウキウキ楽しそうにやりたい事を好きなだけやっててめぇで食ってるダチを見てると、心底羨ましくなる。


俺にもそんな仕事があったのか。

俺にももっとピッタリな仕事があるんじゃないのか。

今の仕事でヘマをする度に自問しては、けどこの不況不況と騒がれる世の中に転職なんて無理無理無理無理…と自答する。


そもそも俺にはヤツらみたいな「やりたいこと」がない。

これは致命的。

まるで救い出しようがない。


そうして最後は現状に落ち着く。

動かない。


そんな自問自答もかれこれ4年。

結局俺は、日々悶々と悩みながらもなにもできずにいる。

………とんだヘタレだ。




さて、ここで冒頭のひと言について解説しよう。

やっちまったのだ。

ヘタレな俺は、社会人4年目にして客先で大失態を侵した。

やっとの思いで漕ぎ着けた大口商談で、何を思ったか大事な提案書を忘れた。場数を踏んだ先輩らならどうにでもするんだろうそんな場面で、けど俺はアタマの中身までデスクの上に置き忘れてきたように絶句した。

そのあとはもぉ、ひどいのなんの。

あとはご想像にお任せします、ハイ。


場数が足りない。

だから不測の事態に免疫がない。

だから対処仕切れずイタい目に遭う。


先輩らにめちゃめちゃ資料もらって死ぬ気で切り張りして(パソコンの画面で)作ってたのに。


いや違う。


大事な提案書を忘れたのがイタかったんじゃない。忘れた事実に動揺し過ぎたあとの無様な俺がイタかった。ぁー終った。俺の800万………。


上半期も中盤の今、数少ない大口商談でやらかした俺は自然とうつむき加減で歩みを進める。

日陰を歩いているわけだが、太陽はまだまだ高い。湿気で呼吸さえもしにくい気すらしてくる。精神的ダメージはかなりの重症だ。


「…あれ。哲平?」

「んぁ?」


頭の先から靴の裏まですっかり蒸されて身も心もミイラになって歩く俺の、ほんの目と鼻の先から声がした。不意打ち過ぎてマヌケな声が出る。

鼻から魂まで抜けたような自分の声の向こう側には、襟ぐりの返しボタンが印象的なシャツがあった。

白地にピンクっぽい紫の細幅ストライプに黒ボタン…が、やたら多い。タテに2個続きの黒ボタンが等間隔に4箇所。留めんのダルそう。


いやいや違う。


顔だよ、顔。

そこからゆっくり目線を上げて、声の主に対面することわずか1秒。


「直哉?ぇ。マジで!?」


なんて安っぽいセリフ。

「ぇ。」が「げ。」に聞こえたかも知れないのはこの際ご愛嬌。ってかなんでこんなトコいんだよ。市内の繁華街駅ひとつ向こうだぜ。

ぁ、けどオフィス街だからスーツ姿なら居ても不思議じゃないか…。

突然狭い歩道の真ん中で立ち尽くした無駄にデカい俺に、後ろから来たママチャリが容赦なくベルを鳴らして器用に俺と街路樹の間をすり抜けて行く。


チャリは車道を走れ、バカヤロー。これだから大阪のババァは…。


当のオシャレシャツの主は、八重歯が光る爽やかな笑顔で俺を見た。服装の趣味が合わないのは相変わらずだ。

コイツとはなんとなくソリが合わない。

昔から。

仲が悪いわけじゃないが、なんとなく相容れない。笑いのツボも合わない。お互い踏み込んだ話なんてしたことない。そんなヤツ。


手には少し大きめの手帳にこれまたシャレたボールペン。モスグリーンのチョイスはなかなかシブい。

どうやら歩道の端で手帳に何やら書き込んでいたらしい。顔を上げたら突然デカい俺が目に入った、そんな感じのフリーズ具合だった。


(俺からすれば)ダメにする頻度が高い消耗品上位のシャツはともかくとして、イイボールペンを使ってるのには好感を覚える。客先に一筆頂く時にも差し出すボールペンは、イイモノを使いたい主義だ。


なんとなくソリが合わない。

けど感性はキライじゃない。

そんな高校のバスケ部で一緒に闘った同志との、実に8年ぶりの再会だった。




「ほんと久しぶりだな。今なにやってんの?」


カランカラン、と渇いたドアベルの音が響く間接照明の喫茶店。

扉を軽く引いて開けた直哉は、それを後ろに続く俺にそのままバトンタッチして迷わず奥の席に進んでいった。


「しがない営業」


間違いない。

(恐らく)つい今し方、800万がこの快晴の青空に羽ばたいて行くのを見たばかりだ。


「ふーん、なんか疲れた顔してるぜ。」


聞いてきたクセ、さして興味はなかったらしい。

鼻歌でも歌い出しそうな軽いノリで言いながら、視線は悠然と暖色系の照明で落ち着いた雰囲気の店内を見回している。俺には一瞥(いちべつ)もくれない。


俺に興味がないならなんでわざわざ喫茶に誘った?

俺は今月中にどっかから800万(相当の商談を)持ってこなきゃなんねーんだよ。

暇じゃねーんだよ………


ひとりでどのみち喫茶店に転がり込む気だった事実は、既に忘却の彼方である。

どっかと座った同志のイケリーマンオーラが、ミイラの今の俺には少々刺激が強すぎる。


「アイスコーヒー」

「俺も同じの」


ヤローふたりの喫茶店にメニューは不用だ。

同席するのが上司だろうが先輩後輩だろうが、外回り中の喫茶店と言えば冬ならホット夏はアイスコーヒーと相場は決まってる。ヤローの休憩に必要なのは飲み物じゃない。ただのひとつもアタマを使わずに無心になってリフレッシュする少しでも長い時間なんだ。

バカのひとつ覚えみたいな飲み会での「とりあえずビール」と発想は似てる。アレは乾杯までの時間を短縮するための暗黙のルールだが。

情景反射的に口にする辺りは、同じと言っても差し支えない気がする。


男ってのは得てして単純な生き物だ。


「それにしても随分久しぶりだなー。卒業式以来?お前飲み会も来たことないもんな?」


直哉の口調はやたらと軽快(に聞こえるのは俺のヒガミかも知れないが)。

コイツ自身は俺と同じ大阪の高校出身だが、親の転勤でその高校から関西にやってきたコイツは標準語を話す。言語差別をする気はないが、コイツのこの喋り方も、昔からソリが合わなく感じる一因かも知れない。

いくらクールビズが叫ばれる昨今といえ(俺と同じ大卒就職なら)社会人4年目にしてノーネクタイノージャケットにこんなイキッたカラーシャツを着こなすこの男、さぞ仕事も巧くやってるものと見える。

昔からコイツは、なにかと要領がイイ男だった。

方や俺はと言えば、会社からはクールビズ推進のお達しが出ているにも関わらず、首もとにはどこにでもある安い斜めストライプ柄のネクタイに隣の座席にはくたびれたジャケット。ビビりでヘタレで自分の仕事に全く自信がない俺は、少しでも沢山のアイテムを装備することで客先に対する守りを固めているわけだ。

せめて格好くらいはビシッとしたい、とも言える。


自分にもう少しでも自信が持てれば、目の前のこのイケリーマンみたいになれるのだろうか。


「それにしても、この暑い時期に暑っ苦しい格好してンのな」


随分久しぶり、の下りはもうイイらしぃ。

アイスコーヒーまでのつなぎとばかりに水をひと口含みながら、直哉はさっさと話題を変えてしまう。やっぱり俺には興味がないらしい。


「カタい感じのがウケ良いねん」


半分嘘だ。

別に服装に左右されるような商売じゃない。だが年齢層が高い個人オーナーが担当の半数を占めるので、ソレが無難だと言っても確かに支障はない。

ただ高校時代の俺を知ってるコイツには、口がさけてもせめて格好くらいは、なんて言えない。

なぜなら、…


「あのイケイケドンドンだった我らがキャプテンが、今じゃ真面目な堅物営業マンか。みんなが聞いたら驚くだろうな」


そうなのだ。

俺は昔からこんなヘタレだったわけじゃない。

昔はこのデカい図体以上の自信があった。いや、自信しかなかった。

インターハイに出るほどの強豪校だったチームを、それこそイケイケドンドンで引っ張った。幸運なことに、メンバーも至極素直に付いてきてくれた。練習がまとまって休みの時には、メンバーで行く旅行を計画したりもした。毎日の練習に加えてチームの運営や諸々はハードだったが、この上なくやりがいがあった。

毎日満たされてた。


「そんなに暑苦しいと、オンナも寄り付かないだろ。昔オンナ(はべ)らせてたのもまるで見る影もないな」


なんでそうなる。しかし悲しいかな、間違いなく今の俺からはオンナの香りはわずかばかりも嗅ぎとれないだろう。

直哉の言う通り、オンナに苦労しなかった昔の俺はもう存在しない。


「オンナなんてもぉずっとおらんで」

「…へぇ」

「?」


直哉の声のトーンが少し落ちた気がした。

腕を組んでゆったりと壁に(もた)れてた直哉は、腕を解いて鞄の外ポケットから煙草とジッポを取り出した。ジッポの絵柄はよく見えないが、百円ライターでないあたりがやっぱりコイツらしい。

小物までいちいちオシャレだ。

ちなみに俺は、根っからの禁煙愛好家。


「そう言えばこの前の年末はアキラに会ったな。あいつ昔は…」


また話題が変わる。

今度はガッツリ昔の思い出話にひとり花を咲かせる直哉への相づちもそこそこに、俺のアタマもポツポツと昔の記憶を呼び起こしていた。


今みたいな真夏に蒸し風呂の体育館。キュッキュ、と床にこすれるバッシュの音に、ドリブルの軽快なリズム。ボールがゴールに吸い込まれたネットの音はとにかく快感で、ハードな練習の合間に流し込む水に生き返ってはまた走り込んで、気付けば練習が終わってる。

練習が終われば顧問とマネージャーとでその日の反省に翌日メニューの打合せ。それから、………


「………」


適当な相づちに連動するようにさまよっていた目の焦点が突然、途中運ばれてきた手元のアイスコーヒーのグラス一点に集中する。

結露の雫一滴一滴が不意に目に飛び込んでくる。

黒いアイスコーヒーの向こう側に、ある場面がフラッシュバックする。


彼女の面影が重なる。


「アイツ、結婚してからは、………」

「………なぁ。」

「は?」


いつの間にか誰々の二次会に呼ばれた、的な話にひとりで盛り上がってた直哉の言葉を遮った。

話の端々からいまだに沢山のメンバーと連絡を取り合ってる風が伺えるコイツに、ダメ元で訊いてみようと思ったのだ。

彼女の居所を。


「茜、今なにしてるか知ってる?」

「茜?今は東京でデザイナーになってるらしいよ」


ついでに訊いてみる。


「連絡先知ってる?」

「………いや、知らない」


最後のセリフは煙草のひとふかしを挟んでから。短く言い終わった直哉は、煙草を灰皿に置いた右手でそのままグラスを持ち上げた。

すっかり薄くなったコーヒーをストローで数回かき混ぜてから、残りのひと口を一気に飲み込んだ。


「そっか」


俺も残りを一気に片付けにかかる。

相手の飲み物が空になったら、いつでも出られるように自分の飲み物も早めに空にする。夜の宴会では継ぎ足してナンボのグラスも、昼間は退席の合図に変わるように思う。


「ぁ。全然話変わるけど、お前の周り、結婚してるひと居ない?新婚だとなお良し」

「既婚者?なんで?」


別に話題が変わるのは気にしない。さっきからコイツの話題はひとところに留まっちゃいないから。

だがその昔話から一転してのピンポイントな問い掛けには引っかかった。


「俺、今保険営業やっててさ」

「で?」

「売り込みしたくて」


で、既婚者?腑に落ちない理由だ。営業かけたいなら、今この時間に友だちとしてさして興味がないこの俺を口説くこともできただろうに。

なんでそこをすっ飛ばして、しかも既婚者を狙うのか。


「俺には売り込まんねや?」

「独身のヤローなんかに保険は要らないよ」


曰わくヤローが死んでも経済的に困る人間は居ない、が理由らしい。それよりも最愛のパートナーになにかあった時の安心を売りたい、とかなんとか。


アツく仕事の話をする直哉は、そのいちいちオシャレな小物たちによって更にキラキラして見えた。


「ま、けど医療保険くらいは入っててもイイかもな」


そう言うと直哉は、鞄の中から医療保険とガン保険のパンフレットを取り出した。自分の名刺を重ねて机の上を滑らせた。名刺には、CMでもお馴染みの保険会社のマーク。

ちなみに名刺入れは、若者定番のブランドの定番のタグがチラリと目に入った。

定番アイテムだったことに少し残念な気持ちになった自分を心の中で笑った。


「また見とくわ」


多分(いや絶対)見ない。

けど愛想程度に渡されたパンフレットをパラパラと(見るフリをするために)めくってから、さっさと自分の鞄にしまった。

俺のその動作を合図に、じゃぁそろそろ、とふたりほぼ同時に席を立った。

会計を済ませて渇いたドアベルの音に見送られて、「じゃあな」とジャケットを抱えた右手を上げてさっさと直哉とわかれた。

「またな」なんて言わない。

別に「また」会う気なんてないから。


けど最後の、仕事の話をする直哉にはまた会いたい気がした。

人間であれば誰でも客になる保険の仕事で、でも「安心」を売りたい相手を語った。

やっぱり直哉の感性はキライじゃない。

とはいえ、同じスーツ姿のサラリーマンでもこうも変わるものかとため息が出そうになる。


「………事務所戻ろ」


重たいため息を飲み込むべく、また空を仰いだ。

さっきより少しだけ目に優しい青空。足元の影は、さっきより少しだけ長くなってる気がした。

さっきより少しだけ軽い足取りで、俺はすっかり太陽に蒸された街に戻った。





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