第七章
翌年、我々は徐州、下ヒで呂布軍を包囲した、
暫く膠着状態が続いたが水攻めをして暫くのち、敵将三名が敵参謀の陳宮を縛り降伏してきた、
そして、呂布も立て篭もって粘っていたが、諦めたのか我が軍に降伏し、徐州に久方ぶりの平穏が戻った、
そして、曹操様は客将、劉備殿などと相談なされ、呂布、陳宮、猛将高順などを斬首にされ、張遼殿を登用なさった、
そして曹操様が地盤固めをなさっている頃、北の袁紹が遂に公孫サンを破り北を統一し、中華全土の半分ほどの土地を手に入れられた、
そして、袁紹から兵糧などを借りたいと、とても横柄な文の手紙が届いた、
傍目から見ても、袁紹との対決は避けられないように思えた、
だが、出鼻をくじく事件が起こる、
劉備が後方の袁術を攻める、と曹操様から兵を借り討伐に向かったのだが、なんと劉備は新しい徐州刺史を殺害し、反乱を起こしたのだ、
なんと恩知らずな…
呂布に攻められ困っていた劉備を助けたのは我が殿だったと言うのに…
おそらく劉備は袁紹に対するため、兵を動かせない、と読んだのだろうが、電光石火、我々は劉備を討伐し、敵将の関羽が我が方に降った、
また、宛の張繍と賈クも我が方に降ってきた、
殿は過去のことは水に流され、大いに喜ばれた、
また、袁紹の備えも着々と進めていった、
そして、決戦の時は来た、
仕掛けたのは袁紹、
袁紹は猛将顔良に我が方の城を攻めるように命じた、
守将は劉延と言う将、
よく知らない名だが敵は顔良、孔融殿が武の代表にも上げたほどの猛将、役不足は明らかだろう、
無論すぐに曹操様は救援の将を送られた、
先鋒に呂布軍の降将張遼と、劉備軍の降将、偏将軍に任命された関羽、
共に勇猛で名を馳せた将、
確実とは言い難いが充分対抗できるだろう、と思った、
だがそれは裏切られた、
関羽、張遼の両名はすぐに戻って来た、
…顔良の首を手に、
話を聞くと関羽は顔良が近づいてくると一刀の元に斬り殺したという…
ただし、顔良は手紙を懐から取り出し関羽に話し掛けようとしていたという、
だが、油断していたのは同じだ、
戦場で敵将に話しかけるなど愚かな行為、だ、
何かわけがあろうとも…
死ぬか生きるか…それが戦場のはずだ、
…とにかく、顔良は散った、
だが、すぐに袁紹は新たな将、文醜を繰り出して来た、
文醜も孔融に顔良と共に武の代表として上げられている猛将、
それは我が軍本隊が前線に着いたとき、現れた、
まだ戦場に着いたばかりで陣地構築が出来ていない我々に文醜が騎兵隊を率い、急襲して来た、
我が軍は散々に打ち破られる、
ようなことにはならなかった、
呂布軍水攻めを献策した参謀の荀攸殿が瞬時の判断で輸送隊を囮に文醜を引き付けさせ、文醜が混乱した際、軍を率い攻め立て、見事文醜の首を挙げられた、
こうして袁紹は二人の大将を失った、それでも袁紹軍は引かず今度は袁紹自ら兵を率いてきた、
我が軍も応じるように軍を率い、官渡で河を挟み袁紹軍と対峙した、
私は最前線、延津の守備に志願し、延津の守備についた、
決戦は間近に迫る、
時に西暦200年のことである、