急(下)
やがて、居ずまいを正した晴成は、「じゃあ、いくよ」と一声発して、文の内容をそらんじ始めた。
友房も手に筆を取り、書家として、静謐な気持ちに切り替える。
玲瓏のような晴成の声が、ちいさく、しかし、はっきりと友房の耳に聞こえてきた。
「ずっと前から、あなたを想っていました。けれど声をかけることができず、ただむなしく月日を過ごしておりました」
(かねてより、ただひとへに君を思ひたてまつりておれども、言の葉にいはむことも叶はず、むなしく年月をのみ送りはべりぬ)
「あなたのことを思わなかった日など、一日たりともありません。宮中でお姿を見かけると、つい職務を忘れて目で追ってしまいます」
(君を思はぬ日、いと一日も侍らず。御殿にて君の御姿を見奉れば、つひに職の手も忘れて、まなこにて追ひたてまつるばかりにて候ふ)
「朝には、日が昇るたびに、あなたのご無事を願います。夜には、月が照らすたびに、あなたの平安を祈ります」
(日の光のさし出づるには、君の御安けきことを願ひ、月の影さし出づる夜には、君の御平らけきことを祈り申すなり)
ここまで書いて、友房は急に我に返った。
なんだこれは。なんでオレは、こいつの恋路を手助けしているのだ。
オレ以外のだれかに、晴成を取られていいのか。そう思った友房は、筆をおこうとして、できなかった。
それどころか、晴成の言葉を文にする友房の手は止まらなかった。
なにかがおかしい。
友房は、晴成の顔を見た。しかし、晴成はそんな様子をちらりと見ただけで、再び口を開き、そらんじはじめる。
(咒言か――! 陰陽師の言霊! それが、オレを絡め取っているのか!)
友房は、満身の力を込めて、筆を止めようとした。
だが、筆は止まらない。ぐぐぐ、と筆の運びがひどくみだれて、すざまじき筆致となるが、手が止まらぬ。
やめろ!と叫ぼうとしたが、まるで声を失った者であるかのように、一言も発することができない。
いつの間にか、雨が降り出した。
空に黒雲が沸いたかと思うと、ぽつぽつと雨粒が降り始め、やがて、本格的な雨となる。
「……あなたとの恋が成就するか占おうとしたこともありました。しかし、もし凶と出てしまったならと思うと、恐ろしくて……」
(……かの御恋の成就を卜ひ奉らむと思ひはべれども、もし悪しき卦の出で来むことを思ふに、いと恐ろしくて、さしもはせず……)
友房の全身に、どっと汗が流れる。
手はどうやっても止まらない。声も出せない。ただ自分は、こいつの言うがままに文字を書かされている。
恐ろしい――これが陰陽師の思いの力か。
こいつは、3月もの間、これだけの思いを持って、文字を式神に変じさせ続けてきたのか。
そこでふと友房に疑問がわいた。3月の間、仮名を散らしたときに生まれた式神は、どこへ消えたのだ。
式神が、主人の願望を成就するために立ち働く見えない鬼だと、友房は聞いたことがある。
だとすれば、式神たちは、主人の思いを届けるために、相手のもとへ行っているのではないか?
相手には、すでに晴成の気持ちが届いてるのではないか。
ならば、この文に、いったい何の価値があるのか?
そんな友房の思いなど気にも留めず、晴成は思いの丈を言葉にする。
「あなたは私の心の支えです。もしあなたがいなければ、私は宮中で務めを果たすこともできなかったでしょう。私を導き、助けてくださるあなたに、感謝をしてもしきれません」
(君こそ、わが心のよるべなれ。君なくば、わが身、いかでか一日も宮仕へを堪へ侍らむ。常に導き、助け給ふこと、かぎりなくかたじげなく存じ候)
ここで、晴成が一度、友房を見た。そして、ふぅ、と思い詰めたように息を吐く。
その瞬間、友房の戒めがわずかに解ける。
「やめろ!」
そのわずかな隙に、友房は叫んだ。「これ以上はやめろ!」
それは、咒言の恐ろしさが身に染みたのか。それとも、再び燃え上がった嫉妬心によるものなのか。
友房は自分でもそれが分からず、ただ、叫んだ。
「どうして」しかし、いつもと様子が違う晴成の、底冷えのする声が返ってくる。
「もう一言で終わるんだ。だから、頼むよ――」
そして晴成は、言葉をつづけた。
再び、友房は金縛りにあったかのように、身が硬直した。
震える手で筆が動く。
「さるは、賜りし香のかをりは、我が宝にてこそあれ」
(さて、このたび賜りました香のかおりは、まことに私の宝でございます)
「それが名をも、今一度お聞かせ賜はらば、同じ香をおくりて、君とともにありたくこそ候へ」
(その名を、もう一度お聞かせいただけましたなら、私もまたその同じ香をあなたに贈り、あなたとともにありたいと存じます)
「橘の花の薫りし比に」
(――橘の花のかおりし5月の末に頂いたあの香を……!)
ざぁ、と一段激しく雨が降りはじめた。
――謀られた。
友房は、そこですべてを察した。水無月からの夢は、これが正体か――。
友房のこめかみに、ひやりとした汗が一筋。
そんな友房の耳元に、晴成は口を寄せ、
「そうだ。たしか、恋文には、和歌を添えないといけないんだったね」
そういってから、
「日も月も 君をぞ祈る たちばなの 香の薫りを 誰にかは知る」
とささやいた。
◇
やがて、雨が止んだ。
日の光が、濡れた庭を照らしている。
咒言の解けた友房は、全身あせみずくになって床に手を突き、ぶるぶると震えていた。
恐怖。恥辱。憤怒。そして、歓喜。一言には言い尽くせない複雑な感情が、彼をがんじがらめにしていた。
そんな友房を見ながら、晴成は「やり遂げた!」と言わんばかりの顔をして、盆の干し柿をのんきに口にしている。
「……お前なぁ!」
正気を取り戻した友房は、晴成に食って掛かろうとして立ち上がり、脱力して、その場にへたり込んだ。
これは、咒言の力ではない。験力に当てられて、精も魂も尽き果ててしまったのだ。
それでも、自分でも情けないと感じる弱々しい声で、晴成に抗議する。
「……いったい……どういうつもりだ!」
「どうもこうも」晴成は、2つ目に手を伸ばす。
「童の頃から、僕はキミに懸想してた。ただ、ずっと、キミは気づいてくれなかった。さみしかったよ。でも、皐月の節会の後、僕を見るキミの目が変わった。だから、行けるかなって思って。文を書こうとしたのは本当さ。だけど、見てもらった通り、書けなかったんだ」
なんと。晴成は、ずっとオレのことを見ていたのか。
もっと早くに、気づいてやれればよかった。
友房の狼狽ぶりなど気にも留めず、晴成は、
「――それに、僕は、僕の言霊を、キミ以外の他の誰にも聞かせたくなかったんだ」
そして、あどけないような、あざといような顔をして、笑った。
その顔は、雨上がりの夕日に照らされて、とても美しかった。
友房は、そのとき、心の臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
「くそっ!」
友房は、気合を入れて再び立ち上がる。
そして、今しがた書いたばかりの文を乱暴にぐしゃっとふんだくると、
「帰る!」
どすどすと足音を鳴らして、廊下を歩き始めた。
「文は、ちゃんと届けてくれるよね?――あと返歌も、貰えるよね!」
歩き去る友房の背中に、晴成の言葉が投げかけられた。
友房は、一瞬だけ歩みを止めた。
そして、振り返りもせず一首――。
「日も月も あめの晴れ間に 照り映えて こころすがしき 橘のかをり」
――季節外れの橘の香りが、どこからともなく流れてきて、2人を包むのだった。
◇ ◇ ◇
お読みくださりありがとうございました。