破(中)
まさか、友が自分に代筆を頼んだ内容が、恋文だとは。
「お前、間違いは、ないのか?」
「何度も言わせないでくれ。だ、だから、恋文だと……いってるだろう」
晴成は、声を震わせて友房に告げる。
「いや、それはわかった。だがな……」
友房は、手酌で菊酒を汲み、一息に呑んだ。
恋文だと聞いたとき、実は友房は、わずかに心がざわめいた。
まさか、こんな真っ白いうらなりに、恋心があったなんて。
いったい誰に懸想しているんだ、そう考えると、少しざわめきが大きくなった。
友房は、それをごまかすために、もう一献、酒をあおる。
そして、少し酔った口調でぞんざいに友に告げた。
「自分で書けよ、それぐらい。あ、それぐらいじゃないな。それだからこそ、自分で書け。な」
すると、晴成はふるふると頭を横に振った。
「書きたくでも、書けないんだ」
「どうした。まさか、文才がないとは言わさんぞ」
「そうじゃないんだ。僕だって、書けるものなら自分で書きたい。ましてや、一番の友人であるキミに書いてもらうことも、本当は恥ずかしくて寿命が縮みそうなぐらいなんだ。それを敢えてお願いしているわけだよ」
「なんだよ。だったら、そこまで思っているんなら、ますます自分で書けばいいじゃないか」
「……まあ、見てもらえればわかるさ」
何か観念したかのように、晴成は文机を寄せ、筆を執った。
友房は、晴成の背後から覗き込んだ。
(かねてより、ただひとへに君を思ひたてまつりておれども、言の葉にいはむことも叶はず、むなしく年月をのみ送りはべりぬ……か。ずいぶんとかわいらしく、素直な内容じゃないか)
さらさらと、たおやかで美しい文字が、紙の上に現れてくる。
まるで女のような文字だ。しなの効いた優美な線が、ふわふわと筆の先から生れ落ちる。
(こいつらしい、はかなくをかしき仮名を散らす)
と、友房が感じ入ったその時である。
「――!」
友房は、思わず手にしていた盃を取り落としそうになった。
「文字が、浮かんで」
友房は我が目を疑った。
晴成が書きつけた文字が、すぅ、と紙から空中に立ち上ったのだ。
それはまるで香の煙のように、晴成と友房の周りを巡るように漂い、やがて消えていく。
晴成が書いた端から、文字が墨流しのようにたなびいて、友房の裾にまといつくようにして、消える。
文を書いたはずの紙は、元のままの白紙だった。墨の跡すらない。
「僕の力が、こうさせるんだ」
泣きそうな顔になって、晴成が友房を見た。
「陰陽師であるが故に、強い念がこもった文字は、たちまち式神となって宙に消えてしまう」
これを見て、うーん、と友房は唸った。
「陰陽師の験力は、思いが強いほど、強く作用するんだ」
「こいつは……」
「毎夜文机に向かっているけど、もう三月も、思いをしたためられないでいる」
三月。水無月か。こいつは、三月も前からこんなことをしていたのか。
「だから、頼む、友房。僕の代わりに文を書いてくれないか」
筆をおいた晴成が、友房の手を取った。晴成の指は、か細い、女のような手だった。
晴成のひんやりとした指が、友房の手を絡めとった。
友房は、晴成の肌がまるで乙女の絹肌にも劣らぬことに驚きつつも、心中穏やかではなかった。
こいつ、いつの間に、そんな思い人を。しかも、三月も前から。
心のどこかに、何やらもやもやとしたものが湧き上がる。
子どもの頃からともに過ごしてきたオレには何も言わず、こいつはこっそりだれかに懸想している。
オレが、お前に、気があることなんて知りもしないで。
そう考えると、友房はなんだか無性に腹が立ってきた。
「……相手は、だれだ」
かすかに震える声で、友房は呻いた。
この声の震えは、嫉妬心か。いや、違うはずだ。違っていてほしい。
「言えない」
もっと震える声で、晴成は返す。
その返答に、友房はさらにいらだった。
そこで友房は観念した――ああ、これは、嫉妬心だ。
こいつに懸想された奴がうらやましい。それは、いったい、誰なんだ。
「言えよ。オレとお前の仲だろう? それに、相手の名も聞かねば、書きようがない」
「言えないんだ」
晴成の煮え切らない答え。
かっとなった友房は、手近にあった菊酒の入った銚子をつかむと、腹立ちまぎれにそのまま口をつけてぐいっと飲む。
行儀の悪さに、晴成が目を見開く。
「飲め」
そして、友房は、手にした銚子を晴成に向けた。晴成は、体をこわばらせて狼狽した。
その刹那。友房は晴成へにじりより、彼をぐい、と胸元に抱き寄せると、その口に銚子を押し付ける。
「や、やめ……」
「飲め。話はそれからだ」
友房は、晴成の桃のような唇を銚子の先で乱暴に押し割って、口内に白酒を流し込んだ。
どろりとした濁り酒の強い甘さで、晴成は思わずむせる。
しばらくむせた後、
「ひどいなあ……いきなり」
晴成の潤んだ瞳が、友房を見上げた。親犬とはぐれた子犬のような顔をしている。
「うるさい。お前、しなしなくねくね、まるで箱入り娘かよ!」
「なんだよ! 友房。キミは、キミだけは、僕のことをわかってくれると思ってたのに!」
「わかってるよ。わかってるさ! ……だから、お前がオレに何か隠していることが、たまらなく、厭だ」
友房は、言葉では晴成を責めながらも、顔はお互いの吐息が触れそうなまでに近づけていた。
そして、じっと、晴成の瞳を見る。
(さても。なんとかなしくうつくしきことよ)
友房がそんなことを思っているなんて露知らず、晴成は、顔を赤くしたまま、なおもうじうじした様子だった。
顔が赤いのは、酔っているのか、他に理由があるのか。
「だって……キミにそれを言うのは、とても、恥ずかしいことなんだ」
友房は、晴成が絞り出した台詞の、なんと覇気のないことに呆れ、毒気を抜かれた。
そして、己の中の嗜虐心と独占欲が混じった怒りの炎が、急に馬鹿らしくなっていくのを感じた。
「もういい、わかった。聞かないでおいてやる」
「それにしたって、もうちょっと優しくしてくれてもいいじゃないか」
友房の腕に捕まったままの晴成が、しょんぼりとした顔でそういうと、友房は、ふっと笑った。
「さっきのは、オレの問いに応じられなかった罰杯だ」
友房は、晴成の襟首から、まだ例の香の薫りがするのを確かめると、晴成の背中をばしばしと叩いた。
「よし、書いてやろう。だが、文を届けるのも、オレの仕事だ」
そして、心中わずかに残った嫉妬の炎をちろちろとさせて、そう言った。
晴成はそんな友房のかすかな嫉妬に気づかなかったのか、胸をなでおろして「よかった」と大きく息をついた。