伯爵夫妻、デートに行く⑤
公園の散策を終えて大通りのウインドウショッピングを楽しんだ後、待機していた馬車に乗ることになった。
「次の目的地は、徒歩ではかなり時間がかかります」
「どこに連れて行ってくれるの?」
カミラが問うと、ルークは「建設途中の施設です」と答えた。
「かなり大規模なものなので、案自体は先ほどの公園よりも前に上がりましたが着手したのは二年ほど前で、まだ土台を造っている途中です」
そうして馬車が向かったのは、街の外壁手前だった。その近辺はまだ更地が多く見られ、ルークの言うように大きな建物の土台らしきものが造られていていた。
ここではさすがにルークも名乗ることにしたようで、クライドが現場監督責任者を呼ぶと、しばらくしてやってきた彼は馬車から降りたルークを見て、平伏せんばかりに頭を下げた。
「ごきげんよう、伯爵閣下!」
「いつもご苦労。今日は妻を連れてきた」
「なんと! 噂の奥様ですか!」
ルークに手を引かれてカミラが馬車から降りると、責任者だけでなくその場にいた他の作業員たちも「おおっ!」と感嘆の声を上げた。
「噂通り、お美しい方だ……!」
「お初にお目にかかります、伯爵夫人!」
「ようこそいらっしゃいました!」
皆が口々に言うのでカミラが笑顔で手を振って応えると、またしても「おおっ!」という声が上がった。
「妻にここの案内をしようと思う。皆の作業の邪魔にならないように気をつけるので、大目に見てほしい」
「滅相もございません! 案内の者は――」
「ありがとう。だが私の口で説明したいから、不要だ」
ルークは責任者の申し出に丁寧に応じ、泥だらけの作業員たちにも軽くうなずいてみせた。カミラも夫に倣って皆に軽く会釈して、ルークと並んで現場の見学を始めた。
(ルークは、作業員の皆様にも慕われているようだわ)
だが、考えてみればそれもそうだろう。
汗と泥にまみれる作業員たちを、ルークは軽んじたりしない。皆の言葉にきちんと応じ、励ましている。きっと彼はこれまでにも何度も自らここに足を運んでいるのだろう。
「……完成はずっと先になるでしょうが、ここには複合施設を建てる予定です」
「複合?」
ルークが話し始めたので彼の方を見ると、ルークはうなずいてから造りかけの土台が広がる現場に視線をやった。
「これまでに前例がないので、一言で表すのは難しいのですが……孤児院や就労支援施設、学校や治療院などを合体させたようなものです」
「……」
「ベレスフォード伯爵領には、孤児院がない。だから、身寄りのない子どもを受け入れる施設が必要で、彼らに適切な教育を施し就労を支援する場所があるべきです。また個人経営の薬屋のみでは心許ないので、治療院もほしいと思っていました」
「それらを合体させたものを作ろうと?」
カミラが問うと、ルークはうなずいてからカミラの方を見てきた。
「……私は、修道院で司祭を務めていたあなたと出会った。あなたは尊き御身でありながら自ら率先して動いていらっしゃった。修道院に預けられた子どもたちの世話をして、私のように負傷して担ぎ込まれた者に治療を施し、日常生活を送れるようになるまで支援してくださった」
「……それは、司祭として当然のことよ」
「あなたならそう言うと思っていました」
ルークは土台の方を手で示した。
「私は、あのときあなたが与えてくれた無償の愛に報いる方法を考えました。あなたは私に治療費を求めず、私が大人になったときに周りの人を助けるように、とおっしゃいましたよね」
確かに、司祭時代に助けた人たちに治療費の支払いを申し出られると、そう言って断るようにしていた。
それはカミラが金銭を求めない善人だったからではなくて修道院のマニュアルとして決まっていたからなのだが、ルークは二十年以上前にかけられたその言葉をずっと心に抱えていたようだ。
「そうして考えついたのが、この施設です。寄る辺のない人を掬い上げ、適切な処置を施し、本人が望むなら就学や就労の支援をする。……これこそが、あのとき出会った司祭様に対してできる最大の恩返しなのだと思ったのです」
「ルーク……」
カミラの胸が、じんっと痺れた。
彼女はそのまま、土台の方を向く。まだどこに何ができるのか全くわからない状況だがなぜか、目を閉じるとそこに、立派にそびえる建物の姿が見えた気がした。
大人も子どもも、困っている人なら誰でも足を運べる場所。
どうしても宗教と切って離すことのできない修道院と違い、ベレスフォード伯爵家の権限を使えば柔軟な対応ができる、きっと多くの人にとって必要となるだろう場所。
ふいに、カミラの胸がさざめき湧き上がるものがあった。
それは、ある一つの『願い』だ。
「ルーク、あのね」
カミラは手を伸ばし、夫の左手をそっと握る。
「すごく、素敵な案だと思うわ。施設が完成するのが、とても楽しみよ」
「それはよかったです」
「それで、ね。今、ふわっと思っただけなのだけど……」
心臓が、ドキドキする。
今からカミラが言うことを聞いても、ルークのことだからにべもなく切り捨てることはないだろうが、怪訝な顔をされたらどうしよう、という不安もある。
それでも。
「……私、ここで働きたい」
「カミラ様……」
「ベレスフォード伯爵夫人としての責務を放棄するつもりはないわ。でも、私は『元司祭のカミラ』としても、何かしたいの。何か……私だからできることを」
ルークの手を握る手が、汗でじっとりと湿っている。
さすがにルークが気持ち悪がるだろうと思って手を離した直後、ルークの方からカミラの手を握り直し、胸の高さまで持ち上げた。
そうして視線を重ねたルークは、真剣だがどこか嬉しそうな表情をしていた。
「とても素敵です、カミラ様。私も賛成します」
「えと、いいの?」
「いいも何も、あなたが望みあなたが決めることを、なぜ私が制限できるのでしょうか」
カミラ様、とルークは限りない優しさを込めた声で妻の名を呼ぶ。
「私の考案した施設で働きたいと思ってくださることが、とても嬉しいです。妻を働かせるなんて甲斐性がないのかもしれませんが……」
「そんなことないわ。……私、あなたが育てたこの領地でできることをしたい。ベレスフォード伯爵夫人として、領民のために尽くしたいの」
「とても……とても素敵です。ありがとうございます、カミラ様」
「ふふ、よかった! 私、これでも傷の縫合も外れた関節治しもできるのだから、うんと働いてみせるわ!」
「それは……ええ。身をもって知っております」
かつてカミラにぼろぼろになった体の治療をしてもらった経験のあるルークは苦笑し、そっとカミラの腰を抱いた。
「カミラ様。あなたを妻に持てたことが、私の人生で一番の幸福です」
「ありがとう。私も……今日一日一緒に過ごして、あなたがどれほどすごい人かを実感したわ。素敵な旦那様に見合う妻になれるよう、私も頑張るわね」
見つめ合った二人の吐息が迫り、そっと唇が重なる。
すぐそばで作業員たちが動き回っていて少し埃っぽく、ロマンチックの欠片もない。
だがきっと、今日交わした決意と口づけはずっと忘れられないものになるだろう、とカミラは思った。
ベレスフォード伯爵領にラプラディア王国初となる総合施設が完成したのは、それから五年経った頃のことだった。
どういう名称にするものか長らく悩まされたこの建物は、『ベレスフォード総合福祉施設』と名付けられ、開設式典には国王や王太子も出席した。伯爵は公園に続いてここにも妻の名前をつけたがったが、妻本人が断固拒否したという。
その妻は、施設の初代施設長に就任した。
彼女は王家の血を引くベレスフォード伯爵夫人であったが、施設長として椅子にふんぞり返るのではなくて誰よりも忙しく働き、乳幼児の世話からけが人の治療まであらゆる業務を請け負った。
ベレスフォード伯爵であるルークは働き者の妻のことがとても誇らしかったようで、「せっかくだし、カミラ様の銅像を施設の中庭に建てよう」と言い出した。
これには実に領民の九割以上が賛成したが、カミラ本人が「マイノリティの意見を尊重しましょう!」と言ったことで立ち消えになり、賛成派筆頭であるルークやディアドラはとても悔しがっていたと言われている。
『伯爵夫妻、デートに行く』おしまい