ある少女の献身⑤
カミラが石化して、いくつもの季節が流れていった。
「ベラ、ベラ! おうとのさんぽ、たのしいね!」
「ええ。ベラも嬉しゅうございます」
そう言うベラは、自分の顔が喜びでだらしなくなるのを抑えられなかった。
カミラの娘であるディアドラは、去年の冬に三歳になった。はいはいをしていた頃がつい昨日のように思われるが、もうディアドラは一人で歩き達者にしゃべれるようになっている。
ベラはカミラ付でディアドラ付のメイドは別にいるのだが、ディアドラはベラによく懐いてくれた。
今回、従兄である王太子に会うためにディアドラが王都に行くことになったとき、病気で実家にいる自分付メイドの代わりに誰を連れて行きたいかと聞かれたディアドラは迷うことなく、「ベラがいい!」と言ってくれた。
愛娘のお願いということでルークも承諾し、王都滞在中のカミラの世話は別のメイドに任せ、ベラはディアドラのお守りとして王都に来ることになった。
襲撃事件の傷跡が生々しい王都の屋敷は取り壊され、王都近郊にベレスフォード男爵家のカントリーハウスが建てられた。
間もなくルークは子爵位を授かり、カントリーハウスのある場所がそのまま子爵領になった。どうやら彼は最初から、カントリーハウスを建ててそこで妻を休ませるのだからと、王都に近い領地を確保できるようにしていたそうだ。
そこでベラも子爵領で暮らすことになったため、王都に来るのも少し久しぶりだった。
ディアドラと従兄である王太子の仲はよく、遊んでもらえて上機嫌のディアドラが「まちにいきたい!」と言ったので、仕事があるルークに見送られて王都の散策に出向くことになった。
ディアドラは「さんぽ」と言うが、王家の血を継ぐ子爵令嬢を雑踏の中で歩かせるわけにはいかないので、馬車での移動がメインだ。それでもディアドラは街の散策ができるのが嬉しいらしく、馬車の窓枠に手をかけて目をきらきらさせていた。
ディアドラは、聡明で優しい美しい令嬢として育っている。なるほど、あの美貌の若き子爵と気品漂う元王女の子どもだけある、とベラは誇らしい気持ちでいっぱいだ。
「ベラ、ベラ! ディア、あれほしい!」
大通りを見ていたディアドラが言うので何事かと思ったら、彼女は露店の一つが気になるようだ。それはどうやら人形屋のようで、店先には様々な人形やぬいぐるみが並んでいる。
「お人形なら、旦那様も何もおっしゃらないと思います」
「でしょ!? ね、見よう!」
「かしこまりました」
ベラはここ数年ですっかり親しくなった御者兼護衛のクライドに声をかけて馬車を停めさせ、ディアドラを抱っこして馬車から降りた。
露店の店主は、まさか子爵家の紋章入りの馬車が停まるとは思っていなかったようで、ベラとディアドラ、そして護衛たちがぞろぞろとやってきて腰を抜かしていた。
だがディアドラが人形を選び始め、クライドが「お嬢様に接客をしてやってくれ」と言うと、おっかなびっくりしつつも相手をしてくれた。
食べ物ならばともかく、おもちゃなら買ってあげやすい。一度中身のチェックなどはするが、露店で売られているものは少々粗悪だったとしても暗殺用の毒針などは仕込まれていない。
熱心に人形を選ぶディアドラと、そんな彼女にセールストークをする店主を微笑ましい気持ちで見つめ、少し離れようとしたベラだが――
「……ねえ、あんたまさか、ベラ!?」
いきなり声がかかり後ろから腕を引っ張られたので、ベラはぎょっとして振り返り――そして自分の腕を掴む女の顔を見て、二度ぎょっとした。
女は濃い化粧で顔がべったりで、それでも肌のきめや顔色の悪さは隠せていなかった。着ているドレスは元々はそれなりの品だったようだが、何年もろくに手入れをせずに着回しているのが丸わかりだ。
髪もぼさぼさ、目つきだけがぎょろっとしている女にベラが驚いていると、彼女は苛立ったようにベラの腕に爪を立てた。
「あたしのことがわかんないの!? マリアよ、マリア!」
「……まさか、孤児院で一緒だった、あのマリア?」
マリアなんてありふれた名前だが、このキンキン声には覚えがあった。だが、あのマリアはもっと美しくて自信たっぷりで、胸も今より膨らんでいたはずなのに。
マリアは自分の体を見るベラの視線に気づいたようで、悔しそうに地団駄を踏んだ。地団駄を踏む足の靴は、底がぺろんと剥がれている。
「忘れていたって!? ああ、腹が立つ! あんた、いつの間に王都に来てたの!?」
「マリアこそ、あなたの勤め先は王都じゃなかったはず……」
確かマリアはベラの代わりに、金持ちのカントリーハウスで働くのではなかったのか。
マリアはベラの問いに、ぎりっと唇を噛んだ。
「……あの狸親父とぼんくら息子に媚びを売っていたのに、狸親父の妻にばれて追い出されたのよ! ぼんくらはしらを切るし、狸親父は知らないふりをするし! どっちもあんなに、あたしだけを愛しているって言ったのに!」
ぎゃんぎゃんわめくマリアに、ベラは頭が痛くなってきた。
つまりマリアはあのうんと年上の主人だけでなく若旦那とも体の関係になったものの、不倫を咎められて追い出されたのだ。
「だから王都で一山当ててやろうと思ったのに、全然うまくいかないし! ……ベラ、あんたは相変わらずブスで貧相なくせに、その服は仕立てがよさそうね。なに、いいところに仕えてんの? 昔のよしみで、紹介しなさいよ」
「それは……」
「ベラ、ベラー! おにんぎょう、きめたわ!」
せっかく物陰に移動しつつマリアに掴まれた腕をどうにか対処しようとしていたのに、ディアドラの方から来てしまった。
マリアは怪訝そうに声の方を見て、そしてこちらに向かって手を振る美幼女を見つけて目の色を変えた。
「……もしかしてあのガキに仕えているの!? ブスのベラのくせに!?」
「マリア、うるさいわ。もう私たちは何の関係もないでしょう!」
「黙れっ! ……お嬢ちゃん、こんにちは。あたし、ベラのお友だちよ!」
ベラの腕に血がにじむほど爪を立てたマリアはベラを突き飛ばし、ディアドラに詰め寄って猫なで声を上げた。
「あのね、ベラがあたしをお嬢ちゃんのメイドに紹介してくれるって言うの! あたし、ベラよりずっとセンスがあって頭がいいから、お嬢ちゃんの役に立て――」
「ベラ、だれこのおばちゃん」
人形を手にしたディアドラが真顔で言い放った途端、マリアの笑顔にビシッと亀裂が走った。
「おばちゃんいま、ベラをどんってしたでしょ? そういうの、だめなのよ。ぼーりょくはよくないし、ディア、おばちゃんのこときらい」
「お、お嬢様……」
「……んだよこのクソガキ!」
血相を変えたマリアが走り出そうとした瞬間、立ち上がったベラは全力でマリアに体当たりして二人して石畳に倒れ込んだ。
「ぎゃあっ!?」
「お嬢様! 今のうちに馬車にっ!」
ベラの髪を掴んだりお腹を膝で蹴ったりするマリアを取り押さえながらベラが叫ぶと、素早く走ってきた護衛たちがベラとマリアを引き剥がしてくれた。
「子爵令嬢に対して、無礼な!」
「子爵……えっ? 嘘、本当に、貴族の……?」
護衛が叫ぶと、後ろ手に腕を掴まれたマリアはきょとんとする。
そうしてクライドに支えられたベラがディアドラと一緒に馬車に乗ると、「待って!」と真っ青な声で叫んだ。
「違うの、違います! あたし、お嬢様にそんなこと言うんじゃ……」
「あのね、おばちゃん」
窓から顔を出したディアドラが、冷めた眼差しでマリアを見下ろす。
「おばちゃんになってもじぶんのことを『あたし』っていうの、かしこそうじゃないからやめたほうがいいよ」
「え――」
「じゃあね」
ディアドラはにっこり笑うと、パシン、と窓を閉めた。馬車は動き出し、「ちょっと!?」と叫ぶマリアはずるずるとどこかへ連行されていった。
「……ベラ、いたくない?」
馬車の中でディアドラが心配そうに言うので、マリアが掴んだ腕をさすっていたベラは慌ててうなずく。
「はい。ちょっと握られただけなので――」
「うそ。おうちにかえったらちゃんと、みてもらおうね」
ディアドラの目はごまかせなかったようだ。
しゅんとなるベラに、ディアドラが微笑みかける。
「ベラ、さっきはたすけてくれて、ありがとう」
「お嬢様……」
「きょうは、へんなおばちゃんがじゃましたから、おにんぎょうかえなかった。こんど、かおうね!」
ディアドラの小さな両手に手を取られて、ベラはずっと洟をすすってうなずいた。
「はい、もちろんです、お嬢様!」
カミラが目覚める、その日まで。
ベラは、ディアドラのそばに居続けるのだ。
『ある少女の献身』おしまい