ある少女の献身④
翌日、ベラはクライドに連れられて王都に向かった。
ずっと憧れていた王都だが、今のベラは自分が元王女殿下にお仕えするということで緊張しっぱなしだった。
「あの、クライド様。奥様は、どんな方なのですか?」
「んー、まだ新婚ほやほやだから俺からは何も言えないけれど……とてもお優しそうな方だったな」
「はあ……」
「それから、ルークとは年が八つ離れている」
そして、ここだけの話だが、とクライドは声を潜めた。
「ルークと奥様が結婚する経緯については、かなりややこしいものがある。おまえも気になるかもしれないが、ご本人たちの方から話されるまで下手に首を突っ込むな。奥様はお許しくださるかもしれないが、ルークは怒らせない方がいい」
「わ、わかりました」
確かに、あのルクレツィオの態度からして彼は妻である元王女カミラには絶対服従の姿勢のようだから、もしベラがカミラに粗相をしようものなら眉一つ動かさず斬り捨てられるだろう。
ベラが向かったベレスフォード男爵邸で、穏やかな貴婦人が迎えてくれた。
「ルークから話は聞いているわ。あなたが、ベラね」
リビングでソファに座る貴婦人を、ベラはぽかんとして見つめた。
豊かな小麦色の髪を既婚者の証として結い上げており、茶色の優しい双眸がベラを見つめている。濃い赤色のドレスは二十四歳という年齢にぴったりの落ち着きと元王女としての気品が漂う見事な品で、膝の上で重ねられた指先まで育ちのよさが行き届いている。
貴族の奥様、というとなんとなく高飛車なイメージがあったが、カミラ・ベレスフォードは緊張で震えるベラの両手をそっと取ってくれた。
「とても大変な思いをしてきたのだと聞いたわ。私も結婚したばかりで、あまり奥様らしいことはできないけれど……一緒に頑張っていきましょうね、ベラ」
ベラは息を呑んだ。
元王女である男爵夫人が、こんなみすぼらしい醜い自分の手を躊躇いなく取ってくれている。それだけでなく、「一緒に頑張ろう」なんて優しい声がけまでしてくれる。
……ルクレツィオとの約束があるから、たとえカミラから蹴られようと貶されようと役目を果たすと決めていたが、とんでもない。
彼女は夫が女神と称えるにふさわしい、美しくて心優しい人だった。
「……はいっ! 私、必ず奥様のよいメイドになります!」
喜びで喉を震わせながら、ベラは誓った。
必ず、この麗しい貴婦人にベラの全てを尽くすと。
かくしてカミラ付のメイドになったベラだが、クライドに注意されたとおり男爵夫妻の事情には首を突っ込まないようにした。
カミラは、国王である異母兄から疎まれているらしい。
だが、先日アッシャール帝国に嫁いだ異母妹との仲は、とても良好らしい。
ルクレツィオ――ルークは異国出身で、戦争で名を挙げた元志願兵らしい。
元々ルークの結婚相手は妹王女のパメラだったがいろいろあり、修道院の司祭だった姉王女と交換になったらしい。
この屋敷で雇われている者は皆、傷痍軍人や孤児、寡婦だったのをルークに拾ってもらったらしい。
ルークはカミラに深い愛を捧げているが、なかなか口に出せないらしい。
男爵邸で働きながら、ベラは少しずつ情報を集めていったものの、カミラの前ではそれらの事情に一切触れなかった。
年齢差と身分差、そして急な結婚相手変更などにより、夫婦の間は少しだけぎこちない。だがそれに使用人が首を突っ込んではならないし、本人たちで解決しなければならないから手助けだけするように、とベラは執事から言われていた。
ベラは、カミラによく仕えた。
カミラは横暴な女主人どころか遠慮がちでいつまでも優しく、ベラのこともまるで妹のようにかわいがってくれた。ルークは仕事が忙しいらしく屋敷にいない時間が多かったが、カミラのためにドレスや靴などをいくつも注文し、妻が快適に過ごせるように心を砕いていた。
今はまだ少しぎこちないものの、この夫婦がいつまでも幸せでいてほしい。
ベラはそう願っていた。
新婚早々ルークが長期遠征に出向くことになり、初めてカミラが閨に呼ばれた。
そういうことに疎いベラがドキドキしながら迎えた翌朝、ルークが出かけた後いつまで経ってもカミラが部屋に戻らないので怖々寝室に向かうと、すっかり伸びた主君の姿があった。あのルークも妻のことになるとここまで我を忘れるものなのか、とカミラの入浴の手伝いをしながらベラは顔が熱くなってきた。
ルークがいない屋敷は、穏やかな時間が流れていた。
春になり、カミラの懐妊がわかったときには本人以上にベラが歓喜した後に滂沱の涙を流したため、カミラに笑われてしまった。
だんだんお腹が大きくなるカミラの入浴の手伝いをして、赤ん坊のために服を作りたいというカミラに編み物を教え、代筆を遠慮し夫に宛てて丁寧にカミラがしたためた手紙に祈りを込めて発送手続きをした。
どうか、奥様が無事に出産できますように。
どうか、旦那様が無事に帰ってきますように。
ベラの祈りはちゃんと神に届いたようで、連日降り続いた雪が止みまるで天に祝福されたかのように、愛らしい赤ん坊が生まれた。
任地にいるルークが名前を考えており、カミラは迷うことなく女児にディアドラと名付けた。
「ベラ。ディアドラをよろしくね」
出産後、カミラは疲れきっていたがその笑顔はどこまでも美しく、ベラは涙でべしょべしょになっていた顔を拭ってうなずき、赤ん坊のおくるみを受け取った。
甘い匂いがする、ずっしりと重い赤ん坊。
「……ねえ、ベラ。お願いがあるの」
眠いのだろう、少し間延びした声でカミラは言う。
「もし、私とディアドラの両方に危険が及んだら。迷わずに、ディアドラを守ってちょうだい」
「お、奥様! ですが……」
「命令です。私に何かあろうと、必ずディアドラを守りなさい」
躊躇うベラに、カミラが初めての『命令』を下した。
ベラはぐっと言葉を呑み込むとうなずき、ディアドラをしっかりと抱きしめた。
カミラの言葉は、絶対だ。
ベラは何があろうとカミラの命令を守り、ディアドラの命を優先させる。
……そう、誓ったのに。
「奥様……」
屋敷の女主人用の部屋で、ベラは震える声を絞り出した。
ディアドラが一歳になり、もうすぐルークが帰ってくる。やっと親子三人が揃うという希望が、無惨にも打ち砕かれた。
王妃の手先である侵入者により、カミラは石のように体が硬くなってしまった。その肌は冷たく髪の毛も固まっており、その唇が「ベラ」と呼んでくれることはもうないのかもしれない。
「奥様ぁ……!」
物言わぬ石像となった主君を思い泣き叫びそうになったが、はっとした。そして恐る恐るベビーベッドをのぞき込み、ディアドラがボールを握って遊んでいるのを見て肩の力を抜く。
「……お嬢様、申し訳ございません。私は、奥様をお守りできませんでした……」
あの日からずっとベラには、後悔と自責の念がつきまとっていた。
夜間の襲撃とはいえ、ディアドラの危機に駆けつけられなかった。到着したときには既に時遅く、カミラは石化していた。
何があろうと必ず、カミラを守ると約束したのに。自分の命を捧げると誓ったのに。
死にたい。死んで、償いたい。
だが、死ぬことはできない。
虚しい気持ちでディアドラとボール遊びをしていると、部屋のドアが開いた。そこにルークが立っていたため、ベラは罪悪感で押しつぶされそうになりながら部屋を後にしようとしたが。
「……これからおまえが、カミラ様のお世話をして差し上げてくれないか。カミラ様がいつお目覚めになるか、誰にもわからない。だが、いつお目覚めになってもいいように体の手入れをして、部屋を掃除し、季節を感じられるようにしてやってくれ」
ルークの命令に、ベラは息を呑んだ。
娘を襲い妻を石化させた者たちに裁きを下したというルークは、ベラに憎悪の眼差しを向けてはいなかった。
ある意味、いつもどおり。彼と初めて出会ったあの日と何も変わっていない。
そんなルークは、ベラに新たな命令を下した。彼女がカミラによく仕えてくれたと評価し、その上でカミラの世話を任せてくれた。
「もちろんです! 旦那様、必ずお役目を全ういたします!」
「頼んだ」
ベラは力強く宣言してから、部屋を辞した。そうしてカミラの眠る寝室に向かうベラの足取りは、しっかりしている。
「奥様」
寝室に入り、ベラはカミラに近づく。
名前を呼んでもカミラはうんともすんとも言わず、石のように硬くなってベッドに横たわっていた。
「今度こそ必ず、お役目を果たします」