ある少女の献身③
呆然とするベラを差し置いて馬車は進み、やがて王都の手前にある宿場町に到着した。
黒髪の青年は何も言わずさっさと宿に入っていき、御者席で震えていたベラはまたしてもクライドに担がれて宿に向かった。
「あのっ!?」
「暴れるんじゃねぇ。死にたいのか」
クライドが言うので、ベラははっとして両手で口を塞ぐ。
だが、それを聞いた黒髪の青年が振り返り「クライド」と窘めた。
「おまえのその顔と言い方では、誤解を招くぞ」
「……あ、そうだな。あのな、暴れてうっかり俺がおまえを頭から落としたりでもしたら死ぬぞ、って意味だからな」
クライドが急いで説明するが、ベラは自分の口を塞いだままふるふる首を横に振ることしかできなかった。
そのままベラはクライドによって浴室に連れて行かれ、なぜかそこで女性従業員によって丁寧に体を洗われた。垢だらけで恥ずかしくてたまらなかったが従業員は何も言わず、湯上がりには清潔なワンピースを着せてくれた。彼女が言うに、「お連れ様のご命令です」とのことだった。
どうしてこんなことになったのだろう、とおっかなびっくりするベラを女性従業員は食堂に連れて行った。そこで待っていたのは、あの黒髪の青年とクライドだった。
青年も今の間に入浴したようで、着替えもしてラフな格好になっている。
「長旅ご苦労だったな」
「……あの、若旦那様……」
「若旦那ではない。俺はルクレツィオ・ベレスフォード――ベレスフォード男爵だ」
青年の言葉に、ベラは心臓が止まるかと思った。
ベレスフォードの名に聞き覚えはないが、この若さでありながら若旦那ではなくて当主となると相当の実力者、もしくは超名家の次男坊などだ。
「だ、男爵閣下でございましたか。わた、私はベラと申します。孤児院育ちゆえ名乗る家名がないことを、お詫びします……」
ベラが詫びると、ルクレツィオはクライドと視線を交わした。その意味はわからないが、ベラはひたすら謝罪するしかない。
「あの、温かいお湯もこの服も、私には身に余るものでございまして……お仕事が見つかったら必ずお金をお返しします!」
「ベラ」
「はいっ!」
「食え」
静かにルクレツィオが命じた直後、目の前のテーブルにことん、と皿が置かれた。
取り皿より少し大きなそれには、焼きたてのパンやミニサラダ、カップに入ったスープなどが行儀よく並んでいる。ワンプレート料理のようだ。
ベラがきょとんとすると、ルクレツィオは眉根を寄せた。
「……要らないのか?」
「いえっ! ですが、こんな、私にはもったいない……」
「うるさい、食え」
「……はい」
再度命じられたため、ベラは渋々食器を手に取った。
正面を見るが、ルクレツィオの前には料理がない。
「あの、男爵閣下のお食事は……」
「三度目を言わせるつもりか?」
「いいえっ!」
これ以上くだらない質問をするとルクレツィオが怒りそうだったため、ベラは観念してサラダから取りかかり――そのおいしさに、喉がじんじん痺れそうになった。
「おいしい……」
「うまいか」
「はいっ! こんなにおいしいものを食べたのは、生まれて初めてです……!」
誇大表現でも何でもなく、心からの気持ちを込めて言うベラを、ルクレツィオは静かな眼差しで見てくる。
そのままベラは一人食事を進め、最後の紅茶も味わっていただいた。
「おいしかったです……」
「それは何より」
食事の間何も言わなかったルクレツィオは、隣のクライドを見た。
「……どう思う?」
「いいんじゃないか?」
「俺もそう思う」
主従は短いやりとりをしてから、ルクレツィオがこちらを向いた。
「ベラ。おまえは先ほど、仕事が見つかったら金を返すと言ったな?」
「はいっ! 必ずお返しします!」
「仕事の宛てはあるのか?」
ずばり尋ねられて、ベラはうっと言葉に詰まってしまった。
「それは……ない、です」
「おまえは孤児院出身だと言った。多くの孤児院は、子どもが成人するまでもしくは就職先を見つけるまで面倒を見るはずだが」
「はい。実は――」
恥ではあるがルクレツィオ相手に隠しごとをしても「正直に話せ」と一蹴されそうなので、観念して話すことにした。
最初は裕福な家のメイドになるはずだったが、他の孤児に奪われたこと。王都に行くための定期馬車に乗ろうと思った矢先、老婆を見かけたことなどを話して行くにつれて、ルクレツィオより隣のクライドの方がわかりやすく顔をしかめた。
「そりゃあ……お嬢さん、災難だったな。そこまでの不幸の連発は、そうそうないぞ」
「……ですよね」
「……ベラ」
ルクレツィオに呼ばれたため、ベラは背筋を伸ばした。
「はいっ、男爵閣下!」
「おまえのこれまでの挙動を見てきたが、おまえは敬語が正しく使えているし、食事のマナーもなっているな」
「は……」
「銅貨十一枚の品物を購入する際、銀貨二枚で支払った場合の釣り銭は銅貨何枚だ」
「えっと……九枚です」
わけもわからないまま即答すると、ルクレツィオとクライドは深くうなずいた。
「計算能力もあるようだな。……ベラ、俺は男爵といっても先日なったばかりで、屋敷の使用人が足りていない。特に今必要としているのは、妻の世話をするメイドだ」
「ご、ご結婚されていたのですね」
まだ十六、七そこらだろうルクレツィオが既婚者だとは思っていなかったのでついベラは声を裏返らせたが、そんな彼女の失態を叱るどころかルクレツィオは「ああ」と、どこか優しい眼差しを天井に向けた。
「まるで女神のごとく麗しい、俺にとって世界でたった一人の大切なお方だ」
「……」
「そんな妻に全てを捧げられるメイドがほしいと思っていた。……ベラ。おまえは俺の妻に、生涯尽くすことができるか?」
こちらに視線を戻したルクレツィオに問われて、ベラはどきっとした。
今になって、気づいた。
ベラはずっと、彼に試されていたのだ。
ルクレツィオが女神のように敬愛する妻に仕えるにふさわしいかどうか。それだけの礼儀作法が身に付いており言葉遣いが正しく、勉学の能力も持っているかどうか。
ベラの胸が、歓喜で震える。
まだ、神はベラを見捨てていなかった――いや、きっと最初からこのために、導いてくれたのだ。
「はい! 必ず!」
「俺の妻を主君と崇め、あの方のためなら命も差し出せるか」
「はい! お約束します!」
「ならばよい」
ルクレツィオは、席を立った。
「クライド、俺は先に王都に帰る。メイドが見つかったと、カミラ様にお伝えせねばならない」
「了解」
主従にしては気さくなやりとりをした後、思い出したようにルクレツィオは振り返った。
「俺の妻は、ラプラディア王国の元王女であるカミラ様だ。おまえがこれから仕えるのは、王家の血を継ぐ尊い方なのだということを重々承知した上で、王都に来るように」
「は……王女、殿下?」
まさか若き男爵であるルクレツィオの妻が元王女だったとは想定外で、ベラは今になって彼から命じられたものの重さに戦く。
だがルクレツィオはベラを振り返り見ることなく、足早に出ていった。もう夕方なので、夜の閉門時間になるまでに何が何でも王都に戻りたいのだろう。
「……まあ、そういうことだから。これからカミラ様のこと、よろしくな」
へら、と笑ってクライドが言うが、ベラは放心状態からなかなか抜け出せなかった。