ある少女の献身②
数日後、豪華な馬車が迎えに来てマリアは意気揚々と孤児院を巣立っていった。
そんな彼女を孤児たちが羨望の眼差しで見送る中、ベラは軽い荷物を抱えて一人孤児院の裏門を出た。
突然就職先を奪われたベラだが、『十六歳の一ヶ月後までに卒院する』というルールを破ることはできない。マリアの迎えが来る今日がちょうど約束の一ヶ月目だったというのは、一体何の巡り合わせなのだろうか。
見送る者もいないまま、ベラは孤児院を離れる。そうしていると、今日がマリアの出発の日でよかったかもしれないと思われてきた。
きらびやかな馬車に迎えられて巣立ったマリアとは正反対で、一人みすぼらしく去るベラの姿を、皆に見られずに済んだのだから。
すり切れて靴底が薄っぺらになったブーツは、足下の石の感触がよくわかる。給料が入ったら真っ先にきれいな靴を買いたいと思っていたが、それも叶わぬ夢になってしまった。
ベラがいた孤児院は、ラプラディア王国王都から少し離れたところにあった。といっても王都までは馬車で半日はかかるし、ベラは一度も王都に行ったことがない。
「王都なら、お仕事が見つかるかな……」
ベラはぽつんと呟く。
孤児院のそばには町があるが、ここは顔見知りが多いのであまり長居したくない。マリアと恋仲だったとの噂のある男性たちもたくさんいたので、惨めな気持ちになるだけだ。
「王都に行くには、定期馬車を使えばいいんだよね」
かさかさに乾いた手でバッグの中の財布を出し、そこに入っている小銭の枚数を確認する。これまでコツコツと貯めてきたものに巣立ちのための費用として院長先生にもらったものを加えたのだがそれでも、王都までの定期馬車運賃だけでかなり吹っ飛んでいく。
それでも、この町にいるよりはずっといいはず。
そう思ってベラは、まずは定期馬車が停まる場所に向かった。乗ったことはないが、お使いで何度も来た場所なので停留所の位置だけは知っていた。いつかここで馬車に乗りたい、と夢見ながら停留所の看板を見上げていた。
定期馬車の停留所は、町の大通り沿いにある。今ベラがいる場所からだと大通りを横断しなければならないので、往来に馬車の姿がないか確認して渡ろうとしたのだが――
「あっ!」
ベラの目の前で、年老いた女性が派手に転んだ。ちょうど彼女は大通りのど真ん中で倒れることになり、右手側から立派な馬車が近づいてくる――
「っ……おばあさん!」
とっさにベラは飛び出して、倒れて動けない様子の老女の両脇の下に腕を入れて引っ張った。思いのほか老女の体重があったので二人して倒れてしまったが、慌てて馬を停止させた馬車と接触せずに済んだ。
「おい、何をしているんだ!」
助かった、と思ってほっとしていたら、馬車の御者席が開いて大柄な男性が降りてきた。小ぶりではあるものの貴族が乗っているとわかる馬車の御者にしては体格がよすぎるし、何より顔が怖くて……しかもよく見ると、左手の指が数本欠けていた。
ベラが抱えたまま転んだ老女は、しばらくぽかんとしていた。だがいきなり腕を後方に振り、ベラのお腹に肘鉄を食らわせてきた。
「ぐっ……!?」
石畳の上に倒れたベラの首元が引っ張られ、ブチッと嫌な音がする。
そのまま老女はベラの方を振り返り見ることなく、一目散に大通りの反対側へと走って行ってしまった。
「何……あっ! バッグ!」
やっとの事で起き上がったベラは、真っ青になった。先ほどまで身につけていた、ベラの全財産が入ったバッグがなくなっている。そして去りゆく老女の手には、肩紐が切れたバッグが。
先ほどの引っ張られるような感覚とブチッという音は、老女がベラのバッグをひったくったからだったのだ。
「……嘘」
立ち上がろうにも尻が痛くて座り込んだままのベラのもとに、のっそりと大きな影が近づく。それは例の御者で、彼に見下ろされてベラは泣きたくなった。
仕事を奪われ。
住む場所も失い。
恩を仇で返され。
文無しになって最後は、貴族の馬車を急停止させた罪で蹴られ殴られ死ぬなんて。
ベラは一体、前世でどんな罪を犯したのだろうか。
どうしてここまで、神様はベラに厳しいのだろうか。
とうとう涙が零れてしまったベラの頭上に、影がかかる。
「……なあ、お嬢さん。あんた、大丈夫か?」
「……えっ?」
「さっきあの婆さんを助けようとしたんだろう? 転んだみたいだが、大丈夫か?」
そう言うのは、あの恐ろしい顔つきの巨漢。ベラを起こそうとしたのか彼は左手を差し出したが、指がいくつもなくなっているその手を見てベラは悲鳴を上げてしまった。
だが大男はそれに気を悪くした様子はなく、むしろ自分の手を見てはっとしたようで「……そりゃそうか」としょぼんとしている。
「馬車の前に飛び出すのは無謀だが、人助けなら仕方がねぇ。だが、二度目はないと思え。気をつけて帰れよ」
「……で、でも、私、お金、なくて……」
「ん?」
「……さっきのお婆さんに、バッグ、盗られて……」
情けないし恥ずかしいし、もうどうにでもなれという気持ちでベラが白状した途端、大男はぎっと眼差しを厳しくして大通りの反対側を見やった。
「……そういうことか。悪い、バッグをスられたとは思わなかった。追いかけりゃよかったな……」
大男が後悔するように言うので、ベラはしゃくり上げながらきょとんとしてしまった。
なぜ、彼が謝るのだろうか。老女に騙されたのは、ベラ自身の問題なのに。
「……クライド。いつまでそこにいるんだ」
ふいに、馬車の方から声がした。野太い大男とも、美声に恵まれなかったベラのかさついた声とも違う、凜とした涼やかな青年の声だった。
クライドと呼ばれた大男は振り返り、丸刈りにしている頭を掻いた。
「すまねぇ、ルーク。ちょっと困っている様子のお嬢さんがいてな」
「困っている?」
「さっき助けた婆さんに、金の入ったバッグをスられたそうなんだ。かわいそうに、恩を仇で返されたようでな……」
「ちょ、や、やめてください!」
クライドが正直に言うが、自分の恥をおおっぴらにされたベラはたまったものではない。慌てて立ち上がりクライドを黙らせようとしたが、小柄なベラでは背伸びをしてもクライドの肩にすら手が届かなかった。
だが馬車の中の青年は「……そうか」と呟き、そしてドアが開いた。
そこから降りてきたのは、まだ若い男性だった。
少し前髪が長い黒い髪に、ハシバミ色の鋭い目。着ているのはシンプルなジャケットとスラックスだが、簡素な作りではあるもののかなりの値打ち品であることにベラはすぐ気づいた。
なんといっても、彼の靴はまぶしいばかりにぴかぴか輝く本革製だった。本当にお金のある人は、靴に力を入れるものなのだ。
ベラとさほど年が変わらなそうな青年が冴え冴えと整った顔をベラの方に向けたので、ベラは慌ててその場に土下座する。
「わ、若旦那様にお詫び申し上げます! 私は決して、若旦那様のお手を煩わせようとしたわけではございません! 全ては私の不注意が原因ですので、どうかご容赦を――」
舌ももつれそうになりながら詫びるベラだが、往来の人々もさすがにこの違和感に気づいたようだ。
そしてこの町は孤児院のお膝元なので、「あれって、孤児院のベラじゃないか?」「貴族様に粗相をしたのね」「いつ見てもみすぼらしいなあ」と言う声が聞こえてくる。
恥ずかしさで顔が火を噴きそうになるが、土下座をしていれば顔を見られずに済む。
そう思って震えながら頭を下げるベラに、ふうっとため息が落ちてきた。
「……ここは騒がしいな。クライド、その少女を拾っておけ」
「おっす」
「……えっ?」
かくしてベラは青年の鶴の一声によりクライドに担ぎ上げられて御者席に放り込まれ、「このまま王都に行くぞ!」と連行されてしまったのだった。