ルークの恋④
それからしばらく、ルークの仕事が忙しくなったので手紙のやりとりをするのが難しくなった。
遠征期間が終わるまで、あと一年。ディアドラの一歳の誕生日が終わってしばらくしたら、王都に帰れる。
娘が生まれるのなら遠征になんて出るのではなかった、と思いつつも、娘のためにも父として頑張るべきなのだと思い直して、職務に励んだ。
『ディアドラに会える日を、楽しみにしています』
カミラへの手紙に記した言葉を、ルークは己を叱咤するためにも使った。
まだ見ぬ娘に、無事に会うために。娘を産み育ててくれる、妻のために。
ルークは、なんでもやってみせると誓った。
年が明け、ついにルークの任務期間が終わった。
「皆、悪い。俺は先に帰っている」
もたもた仕度をする仲間たちを待っていられず、ルークは既に準備万端の自分の馬に跨がった。
それに対して仲間たちは、「そりゃあ、奥さんとお嬢ちゃんが待っているもんな」「早く顔を見せに行ってやれ!」とやいのやいのとはやしながらも見送ってくれた。
一人馬を走らせながら、ルークが考えているのは妻と娘のことばかりだ。
『ディアドラの部屋は、二階の角部屋です。一番日当たりがよくて、明るい部屋にしました』
カミラの手紙に、さすが俺の妻だとルークは妻の選択を喜んだ。あの部屋は一等地ながら空き部屋だったので、娘の部屋にするのにぴったりだ。
『ディアドラが、私のことを『かーた』と呼べるようになりました。ルークのことを『とーた』と呼べる訓練をしています』
娘を教育する妻の姿を想像して、胸が温かくなる。きっとカミラはとてもよい母としてディアドラを愛し教え導いているのだろう。
『無事に帰ってきてください』
「もちろんです、カミラ様」
ルークは呟き、開けた街道に出るなり馬を急がせた。屈強な軍馬である愛馬はルークの気持ちを理解してくれているようで、長時間走って辛いだろうに全力で王都への道を駆けてくれる。
時刻は夜で、あと少しで王都の門が閉まってしまう。締め出しを食らうと、明け方まで待たなければならない。
だがルークの馬は最後の力を振り絞り、今にも閉まらんとする門の隙間に飛び込んでくれた。驚く門番に身分証明書を出したところで、もう無理だとばかりに馬が足を止めてしまった。
ルークはここまで頑張ってくれた馬をねぎらい、門の前の詰め所で待機していた兵士に手間賃を渡して愛馬を預け、代わりの馬を借りて自宅への道を駆けた。
カミラ様、ディアドラ、と心の中で叫ぶ。
会いたかった、ずっと会いたかった。
やっと、敬愛する妻と愛しい娘に会える。
男爵邸は明かりが落ち、静まりかえっていた。
一歳になったばかりのディアドラはもちろん、カミラももう寝ているかもしれない。妻と娘の睡眠を妨げるのははばかられ、裏口からこっそり入ってさてどうしようかと思ったルークだが。
……子どもの泣き声が、聞こえた。
今ルークがいるのは屋敷一階の裏口付近で、カミラから教えてもらった子ども部屋はここからかなり距離がある。ディアドラが夜泣きしていたとしても、聞こえるはずがない。
それなのに……また、泣き声が聞こえた。
まるでその声は、「助けて」と叫んでいるかのようで。
「……ディアドラ?」
ルークは真っ暗な廊下を進み、階段を上がった。途中、夜間巡回中の私兵に声をかけられたが、悪いと思いつつも無視する。
『ディアドラの部屋は、二階の角部屋です』
カミラの部屋と夫婦の寝室の前を通り過ぎたところで、物音がした。
二階角部屋のドアが、開いている。そこから妻の苦しそうな声と……知らない男たちの声が聞こえる。
「……カミラ様!?」
ルークは部屋に飛び込み、そして愕然とした。
窓が開け放たれており、黒装束の者たちがいる。そして子ども部屋の床に、寝間着姿の妻が倒れていた。
目の前が、かっと燃え上がったかと思った。
遅れてやってきた私兵が侵入者たちに挑みかかる中、ルークは妻に駆け寄った。
「カミラ様! 大丈夫ですか!?」
「……ルーク?」
体を横向きに倒れていたカミラが、かすれた声を上げる。彼女は顔を上げようとしたようだが、なぜか中途半端なところで動きが止まってしまった。
よく見ると、彼女は腕に布のようなものを抱えていた。もぞもぞと動くそれは……きっと、ディアドラだ。
カミラの背中には、灰色の液体がぶちまけられている。しかも、ディアドラを抱きしめるカミラの肌が妙な色をしていた。
「ルーク……いるの? 見えない、見えないわ……」
カミラが悲しそうに言うので、ルークは慌ててしゃがんだ――が、そのときにはカミラのまぶたは半分開いたところで固まっていた。顔もまぶたも、艶めく普段の色ではなくてすすけたような色になっている。
これは一体、なんなのか。
妻はどうしたのか。
「カミラ様! 私です、ルークです!」
ルークは妻の肩を掴んで必死に言うが、そこは恐ろしいほど冷えきっていた。今動いているのは、荒い息を吐き出す唇だけだ。もう、目も耳も働いていないようだ。
どうして、どうしてこんなことに。
せっかく会えたのに、やっと帰ってこられたのに、妻の体が硬く冷えていくのを指をくわえて見守るしかできないなんて。
ぽた、とカミラのこめかみに涙が落ちるが、きっともうその感覚も伝わっていないのだろう。
「ルー、ク……」
唇の半分の自由を失ったカミラが、それでも懸命に笑みをかたどって言った。
「ディアドラを、お願い……」
カミラのその言葉を最後に、彼女の口元が完全に固まった。体のどこを触れても、人間らしい温もりを感じることはできない。
「カミラ様……?」
周りで使用人たちが侵入者を締め上げるのをよそに、ルークは呆然と妻を見下ろしていた。
着ている寝間着は柔らかいままなのに、その肌は色がくすみ艶が消え、石像のように冷たく硬くなっている。二年前に閨で触れたときは柔らかくてルークの指の間を滑らかに落ちていった髪も、針金のように硬い。
「カミラ、様……」
何度呼びかけても、妻は返事をしない。
その肌が温もりを吹き返すことも、ない。
脳みその動きが止まり、何も考えられない、何も言えず固まっていたルークだが。
……んわぁ、と泣く声にはっとした。
固まってしまった妻の腕の中で、布の塊が暴れている。急ぎルークは妻の体を仰向けにして、固定された腕の中からなんとか布の塊――ディアドラを引っ張り出した。
初めて触れた娘の柔らかさと重み、ほんのり甘い匂いに、ルークは瞬きを繰り返す。ぎこちなく抱き上げるとディアドラは泣くのをすぐにやめ、ルークの顔をじっと見て――
「……とーた?」
「えっ」
「とーた!」
ディアドラは青い目で真っ直ぐルークを見てそう言い、きゃっきゃとはしゃいだ声を上げた。
「旦那様……」
後ろから名を呼ばれてゆっくり振り返るとそこには、若いメイドの姿があった。彼女は確か、カミラ付に任命した元孤児の少女だ。
メイドもカミラの姿を見て目を真っ赤にしていたが、彼女はずびっと洟をすすって子ども部屋の壁を示した。そこには……かつてしぶしぶ描いてもらった、自分の肖像画があった。
「奥様は……お嬢様に、旦那様の肖像画を見せてらっしゃいました。あ、あちらの方が、お父様だと……毎日、教えてらっしゃいました……!」
そこまで言うなりメイドはぶわっと涙をこぼしてカミラに駆け寄り、「奥様!」と泣いて縋った。ルークは、不機嫌そうにこちらを見る若い頃の自分の肖像画を呆然と見上げる。
『ディアドラが、私のことを『かーた』と呼べるようになりました。ルークのことを『とーた』と呼べる訓練をしています』
カミラは、ディアドラにルークのことを教えていたのだ。
ルークが帰ってきてすぐでも、ディアドラが彼のことを父と呼べるようにと――
「……ディアドラ」
ルークは震える声で娘の名を呼び、そっと抱きしめた。
薄暗い、絶望が満ちる子ども部屋。
そこでディアドラの「かーた、とーた!」と言う声が、ルークの心を燃やすたった一つの灯火となっていた。