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10 ディアドラのために

『お母様』


 まどろみの中で、誰かがカミラに呼びかけている。


『お母様、起きて』


(……誰?)


 カミラは、もやのかかる意識の中で応じる。


 カミラのことを『お母様』と呼べるのは、愛娘のディアドラだけだ。だが娘はまだやっと「かーた」と言えるようになったくらいだし、こんなに大人びた声も出せない。


『お母様、お母様。……助けて!』










 はっと、カミラは覚醒した。飛び起きるようにベッドから体を起こし、濃い夜の色に包まれる寝室の天井を見上げる。


 妙な夢で、目が覚めた。だが悪夢を見たときのように全身汗びっしょりだとか、心臓がどきどき高鳴っているとかというわけではない。

 ただ、漠然とした不安。


『助けて!』


「……ディア?」


 無性に不安な気持ちになり、カミラはそっとルームシューズを履いた。


 三日前に晩餐会が終わり、あと四日ほどでルークが帰ってくる。夫の帰宅まで何もなければ、それでいい。ディアドラの無事な寝顔を見てから、もう一度ベッドに入ろう。


 子ども部屋は、屋敷の二階角部屋だ。女主人の部屋や夫婦の部屋の反対側にあり、一番日当たりがいい場所だ。ルークにも、この部屋をディアドラのために使っていると手紙で教えていた。


 子ども部屋の鍵はカミラと執事が持っており、もう一つは子守のメイドたちが使えるよう鍵付のケースに入れられている。


 カミラは鍵を差し込み、そっとドアノブを回し――

 薄暗い部屋の中、ベビーベッドを囲むように立つ黒い人影を目にして、悲鳴を上げた。


「ディアドラ!?」

「……っ!? おい、王女が来たぞ!」


 人影はさっと、こちらを見た。そのうちの一人が手に医療用の注射器のようなものを持っていることに気づいた瞬間、驚きやら恐怖やらが一気に吹っ飛んだカミラは走りだした。


「ディアドラに触れないで!」


 がむしゃらに突撃して黒い影を突き飛ばし、ベビーベッドからディアドラをさっとかっさらう。ディアドラはすやすや眠っており、ざっと見た限りは肌に注射針を刺された形跡はない。


 突然現れたカミラがディアドラを奪ったからか、人影がチッと舌打ちする。


「邪魔が……!」

「おい、薬は?」

「だめだ」


 人影たちのやりとりで、カミラの足からふっと力が抜けた。

 よかった、間に合っていた。


 だが依然カミラの胸にはふつふつと煮えたぎる怒りが満ちている。


「あなたたちは……誰? 私の娘に何をする気!?」


 ディアドラを奪われまいと胸に抱え込んだカミラが叫ぶと、人影たちは躊躇うように距離を取った。

 部屋をよく見ると、窓が開け放たれている。夜間、窓から侵入したのはいいがまさかカミラがやってくるとは思っていなかったようだ。


 やがて人影のうちの一人が、前に進み出た。


「……カミラ王女。悪いことは言わないから、その娘を差し出せ。そうすれば、おまえだけは生かしてやる」

「お断りよ。娘を差し出してまで、私は生きたくない!」


 燃える瞳で、カミラは叫ぶ。


 本当は、死にたくない。カミラだって、長生きしたい。


 だが娘を差し出すことで生きながらえるくらいなら、死んだ方がましだ。


 かわいい、世界でたった一人の愛おしい娘、ディアドラ。


『ディアドラに会える日を、楽しみにしています』


(大丈夫よ、ディアドラ。あなたとお父様を必ず、会わせるから……!)


 萎えそうになる両足にむち打ち、カミラは立ち上がって駆け出す――が、後ろからぐっと髪を引っ張られて痛みでのけぞった。


「いっ……!」

「おい、どうする。王女ごと殺すか?」

「やむを得ない」

「娘優先だ!」


 人影の中で結論が出たようで、一人が上着の中から何かを出した。


(あれは……?)


 カミラがそれをはっきり見るよりも早く、人影が手の中のものを投げつけてきた。……髪を引っ張られて動けないカミラが抱きしめる、ディアドラめがけて。


『ディアドラに会える日を、楽しみにしています』


(ルーク……!)


 夫の手紙の文字が脳裏をよぎった瞬間、カミラは体をひねった。ディアドラめがけて投げつけられたものはカミラの腰に当たり、生温かい液体のようなものがびしゃりと背中に広がる。


 人影が「ちっ!」と舌打ちする中、髪を手放されたカミラはその場に倒れ込んだ。

 その拍子でディアドラが目を覚まして泣き始め、じわじわとした痛みのようなものが背中に広がる中、カミラは娘の体に視線を走らせる。


 大丈夫、ディアドラの体には、あの液体のようなものはかかっていない。


(よかった……)


 安堵しつつもしっかりとディアドラを抱き込むカミラだが、なんだか背中のあたりが異様に冷たい。

 開け放たれたままの窓から吹き込む夜風のせいだけでなく、背中からじわじわと感覚が失われていっているかのようだ。


(……どうしよう。なんだか、ぼうっとする)


 背中にかけられた液体のせいか、だんだん体中の感覚が失われていく。だから自分の周りで人影たちがばたばた走り回る音が聞こえても、あまりよくわからなかった。


 だが。


「……カミラ様!?」


 声が、聞こえた。


 今日はまだ聞こえるはずのない声が、カミラの耳にはっきりと届く。使用人たちの叫び声も聞こえる中、しっかりとした足音が近づいてくる。


「カミラ様! 大丈夫ですか!?」

「……ルーク?」


 この声は。

 最後に聞いたときより幾分低くなっているが、間違いない。夫のルークだ。


 顔を上げようと思ったのに、首が動かない。ルークにディアドラの顔を見せてあげたいのに、腕がぴくりともしない。


 でも、ディアドラは体をじたばたさせながら泣いている。もう首から上しか動かないカミラと違い、元気いっぱいだ。


(……私、ちゃんと、ディアドラを守れたのね)


「ルーク……いるの? 見えない、見えないわ……」

「カミラ様! 私です、ルークです!」


 カミラが体を動かせないと気づいたようで、ルークがしゃがんでくれる――がその直後、カミラのまぶたも固まったように動かなくなり、やがて視界も完全に閉ざされた。


(私……死ぬの? これが、死を前にしたときの感覚なの?)


 は、は、と息を吐き出す唇だけしか、動かない。

 耳も働かなくなったようで、つい先ほどまでカミラの名を呼んでいたルークの声も聞こえなくなった。


『ディアドラに会える日を、楽しみにしています』


「ルー、ク……」


 今にも固まりそうになる唇を必死に動かし、そしてカミラは微笑んだ。


「ディアドラを、お願い……」


 ルークの子をちゃんと守れたから、どうかカミラの代わりに抱き上げてやってほしい。

 たくさんの愛情を注いでほしい。

 これからも、守ってあげてほしい。


 カミラの唇が、微笑みをかたどったまま動かなくなる。

 そしてだんだん意識が遠のいていき、最後には何も考えられなくなった。

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