4.あなたが愛せる人が訪れるまで
先を進む侯爵様の後ろ姿を見ながら、自室に繋がる廊下を歩く。
前世ではありえなかった光景ですわ。この方が私の部屋に来ることは一度もありませんでしたから。
足の長い侯爵様に置いていかれない為に、小走りでついていっているのですが……大変ですわ。
まさか、私よりも小柄なアリエッサにも同じようなことをしておられないですわよね?
部屋に着く頃には随分と息が乱れてしまいました。
侯爵様は私の様子にも気が付かず、殺風景な部屋を見渡しています。
カーペットの上を数歩分だけ引きずった跡のある椅子に近づいていった侯爵様が指さしました。
「この椅子を運べばいいのか」
「はい。窓辺で読書がしたいのです」
お願いできますかと手で指し示しますと、侯爵様は鼻を鳴らしました。
これくらいのことさえ自分で出来ないのかという失望が見え、私はお願いをしたことを後悔しました。
お手を煩わせるわけにはいきませんので、自分でやりますと言わなくては。
ですが、俯く私の前を侯爵様が通り抜けていきます。
ああ、やはり怒らせてしまいましたね——後悔して手を握ります。
ですが、侯爵様は部屋の扉を開けて外にいた従者を呼ばれました。
「軽い椅子を持ってこい。俺ではなく妻が使うんだ、デザインも考えてやれよ」
座り心地もだという声に胸が温かくなってきます。
「少し待っていろ」
振り返って言う侯爵様に、驚いて口を開きました。
「……いいのですか?」
「なにがだ」
「ですので、椅子のことです。用意してもらうなど、過分な対応ではないかと」
そう言うと、侯爵様はなにを馬鹿なことをと片眉を下げて首を傾けられました。
「ここはお前に与えた部屋だ。椅子ひとつ主人が持ち上げられない様子では困る」
お前はこの屋敷の女主人になったんだぞと諭され、失礼しましたと頭を下げました。
そうですわね、使用人に見くびられるような女主人では侯爵様を困らせてしまいます。
「他に必要な物は」
こんなに簡素な部屋にしろと命じた覚えはないんだがな、と冷ややかに言う侯爵様に首をかしげそうになりました。
私は前世も同じ部屋と調度品を使っていました。
女主人だと認められるまでは悪女だと使用人に嘲られていたからです。
それに、ほとんどの時間を執務室で過ごしていましたので、不便だと思うことはありませんでした。
「いいえ、ありませんわ。私にはこれで十分です」
「可愛げのない女だ」
ふ、と笑った侯爵様の手が伸びてきます。
侯爵様には叩かれたことはなかったのですがと目を閉じ、衝撃に堪えられるようにと体を硬くさせます。
ですが、侯爵様の手は肩に置かれただけで離れていきました。
なんと冷たく、大きい手でしょうか。
「お手が汚れてしまいますから、私には触れてはいけません」
「そう言うが、服は汚れていないぞ」
「……滴らないようにしております。ですが、髪に触れれば泥がつきます」
衛生的にするようにいたしますと、まとめ上げた泥の近くまで手を上げます。
実際は見せかけているだけなので、触っても泥がつくことはありません。
ですが、鏡のように光を反射させて侯爵様の目を眩ませることがないのですから。こちらの方が余程いいですわよね。
「お見苦しければ刈りましょうか」
それでよろしいですかと視線を向けます。
侯爵様のお顔は苦味を帯びておられました。
「そんなことはしなくていい」
手で口を覆われ、なにやら悩まれている様子。
こんな見た目でも一応は女性なので慮ってくださっているでしょうか。
「そうですね、侯爵様。結婚式なのですが」
「ああ、そのことを話さなければと思っていた」
どうしようかと聞いてくる侯爵様には奇怪に見えるはずですが、微笑みかけてみます。
「私は開かなくていいと思っております」
侯爵様の矜持を保つためにも、外部にこのような醜態を晒すわけにはいきません。
元々婦人同士の社交はアリエッサの得意分野でしたし、今回は仕事関係以外では屋敷に閉じこもっていましょう。
どうしても必要なときに使うベールも念の為に用意しなければなりませんね。
「顔は気になるなら隠せばいいだろう」
「それもそうですが、結婚式など私たちに必要でしょうか」
前世で出なかった人がなにを言っておられるのでしょうか。
今回も一人で惨めな思いをするくらいでしたら、いっそ開かないでいてほしいですわ。
見つめていますと、侯爵様はたじろがれました。
体面があるので開かなければいけないとなれば、私がベールで隠してでも一人でも出ます。
その程度の覚悟ならばして来ました。
侯爵様も参加する場合、誓いのキスはなくしてもらいましょう。
こんな汚らわしい口を侯爵様に触れさせるわけにはいきませんからね。
「……分かった。やらない方向でいこう」
「ありがとうございます。同意していただけて良かったですわ」
安心した私は手を合わせました。
どうしたことか、侯爵様は飲み込み切れないものがあるような顔にされています。
首を傾げていますと、侯爵様がゆっくりと口から手を離しました。
「君は、俺のことが嫌いなのか」
その質問は私にとって驚くべきものでした。
侯爵様のことが嫌い? とんでもないことですわ。
誤解されたようですし、私の素直な気持ちを伝えておくべきでしょうか。
「いいえ、お慕いしておりますわ」
今も昔も、私が一心に想っているのは目の前におられるこの方だけなのですから。
「そうか……」
ですが、侯爵様はまたしても口に手を押し当てて目を閉じたきり黙ってしまわれました。
(そうですよね、私から好かれても嬉しくありませんわよね)
苦笑いを浮かべた私は「ご安心くださいませ」と頭を小さく下げました。
「あなた様に愛されようなどという、分不相応なことは考えておりません」
一方的に愛させてくれればそれでいいのですと、真っ直ぐに侯爵の目を見ながらお伝えします。
それだけで私は幸せですし、過分な待遇ですと。
「今日はありがとうございました。ですが、私にはお構いなく」
「……それはどういうことだ」
低くなった侯爵様の声に肩が跳ね上がりそうになりましたが、手を強く握って止めます。
「侯爵様が愛する方に侯爵夫人になっていただきたいのです」
侯爵様は必ず、一年後の春にアリエッサと劇的な出会い方をします。
この方の概念を覆すような、激しく燃ゆる恋に二人は喜んで手を繋いで向かっていくのです。
「私はそれまでの代わりとしてお使いください」
「俺は自分のことを人を愛さない、冷たい人間だと自負しているんだがな」
どこにそんな自信があるのだと言われ、私はふふっと笑ってしまいました。
「冷たいだなんて。侯爵様は私を自由にしてくださったではありませんか」
アリエッサを好きになった後も、私を無理に追い出すことはなさいませんでした。
愛情はなくとも、私の能力に向き合い、認めてくださった誠実な方です。
(あなたが優しいからこそ、私は今も真っ直ぐに「愛している」と言えるのですよ)
「断言いたします。この先、侯爵様の元に必ず愛してやまない方が現れますわ」
嘘だと思ったら切り捨てていただいて構いません。ですが、後悔することになりますわよ。
微笑みながら言うと、侯爵は「ふむ」とこちらに視線を落としました。
「……そうかもしれないな」
僅かに目元が和らいだ――気がします。
口元もどことなく緩んでいるように見えました。
ですが、きっとアリエッサに向けられていた笑顔がまた見たいという私の醜い願望が見せたまぼろしに違いありません。
「信じていただき光栄ですわ」
僅かな時間でも、愛する人と笑い合えれば。
笑顔を作っても大変に不気味で見られたものではないと知りながらも、そんな欲が頭を出しました。
カーチェスター侯爵様。
私は、今世も心からあなたをお慕いしております。




