1.私の名は
分かりましたと顔を上げましたが、彼の視線を受け止めきれません。
消え入りたい、視線を逸らしてしまいたい。
「触れても?」
意図が掴めないままに頷きますと、大きな手が頬に触れてきました。
今度は「目を閉じてくれ」と指示を受けたので、その通りにします。私の顔の至るところに侯爵様の指が触れ、なぞっていきます。
なにかの確信を得て辿っているようで、私の心はざわめきました。
やがて侯爵様が手を離しました。
「やはり君が私の妻だ」
目を開けると、微笑みを浮かべた彼の顔が目に入ってきました。
「どうして私がメルシーだと分かったのですか」
「自分の妻が分からない夫がいるか」
立ち姿勢だけでも見分けられたと言われ、私は困惑しきりです。
「本当ですの……?」
見つめていますと、侯爵様は咳ばらいをしました。
「確信を持ったのは目だ」
確かに目は魔法で変えられません。
視界が滲んできて、私は顎を上向けました。
私はあんなに醜い顔にした。
あなたを裏切ったも同然の行為なのですよ。
それなのに――……侯爵様は、私を見てくださっていた。
その気持ちで胸が溢れかえって嗚咽が出そうになります。
「無事で良かった」
柔らかく抱き締められ、私の胸に宿る罪悪感が語り掛けてきます。
この欲深い腕を伸ばしてもいいのでしょうか。
優しいこの人に、縋りついてもいいと思っているの? と。
侯爵様に両肩を掴まれて引き剥がされてしまいます。
ああ、やはり私は――あら? 一体どこを見ていらっしゃるのかしら……?
「な、ど、なぜ……っ!?」
口ごもる侯爵様に、なんでしょうと体を見下ろして――「きゃあっ!」と悲鳴を上げました。慌てて胸を隠します。
晒し布が破れていたことを忘れてしまっていましたわ。
「も、申し訳ございません。お見苦しい姿を」
「ドレスもボロボロではないか。どうして君はこうなる前に助けを呼ばないんだ!」
我慢などしなくていいとマントを鎧から外した侯爵様に体を包み込まれます。
その上から抱き締めてくる侯爵様のお顔は、どうしてでしょう……なにやら焦っておられるように見えます。
「……心配をお掛けしましたでしょうか」
「当たり前だ。君は今日、俺の寿命を縮ませたんだぞ」
まるで子どものように拗ねたことを言う侯爵様がお可愛らしいですわ。
思わず笑い声を立ててしまいます。
「どうして笑うんだ」
「申し訳ありま」
謝罪をのせた私の唇に、なにか柔いものが押し当てられ、言葉が封じ込められてしまいました。
(これはなんでしょうか……)
ぼんやりとこの触感がなになのかを考えます。
目の前には侯爵様のお綺麗な顔。
いつ見ても世界で一番格好良い人ですわ……と見惚れてしまいます。
「せめて目は閉じるのがマナーだと思うんだが」
ああ、寂しいことに侯爵様のご尊顔が離れていってしまいました。
「そんなに凝視されていると流石の俺も恥ずかしいぞ」
握った拳を口に押し当てておられるのをぼんやりと見つめます。
「まあ。……そうなんですか?」
珍しい表情ですけれど、どこかで見たことがある気がいたします。
横や斜め後ろに回って眺めてから手を打ちます。
普段は真正面からでなく、この角度からだったので分からなかったのですね。
(どうして私相手に照れていらっしゃるのかしら?)
不思議に感じながら、そういえば注意をされていたのだと思い出して頭を下げました。
「以後気を付けます」
「いや、君が見ていたいというなら別だが……俺がなにをしたか分かっていないようだしな」
なにとは、なんでしょうか。
あの奇妙な感覚を人はなんと言い表すのか分からず、首を傾げます。
「それより、屋敷に戻るぞ。使用人たちが君が連れ去られたんじゃないかと言って、捜索しているんだ」
「イーサンに会ったから来てくださったのではないのですか?」
まさかあの子は屋敷に帰れていないのですかと血相を変えた私に、侯爵様は手を突き出しました。
「子どもの言うことだし、アイアンウルフなどよく出る魔物だからあまり気にしていなかったんだ」
まあ今頃母親に怒られていると思うがなと腕を組む侯爵様に、そうですかと頷きます。
「託児所の体制を整え直さないといけませんわね」
どうして侯爵家で使用人の子どもを日中預かっているのかといいますと、その方が通いの女性たちが働きやすいからです。
けれど、問題が起きることが分かりました。
屋敷のどこかで遊ばせておくのではなく場所を指定すべきですわ。
子どもの世話をする大人も雇った方がいいでしょうね。
「ああ、俺もそう考えていた」
どうせだし小さな学校でも作るかと笑う侯爵様に、「いい案ですわね」と手を合わせます。
「さすがは侯爵様。賛成いたします」
侯爵様は片方の眉を下げました。
「どうされました?」
「いや、こんな話は後でもいいだろうに……君は本当に面白いな」
くつくつと喉を鳴らして笑う侯爵様に、私は首をかしげます。
私ほど”面白い”からかけ離れた人間もいないはずですが……。
「帰ろう、……困ったな」
視線を下げた侯爵様に、私はなにか手伝えることはないかと聞きました。
「君をなんと呼べばいい」
面映ゆい気持ちを打ち明けてくれた侯爵様の可愛らしさに、思わず手を握り締めました。
ですが本当のことを言うわけにはいきません。
「私はメルシーですわ、侯爵様」
「違うだろう、君はメルシーではない。俺は奴と面識があるんだぞ」
「そうだったのですか? 始めてお聞きしましたわ」
それは聞いたことがない情報です。
前世では侯爵様と事務的な話以外はすることが少なく、彼も私がメルシーであることを疑ってはいても訊いてはきませんでした。
「騙していて申し訳ございませんでした」
なので悪い噂を聞いてか、同じような性格をしていると思われているから嫌われているのだとばかり思っていたのですが……。
自分を騙している女になど、信用も愛情も生まれてきませんわよね。
「君に事情があるのは分かっていた。それは気にしなくていい」
「侯爵様の温情に感謝いたします」
「それより、君の本名は? 一体誰なんだ」
正体くらい打ち明けてくれてもよくないかと言われ、そうですわねと首肯いたします。
「私は前伯爵夫妻の娘。以前はティルカ・クレイヴンファーストと名乗っておりました」
マントを指でつまんでお辞儀をします。
すると、ようやく侯爵様は満足そうに口の端を上げてくださいました。
「よろしく、ティルカ」
差し出された手に指の先をのせて、微笑みました。
膝を一度曲げ、愛する人を見上げます。
私の好きな――アリエッサを前にしたようなお顔をするのは、どうしてですの?




