1.「おかえり」と言われなくとも
嫌悪の目で見られていても、あなたを愛していました。
私に自由をくれたあなたを遠くからでも見ていられれば、それで良かったのです。
たとえ、その隣にいるのが私でなくとも不満はありませんわ。
大好きな彼らが笑っていてくだされば、私は幸せでいられるのですから。
――けれど、もうそれですら望めないだなんて。
自分の血で汚れたドレスを見たきり、私の意識は深く落ちていきました。
私のなにが災いを起こし、あの方たちを誰が仕向けたのでしょうか。
どうか、侯爵様。
愛しき侯爵領の者と、妹のようなあの子を守ってください。
「俺が人を愛すことはない」と言われた日から、私の手が握られることはないと分かっておりますから――
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「カーチェスター侯爵が、結婚相手を捜しているんですって」
目を開けると、棒切れのような白い腕が映り込んできます。
この爪が欠けて煙草の火傷跡が目立つ腕は、しばらく見なかった自分のものように見えます。
私の意思で動く腕の奇妙さに、動悸が激しくなるのを感じました。
どうして、あのような目に遭った私が生きているの?
「聞いているの!?」
頭から水を掛けられたことで、視界が塞がれます。
薄汚い灰鼠色の髪の間から、辺りを窺ってみましょうか。
重厚な扉の前に立っているのは叔母です。
彼女はなにかと言えば金の無心をしに侯爵様の城まで来るので、毎度説得に苦労しました。
周りに仕える騎士の手にはバケツがありますね。彼らが私に水を掛けたのでしょう。
照明すらない寂れた石塔にいるようで……これは、結婚するまで暮らしていた伯爵家に違いありませんわね。
「聞いておりました。ですが……」
私は結婚するまで夜会どころか、伯爵家の屋敷から一歩たりとも出たことがありませんでしたわ。
カーチェスター侯爵との結婚など、関心を向けるべき知らせとは思えません。
しばし叔母を見つめ、不意に顔をそらしてみましょう。
「あなたの娘の結婚など知りません」
そう言った途端、叔母の顔に朱が差しました。
甲高い足音を立てて近寄ってきた叔母に、頬を叩かれましたわ。じんとした鈍い痛みが頬に広がっていきます。
「侯爵と言っても、あのカーチェスター卿なのよ!? 私の大切な娘をあげるわけがないじゃないの」
髪を掴んできた叔母に、乱暴に振り回されます。
もう一度聞こえてきた名前に、理屈は分からないものの私は確信を得ました。
(私、戻ってきてしまったのね……)
カーチェスター卿は切り立った雪山に囲まれた、北部最大の貴族。
若くして家督を継がれた侯爵様は、夜のような黒い鬣に、深い紫の瞳を持つ端正な顔立ちの美しい方なのです。
けれど、この頃は戦が頻発していて、武功を上げたい侯爵様は多数の戦に出向いておられました。
そのせいで戦いばかり好む無頼漢、夜会で機嫌を損ねる行為をするご婦人の首の骨を折ってしまう、などという恐ろしい噂を立てられていましたね。
「戦勝金で私腹を肥やしているみたいだし、王家の血筋も引いていてちょうどいい相手なのに……」
叔母に娘が可愛いという気持ちがあったことに驚きました。
千切れて床に落ちた髪に指を触れさせながら、こっそりとため息をついてしまうわ。
「だから、私の娘としてアンタが嫁ぐのよ」
乱暴はやめていただきたいですが、彼女の勘違いがなければ侯爵様に出会えませんでしたものね。
「ドレスと馬車なら用意してあげる」
「すぐに見破られてしまいますわ。お嬢様と私ではお顔どころか、髪や目の色まで違うのですから」
胸に手を当てながら言うと、叔母はフンと鼻を鳴らしました。
「アンタが考えればいいでしょ。もし帰ってきたら、一生下働きをさせてやるからね!」
私の浅知恵では侯爵様を騙せませんわよ。
「精々、あの男から金を巻き上げるのね」
「叔母さま、お待ちくださいませ……!」
背を向けて出ていこうとする叔母をそのまま見送っても良かったのですが、考えを変えられても困ります。
「あの男を騙すなんて、私にはできませんわ」
ドレスの袖を掴むと、足で振り払われました。
どうせ何日もロクな食べ物を分け与えてもらえていなかったのでしょう。力の入らない体は簡単に倒れました。
閉じられた扉を見ても、なんの感情も湧きません。
相変わらずロクでもないのは食べ物だけでなく、私の人生すべてです。
クレイヴンファースト伯爵家の、一人娘として生を受けたはずの私の――。
優しかった両親は、私が物心ついた頃に馬車の事故で亡くなった……というのは、叔母が作った嘘。
実際は、父に懸想した叔母が事故を装ったのです。
叔父に嫁いできた叔母と違い、私は正当な伯爵家の血を継いでいます。
だというのに両親が亡くなってから、叔父叔母に使用人まがいの扱いを受け続けてきました。
理由は赤い巻き毛に金の目の叔母と、銀髪に紫目の私とでは容姿が全く似通っていないからというもの。
痩せぎすの体を引きずって、壁に寄り掛かります。ですが、目を閉じても優しい夢など見られそうにありません。
(また侯爵家の邪魔者になるのは皆に申し訳ないけれど、この家にはいたくないわ)
侯爵様は私に温情を下さり、仕事相手として領地運営に関わらせてくれました。
なにより、私自身も大切な二人と侯爵領を見守らせていただきたいのです。
「……今度も、嫌われなくてはいけませんね」
そうすれば、せめて生きているくらいは許されるでしょうか。




