3.私にも、あなたがいたのです
同時に逆の方向へと走り出すと、アイアンウルフは見事、私の方を追ってきました。
「ケダモノが、獲物をいたぶる趣味でもおありなのかしら!?」
すぐに追いつかれてしまいましたが、距離を詰めるだけで攻撃してきません。
叫んだ瞬間、鋭い爪にドレスを引っ掛けるようにして切り裂かれ、背中に小さな痛みを感じました。
胸に巻いていた晒し布を破られてしまい、無様に揺れた胸を手で押さえつけます。
「いやああぁ……! ごめんなさい、来ないでぇ!」
恐慌状態に陥った私は大きな悲鳴を上げました。
地面を大きく抉られ、体勢が大きく崩れて木に体の側面が近づきます。
ぶつからないようにと避けようとしましたが、道が切れていました。
「きゃ……っ」
小さく声を震わせて立ち止まります。
考えなしに走ったせいで、道の端に寄り過ぎたのです。
今更気付いても遅く、魔物はじりじりと迫ってきております。
(ど、どうしたらいいの)
大きく振るわれた魔物の腕が地面に叩きつけられ、地面が崩れました。
急になくなった足場。私は腕を振るって、なにか掴むものはと目で探しましたが――咄嗟にしがみつけそうな物はなにもありませんでした。
(侯爵様!)
心の中で叫んでも、彼はいません。
イーサンに頼みはしましたが、そんなのは彼が逃げる理由なだけですわ。
お忙しい侯爵様は、私をわざわざ助けに来たりしません。
背中からひっくり返り、滑り落ちていきます。
落ちている枝や石、地面で体を擦って痛い。
落ちるところまで落ちていくと、顔面から水に突っ込んでしまいました。
手を突き、顔を上げて濡れた顔と髪を手で拭います。
膝を立てて後ろを見ると、アイアンウルフが上から降りてこようとしているところでした。
ヒッと口から息が出ます。
起き上がりたいのに、地面を叩くだけで足がついてきませんわ。
ようやく立ち上がれたときにはもうほとんど降りてきていました。
私は腰までの深さの池に座り込んでしまいました。
頭の中に記憶が蘇ってくるのです。
刺された腹の熱さと痛み、引きずられてできた血の道――前世で死んだ時のことが。
やはり、これは罰なのでしょうか。
あの石塔の中から出たいと願った、欲深い私への。
前世も、今世も。私にはこのような結末がお似合いということでしょうか。
私にも、ドレスを掴んで引き留めてくれる人がいたというのにですか……!
「ティルカ、どうして行くのよ! 私、ケーキを焼いたのに」
可愛らしい顔を厳めしくさせて、大きく目を吊り上げて怒る彼女。
あの日、私が出掛けるのをアリエッサは嫌がったのです。
「王宮からの呼び出しよ。どうしても行かなければならないの。……分かって、アリエッサ」
まるで子どものように宥めて、そうして私は侯爵領を出て行きました。
私はそのことを、今も後悔しているのですよ。
『帰ってきたら、一緒に食べましょ。約束よ』
侯爵様は帰ってきました。
だというのに、愚かな私が彼女を悲しませた。
私が亡くなったと知ったアリエッサは泣いたでしょう。
ですから――「私、今度は絶対にあなたよりも先に死にませんわ!」
降りてきたアイアンウルフの周りに炎を出し、それを風で巻き上げます。
(もっと……もっと、大きくよ!)
周りの乾いた葉っぱや枝なども巻き込ませて、大きく大きく広げていきます。
体に火がついた魔物が転げまわって消そうとしている間に立ちあがり、邪魔なヒールを脱いで魔物に向かって思い切り振り投げました。
「当たりなさいよ!」
二投目が顔に当たり、アイアンウルフがキャンッと鳴き声を上げました。
いい気味ですわ、少しは弱者の気持ちも分かればいいのです。
私は鼻で息を吐き出しました。
この内に、池の反対側へ逃げてしまいましょう。
ドレスが破れてしまいましたが、構いませんわ。どうせ私とこの魔物以外にいないのですからね。
怒って咆哮したアイアンウルフの脳天に、風で浮かせた石礫をぶつけます。
魔法を正確に操る訓練など、したこともありません。
目など、柔らかく弱点になりそうなところに当てられる技術が私にあればよかったのにと、歯噛みします。
(帰ったら剣ではなく、魔法を教えてもらった方がいいですわね)
その方が私には合っている気がします。
ですが、いかんせん攻撃魔法など覚えていないのでじり貧です。
大きく破れて邪魔になるドレスの裾をナイフで切って、素足のまま走り出しました。
私には逃げの一択しか残されておりませんので。
火を消し終えたアイアンウルフがまっしぐらに走ってきます。
子犬は可愛いですが、魔物はあまりにも凶悪ですわ!
もうこれ以上の攻撃ができませんし、森に紛れましょう。
木々の群れまで行こうと思い立ちます。
「アオォ――――ン」
背後からアイアンウルフの遠吠えが聞こえ、振り向きました。
四肢が浸かっっている池が凍っています。
一体なにが起こったというのでしょうか……私は走ろうとする格好のまま固まってしまいました。
大きな氷柱が体を貫いて、魔物は頭から原型を失って崩れていきます。
「な、なんですの?」
消し炭のように細かな粉状になっていく魔物に、呆然としていまいました。
私、助かったんですの……?
「付近を捜せ」
ですが、聞き慣れた声に我に返って木陰に身を隠れました。
池の対岸に現れた人物に、私は破ったドレスの布きれを頭に被ってさらに縮こまります。
「ど、どうしているんですの……」
先頭に立っている黒髪の騎士は、どう見ても侯爵様です。
出ていきたい気持ちで胸がいっぱいになっていますが、今の私には合わせる顔がありません。
正確には合わせる顔が違うのですが……出ていけませんわよね。
(ど、どうしたらいいのかしら……!?)




