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13.君の名前は

 魔物は倒されたのだから、濡れた頭が渇くのを待って帰ればいい。もしくは顔を隠して行き、リリアに呼び出せばとドクドク脈打つ心臓を抑えるように胸に手を当てて歩いていく。

(イーサン、無事に逃げられてよかった……)

 ぎゅうと手を握って感慨に耽っていると草を踏む音がして振り返る。

「なんでよ……っ?」

 先程の個体よりも随分と小さいが、そこにはアイアンウルフがいた。理不尽な怒りから頭に被っている布やナイフを地面に叩きつけて地団太を踏みたくなってくる。

(あ……違うわ。この”子”は)

 だが、よくよく観察していたティルカは泣きそうになってしまう。あのアイアンウルフが大きいわけではなく、目の前にいる個体が小さいだけだ。この子どもを守ろうとして、入ってきたティルカたちを排除しようとしたのだーー

 気付いてしまうと、もう抵抗する気がなくなってしまった。死にたくないという気持ちと、自分と同じように親を亡くしたこの子への同情心で挟まれて頭を抱えたくなる。

(ダメ、どうしたらいいか分からない……っ)

 じりじりと後退していくティルカを、子どもは澄んだ目で見つめてきた。

「ごめん、ごめんなさい」

 魔物は瘴気で土地を汚し、人を襲う害獣であり討伐の対象だ。けれど、ティルカには殺すことができない。特に、子どもは。

 けれど、この事態を招いたのは自分のせいだ。ならばと、付近にある物で一番大きな岩を魔法で持ち上げる。ぐらぐらと揺れ、何度も落としそうになるが魔物の上まで浮かせた。

 息を吐き、目を開けたティルカは魔法を解こうとして、「なにをしている!」という怒声に意識を持っていかれた。自由になった岩は一気に魔物の頭部を圧し潰す。

 ぐじゃりという音がして、ティルカがそちらの方を向こうとすると目を大きな手で覆い隠された。

「見なくていい」

 大丈夫だと横にやって来た鎧姿の男に抱き言われ、体の力が抜けていく。地面に膝をつきそうになったティルカを片腕で受け止めた男は「よく頑張ったな」と労いの言葉を掛けてくれた。

(侯爵様……)

 捜してくれていたのだと、彼の腕の中に収まった体が安堵に包まれる。抱きしめてくる男に侯爵様と言って、その胸に縋りつきたい。

 しかし、すぐに自分の状態を思い出してドレスの裾を引き下げた。幸い、このドレスを着るのは今日が初めてだ。誤って侯爵の所有地に入ってしまった領民のフリをすればどうにか切り抜けられるだろうと覚悟を決める。

「……君なんだろう」

 しかし、侯爵様に躊躇いがちに声を掛けられて声が出なくなった。

「私は自分の妻を捜していて、君がそうだと確信している」

 どうか顔を見せてはくれないだろうかと言われ、ティルカは唇を噛む。ここは侯爵家の敷地内で、拒めば更迭もやむなしだろう。

 分かりましたと顔を上げるも、彼の視線を受け止めきれず視線を逸らしてしまった。

「触れても?」と訊ねられて意図が掴めないままに頷くと、大きな手が頬に触れる。

 今度は目を閉じてくれと言われて従うと、顔の至る所を指がなぞっていく。なにかの確信を得て辿る指に、ティルカの心はざわめいた。

 やがて、侯爵様は手を離したので目を開けると「やはり私の妻だ」と微笑みを口元に浮かべた彼の顔が目に入ってくる。

「どうしてですの……っ?」

「自分の妻が分からない夫がいるか」

 立ち姿勢だけでも見分けられたと言われ、本当ですのと見つめると咳ばらいをされた。

「確信を持ったのは目だ」 

 確かに目だけは魔法で変えられない。それを聞いたティルカは目を潤ませた。あんなに醜い顔にしていたのに、それでも彼は自分を見てくれていたのかという気持ちで胸が溢れかえる。

「無事で良かった」

 柔らかく抱き締められ、ティルカの胸にある気持ちが宿った。この腕を伸ばしてもいいだろうかと、優しいこの人に縋りついてもいいのだろうかと。

 しかし、侯爵様に両肩を掴まれて引き剥がされてしまう。

「な、ど、なぜ……っ!?」

 口ごもる侯爵様に、なにかと自分の体を見てーー「きゃあっ!」と悲鳴を上げて胸を隠す。晒が千切れてしまったことを忘れてしまっていたのだ。

「ドレスもボロボロではないか。どうして君はこうなる前に助けを呼ばないんだ」

 我慢などしなくていいとマントを鎧から外した侯爵様に体を包み込まれ、そうしてから抱きしめられる。

「……し、心配をお掛けしましたでしょうか」

「当たり前だ。君は今日、俺の寿命を縮ませたんだぞ」

 まるで子どものように拗ねたことを言う侯爵様が可愛らしく、ティルカはくすくすと笑い声を立てた。謝罪を口にしようとしたら柔いものが押し当てられて封じ込められてしまった。

(これはなんでしょう……)

 ぼんやりとこの触感がなになのかを考える。目の前には侯爵様のお綺麗な顔があり、世界で一番格好良い人だなとうっとりしてしまいそうになった。

「せめて目は閉じるのがマナーだと思うんだが」

 侯爵様のご尊顔が離れていき、そんなに凝視されていると流石に恥ずかしいと握った拳を口に押し当てるのをぼんやりと見つめる。

「あぁ、はい。そうなんですか?」

 珍しい表情だと思ったが、思い立って横や斜め後ろに回って眺めてから手を打つ。この顔を見たことはあったが、それはいつもこの角度からだったのだ。

(どうして私相手に照れていらっしゃるのかしら?)

 不思議に感じながら、そういえば注意をされていたのだと思い出して頭を下げる。

「気を付けます」

「いや、君が見ていたいというなら別だが……俺がなにをしたか分かっていないようだしな」

 なにとは、なんだろうか。あの奇妙な感覚をなんと人が言い表すのか分からず、首を傾げる。

「それより、屋敷に戻るぞ。使用人たちが君が連れ去られたんじゃないかと大捜索中なんだ」

「あら、イーサンに会ったから来てくださったのではないのですか?」

 まさかあの子は屋敷に帰れていないのかと血相を変えるティルカに向かって手を突き出してき、「落ち着け」と渋い顔をされる。

「子どもの言うことだし、アイアンウルフなどよく出る魔物だからあまり気にしていなかったんだ」

 まあ今頃母親に怒られていると思うがなと腕を組む侯爵様に、そうですかと頷く。

「託児所の体制を整え直さないといけませんわね」

 どうして侯爵家で使用人の子どもを日中預かっているのかというと、その方が通いの女性たちが働きやすいからだ。

 けれど、問題が起きたなら屋敷のどこかで遊ばせておくのではなく場所を指定すべきだし、誰か一緒にいる大人も雇った方がいいだろう。

「ああ、俺もそう考えていた」

 どうせだし小さな学校でも作るかと笑う侯爵様に、ティルカはまあと手を合わせる。

「流石は侯爵様、いい案ですわ!」

 賛成いたしますと言うと、侯爵様は「この話は後でもいいだろう」と片方の眉を下げる。

「帰ろう、……困ったな」

 視線を下げて「君をなんと呼べばいい」と面映ゆい気持ちを打ち明けてくれた侯爵様に、ティルカは手を握り締める。

「私はメルシーですわ、侯爵様」

「違うだろう、君はメルシーではない。俺は奴と面識があるんだぞ」

「そう……だったのですか」

 それは聞いたことがない情報だった。前世では侯爵様と事務的な話以外することがなく、彼もメルシーではないことを疑ってはいても訊いてこなかったのだ。

 だから悪い噂を聞いてか、同じような性格をしていると思われているから嫌われているのだと……。

「それで、君の本名は? 一体誰なんだ」

 正体くらい打ち明けてくれてもよくないかと言われ、ティルカはそうですわねと首肯した。

「私は前伯爵夫妻の娘。以前はティルカ・クレイヴンファーストと名乗っておりました」

 マントを指でつまんで礼をすると、ようやく侯爵様は満足そうに口の端を上げる。

「よろしく、ティルカ」

差し出された手に指の先をのせて「こちらこそですわ」と微笑んで膝を一度曲げ、愛する人を見上げた。

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