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伝言板の秘密

作者: まつだつま
掲載日:2023/01/10

 プロローグ

 進一は、駅前にある伝言板の前で拳を握り、唇を噛みしめていた。白いチョークで書かれた伝言板の文面から視線を外すことができない。書きはじめの強い筆圧に、これを書く時の決意のようなものを感じ、後半になるにつれ文字が震えているのは、不安と悲しみからかもしれないと思った。そう思うと進一の目頭は熱くなった。それを二度、三度と読みかえしてから、進一は意を決するように踵を返した。

 目の前に小さな噴水が見える。チョロチョロと水圧の乏しい水が垂れている。噴水の前には、長い年月、風雨に曝され続けたせいで色を失った木製のベンチが二つ並んでいる。進一は大きな体を揺らしながらゆっくりと大股で歩いて、噴水の前に向かった。噴水の横に少し錆の浮いた白い鉄柱が立ち、鉄柱のてっぺんには丸い時計がのってある。時計を見上げると時計の針は午前九時五十分をさしていた。待ち合わせ時間の十分前だった。

「あいつ、本当に来るのか」

 進一は時計を見上げたまま、そう呟いた。視線を時計から外しベンチに落とした。ハァーとため息をついて、ズボンの尻ポケットからハンカチを取り出し、ベンチの座面の砂や泥をきれいにはたいてからゆっくりとベンチに腰を下ろした。ベンチがギシッと変な音を鳴らす。このまま体重をかけて大丈夫なのかと不安になりながらも、ゆっくり慎重にベンチに体重を預けた。腰を落ち着かせてから、首をぐるりと回し、辺りを見渡した。耳障りな蝉の声が無ければ、時間が止まっているのかと勘違いするくらい寂しい場所だった。人目を避けて待ち合わせするには、都合のいい場所だったのかもしれない。

 ここに来る前にネットで調べてみると、今日はこれから気温が上がりこの夏一番の暑さになったようだ。たしかに、まだ午前中だが、強い日差しのせいで進一の額には、すでに汗が浮いていた。噴水の裏側のベンチなら日陰になっているが、そこからだと駅前の伝言板が見えなくなる。待ち合わせ場所は伝言板の前のはずだから、待ち人を見逃さないために、暑いがこのベンチで待つことにした。もし来る気があるのなら、あと十分位で待ち人は現れるはずだ。これくらいの暑さで根をあげていては、自分をここまで育ててくれた母親に申し訳ない。進一はそのまま伝言板の前に男が現れるのをじっと待ち続けた。


 進一はベンチから立ち上がり両手を上げて伸びをした。鉄柱の丸い時計に視線を上げると時計の針は十時十分をさしていた。待ち合わせの時間からすでに十分が過ぎている。小さく舌打ちをしてから、もう一度ベンチに腰を下ろし、天を見上げてため息を吐いた。

「あいつ、やっぱり、最初から来る気なんてなかったんだ」

 雲ひとつない真っ青な空からの強い日差しと耳に突き刺す蝉の声が進一の待ち人への怒りを増幅させていった。

 この後、どうしようかと伝言板に視線を向けて考えた。すると、人気のなかったこの駅で、進一以外にも待ち合わせをしているらしい少女が伝言板の前に立っていた。中学生だろうか、高校生かもしれない。まだあどけなさが残っている。少女は伝言板を見て唇を噛みしめていた。

 進一はベンチから立ち上がり少女が立つ伝言板の方へと向かった。歩きながら少女の顔に視線をやると、一瞬視線が交わったが、少女はびっくりしたように目を見開いてから慌てて視線を伏せた。こんな人相の悪い大男と目が合ったら恐怖を覚えるのも無理はない。進一は苦笑いを浮かべた。特に今の自分の表情は恐ろしくなっているはずだ。待ち人への怒りがマグマのように沸々とわきあがっているのだから。

 伝言板の前でもう一度そこに書いてある文字を目で追った。握る拳に無意識に力が入る。今のこの怒りを未だに現れない待ち人にぶつけないと気が収まらない。

 この後、どうするか考えていると、横から視線が刺さるのを感じて、そっちへ視線をやった。するとさっきの少女とまた視線が交わった。少女はまたすぐに視線そらして俯いた。進一は「ふん」と鼻を鳴らしてから、俯いている少女を見た。長い睫毛の下にすっと通った鼻筋。薄い唇が軽く開いている。黒く艶のあるストレートの髪を風になびかせ、水色のワンピースのスカートがふわりと揺れた。暑くなったのか胸元を指でつまみ空気を送りこむようなしぐさをしていた。恋人に待ちぼうけでもくらったのだろうか、薄い唇を噛みしめていた。携帯電話のある時代なら、すぐに電話で連絡がとれるのだろうが、この時代にそんな便利なものはない。進一はこの時代には使えない携帯電話をポケットから取り出した。二十五年後には、こんな便利なものができていることなど、この少女には想像もつかないだろうと、携帯に視線を落としてからすぐにポケットに戻した。

 進一の待ち人もこれ以上待ったところで来ないだろう。諦めて帰ることにした。もともと奴は来る気なんて無かったのだ。その場しのぎの嘘だったのだ。そう思うと、進一の怒りが一段と大きくなって沸々とこみ上げてきた。

「フゥー」と太い息を吐いた。作戦変更だ。向こうが来ないのなら、こっちから会いに行く。そして、なぜ今日ここに来なかったのかを問いただしてやる。場合によっては奴の奥さんに真相をばらしてやる。

「よしっ」右手で拳を握り左の掌を殴った。

 駅舎のなかに入る前にもう一度伝言板に視線をやった。

『生まれてくる子供とふたりで生きていきます。さよなら、ごめんなさい。Mより』

 母の残したメッセージだ。よし奴に会いに行く。そして、思いっきり殴ってやる。進一は急いで駅舎の中へと入った。

「あのー」

 そこで背中からさっきの少女の声がした。


 決意

「武史さん、わたし、妊娠三ヶ月だって」美和子はそう言って唇を噛みしめていた。自分のお腹に愛する男性の子供を宿したという、これまでに経験したことのない喜びがある。しかし、この後、前に座る男性からどんな審判が下されるのかが不安でならなかった。

「そ、そうか」江藤は宙に視線を泳がせていた。

「本当にわたしと結婚してくれるよね?」

 美和子は、まだ口もつけていないアイスコーヒーに視線を落としたまま訊いた。蚊の鳴くような声になってしまった。

「あっ、あー、も、もちろん、そのつもりだ」

 江藤の視線は相変わらず定まらない。美和子の方を見ようとせずにアイスコーヒーをストローで勢いよく吸い上げていた。

「じゃあ、近いうちにわたしの両親に会ってほしいの」

 このままダラダラと江藤のペースに合わせてはいけない。お腹の子供のためにも、自分は強くならなければならない。美和子はそう思い、出来るだけ声を張った。

「えっ、そ、そうだな」

「お腹の子供のことは、武史さんを紹介してから両親に報告した方がいいよね」

「そ、そうだな」

 江藤は目の前のアイスコーヒーに視線を落としたまま、ストローでせわしなくグラスの中をかき混ぜていた。カラカラと氷の音が鳴る。美和子はその音が耳障りで江藤にきつい視線を向けた。やっと江藤と目が合った。江藤の喉仏が上下した。

「じゃあ、わたしのお腹が目立たないうちに出来るだけ早く挨拶に来てくれる」

 美和子はこれまでとは違い、自分のペースで事を運ぼうとしていた。これまでは江藤の機嫌を窺いながら、江藤が離婚してくれるのをじっと待ち続けていた。お腹に子供ができたことで美和子は強くなると決意し、自分から江藤をここに呼び出したのだ。これまで自分から江藤に連絡することはなかった。

「出来るだけ、調整してみるよ」

 江藤はアイスコーヒーに向かって言った。

「調整?」

 江藤の顔を覗きこみ訊いた。美和子のこめかみの奥がピクピクと音を立てた。

「いや、近いうちに、そうだな、考えておくよ」

「奥さんと離婚の話し合いは進んでるの?」

 一番気になっていたことだ。美和子は、江藤と付き合いはじめてから江藤に妻子がいることを知った。それを知ってすぐに江藤とは別れようとしたが、江藤が奥さんとは離婚寸前だから、離婚したら結婚しようと言ってきたので、今まで待ち続けた。

「あ、あー、まあ、なんとかな。けど、いろいろと大変なんだ」

 江藤はまだアイスコーヒーに向かって話していた。江藤の額がアイスコーヒーのグラスのように汗をかいて濡れていた。

「本当に離婚するつもりあるの?」

「ああ、少し時間がかかるかもしれない。だ、だから、今、子供ができるとマズイかな。離婚の話し合いの時にこっちが不利になる。今回はお腹の子を諦めてくれないか。子供は結婚してからまたつくればいいだろ」

「えっ、おろすってこと?」

 美和子は指先が白くなるほど強くアイスコーヒーのグラスを握りしめた。

「そ、そうだな。それも頭にいれておいてほしい」

「そんなの、絶対イヤ」

 美和子は激しく首を振った。

「でも、まだ俺たち結婚もしてないのに、そんな状況で子供が生まれてきたら、その子供が可哀想だろ」

 江藤がやっと顔を上げた。そして煙草を胸ポケットから取り出し咥えた。

「生まれてきたらって、もうすでに生まれてるの。このなかに」

 美和子がお腹に手をあて、江藤を睨み付けた。自分の顔が熱くなるのがわかった。

「お腹にいるのはわかるけどさ、この世に生まれ落ちてくるのが可哀想だと思うんだ。今のままだと父親がいないことになるしな」

 江藤はそう言って胸ポケットからライターを出し、咥えていた煙草に火を点けた。「だから、今は生まない方がいい」と紫煙を吐き出しながら続けて、紫煙の流れていく宙を眺めていた。

 美和子は紫煙を右手で払い唇を噛みしめた。

「せっかく命があるのに、この世に生まれてこれない方がもっと可哀想よ。だから絶対に生む」

 美和子はテーブルを叩き、強い視線を江藤にぶつけた。

「じゃあ、どうすんだよ。俺もすぐに離婚なんて出来ないぞ」

 江藤が逆ギレし眉間に皺を寄せテーブルを叩いた。

「武史さん、すぐに離婚するって言ったじゃない。だから……」

 美和子は涙声になり言葉を詰まらせた。

「あの時はそのつもりだったけどさ、事情が変わったんだ。あいつに離婚しようと言ってもなかなか、ウンと言わないんだよ。あいつも最初は離婚に乗り気だったんだけどな。あいつは気まぐれでわがままなんだ。苦労知らずの社長令嬢だから、ほんと困ったもんだ」

 江藤は煙草を咥えたまま他人事のように言った。

「じゃあ、わたしから話す。わたしのお腹に武史さんとの間に子供ができたから、すぐに離婚してほしいって、わたしが奥さんにお願いしに行く」

「それはダメだ。あいつにそんなこと言ったら、美和子が何されるかわからない。あいつは怒らせると恐ろしいんだ。恨まれたら、お腹の子に何されるかわからないぞ」

「じゃあ、どうするのよ」

 美和子が前のめりになりテーブルを手のひらで軽く何度も叩いた。

 喫茶店のマスターが怪訝な視線を向けた。

「まあ、ちょっと冷静になれよ」

 江藤が紫煙を吐き出してから煙草を灰皿に押し付けた。

「フン、冷静になんてなれるわけない」

 美和子が鼻を鳴らした。

「じゃあ、かけおちでもするか」

 江藤が椅子の背もたれに体を預けた。口調が軽く投げやりに聞こえて美和子は苛立った。

「そんなこと出来るわけないでしょ」

「じゃあ、すぐに離婚するのは無理だから、子供おろして、待つしかないな」

 ため息しか出なかった。何を言っても無駄だ。お腹の子供をおろすことは絶対にしない。江藤と結婚して生まれてくる子供と三人で暮らしたい。そのためには江藤に離婚してもらうしかない。しかし、江藤はすぐに離婚する気はなさそうだ。もしかすると、江藤は端から離婚する気なんてなかったのかもしれない。ずっと騙されていたのかもしれない。美和子はそのことをずっと不安に思っていたが、これまでその不安が心の隙間から顔を出す度に必死で押さえつけてきた。しかし、もう押さえつけることができない。江藤は離婚する気なんてなかったのだ。

 話し合いはいつまでたっても平行線のままで、途中からは沈黙の時間が長く続いた。これまでの美和子は、自分の願いを伝えることをせず、江藤に嫌われないようにひたすら待ち続けたが、今日はそのつもりはなかった。具体的に結婚までの道筋を決めてしまいたい。生まれてくる子供のためにケリをつけないといけない。

 江藤は椅子の背もたれに体を預け腕を組んだまま宙に視線をやっていた。美和子は俯いてテーブルに視線を落としていた。


 江藤と知り合ったのは、一年前だった。美和子は昼間社員として経理の仕事をしながら、夜は知り合いに頼まれてスナックでアルバイトをしていた。江藤はそのスナックの常連客だった。最初は江藤の方から美和子に近づいてきた。背が高くスポーツマンタイプの江藤に美和子も好意を持った。その時、江藤は独身だと言っていた。美和子はそれを真に受けて付き合いがはじまった。付き合いはじめて一ヶ月した頃、スナックのママに江藤と付き合っているのではないかと勘ぐられた。江藤から口止めされていたので、嘘をついたが、ママはその時、こう言った。

「付き合ってないならいいんだけどね。江藤さん、多分独身だと言ってると思うけど、嘘だからね。きれいな奥さんと小学生になる男の子がいるから。江藤さんは女癖が悪いから、ミワちゃんも気をつけてね。でも、ミワちゃんはしっかりしてるから大丈夫かな」

 ママの話を聞いて頭が真っ白になったが、ママに感づかれないように無理に口角を上げた。

「わたしは、面食いじゃないですし田舎者ですから、江藤さんみたいなスマートなタイプは苦手なんです」

 そう言った声は上ずっていた。

「そう。ごめんね、変なこときいて」

 その後、すぐに江藤と別れようとしたが、江藤はすぐに奥さんとは離婚するからそれまで待ってくれと言ってきた。それを信じて付き合いを続けてしまった。


「ちょっと、トイレに行ってくる」

 沈黙に耐えられなくなったのか、江藤が椅子から立ち上がった。美和子は江藤の顔を見上げた。目が合うと江藤は苦笑いを浮かべ、無言のままトイレへと向かおうとした。その時、江藤の腰の辺りからヒラヒラと何かがテーブルの下に落ちていった。江藤はそれに気づくことなく、そのままトイレへと向かった。美和子はテーブルの下を覗きこみ、それを指でつまみあげると、それは写真だった。美和子はその写真に視線を落とした。美和子はしばらくその写真から視線をはずすことが出来なくなり、じっと見続けた。美和子の呼吸が荒くなっていった。目頭が熱くなったので写真を裏返してから目を閉じ、呼吸を整えるように深く息を吸った。少し落ち着きを取り戻し、目を開けてから、もう一度写真を表に向け視線を落とした。唇を噛みしめ、写真を自分の鞄にそっと入れた。

 江藤がトイレから戻ってきて、椅子に座ると同時に口を開いた。

「さっきのかけおちの話だけどさぁ。今度の日曜日に水山駅の伝言板の前で待ち合わせしようぜ。時間は午前十時だ。そこから俺たちは、新しい人生をはじめるために遠くへ行く。昔の友人に仕事や住むところは世話してもらうから心配するな。それでいいだろ」

「ほんとに?」

 江藤が胸ポケットから煙草を出して火を点けた。

「ああ、約束通り美和子を幸せにするよ」

「わかった。今度の日曜日ね」

 美和子はバッグから手帳を取り出し七月二十七日のところに丸印をつけた。

「そうだ。それで文句ないだろ。じゃあ、俺はまだ仕事があるからそろそろ帰るわ」

 江藤は煙草を灰皿に押し付け、立ち上がり伝票をもってレジへと向かった。

「ありがとうございました」

 喫茶店の店員の声が聞こえた。声の方に視線を移すと江藤の大きな背中が自動ドアの向こうに見えた。自動ドアが閉まり江藤の姿が視界から消えた。

 美和子はさっきの写真を鞄から取り出し、もう一度見た。

「かけおちか」と呟いた。

 父は生きている

 白線からはみ出さず、後ろのブロックにぶつけないよう、窓から顔を出し後方を確認する。家族が増えるとわかってから、思いきって軽自動車から買い換えた四駆だが、まだ操作には慣れていない。後部座席に座る母親と身重の妻の祥恵が不安そうな視線をこっちに向ける。何度か切り返して、駐車位置の白線内になんとか収まった。進一はフゥーと息を吐き窓を閉めてエンジンを止めた。

 軽自動車の頃より高い位置にある運転席から足を伸ばして車から降り、運転で凝った背筋を伸ばした。少し離れてピカピカに輝く黒いボディを眺めた。これからは、この車で海でも山でも、遊園地でも、いろんな所に連れていってやるからなと心の中で呟いて、祥恵のいる運転席側の後ろのシートのドアを開けた。

「車高高いから、足元気をつけろよ」と祥恵に声をかけた。

「わたしは大丈夫よ。それよりあなた、お義母さんの心配してあげてよ」

 祥恵は助手席側の後ろの席に座る進一の母親美和子に視線を向けた。

「進一、私も大丈夫よ」

 美和子は、そう言って反対側のドアから、さっさと車を降りた。

「車高が高いと、視界が広がって気持ちいいわね」

 美和子は両手を上げて背筋を伸ばしながら先を歩いて行った。まだまだ元気だなと、進一と祥恵は美和子の背中を追いかけた。

 駐車場を出て、そこから伸びる長く緩やかな坂道を見上げた。アスファルトに舗装されているが、道はボコボコしている。車一台が通れるかどうかの道幅で、この先に駐車場がないため、ここからは歩いて上がるしかない。

「この坂道は大丈夫か?」

 進一が祥恵に訊くと、「これくらい大丈夫よ」と少しバカにしたように言った。

「そ、そうか」進一は頭を掻いた。

 美和子がその様子を見て、フフフと嬉しそうに口に手をあて笑っていた。

 美和子と祥恵が進一の前で横一列に並んで歩き出し、進一は二人の後ろ姿を眺めながら坂道を歩いた。前の二人がたまに顔を合わせ、その度に肩を上下させるのを見て、進一は嬉しくなった。母は祥恵のことをお前にはもったいない嫁だと言ってくれているし、祥恵は美和子のことを大切に思ってくれている。幸せだと思った。

 もうすぐ春を迎える空からは、暖かい日差しが注いでいた。坂道を上がりきると少し汗ばむくらいだった。坂道を上りきったら、最後に二十段ほどの石段を上がらなければならない。石段は急だけど、身重の祥恵は大丈夫かと思ったが、今度は口に出さないでいた。祥恵は美和子と並んで難なく石段を上っていく。続いて進一も石段を上がった。石段を上がりきると視界が開け墓石がずらりと並んでいる。この真ん中あたりに多村家の墓がある。

 進一は祖父母の墓に手を合わせ、忙しい母に代わり、自分の面倒を見てくれた祖父母に感謝の気持ちを伝えた。特に祖父は父親のいない進一の父親代わりになってくれた。

「男の子は冒険心がないとダメだ」と言って、進一が幼い頃から、秘密の物置小屋で遊んだり、知らない世界に遊びに連れて行ってくれた。進一が思春期になると進路や恋愛についてのアドバイスもくれた。しかし時代が違い過ぎていたためか、祖父が変わっていたのかわからないが、ズレたアドバイスも多かった。しかし祖父と話しているだけで、進一は元気になれた。

 今日は祥恵のお腹に新たな命ができたことを祖父母に報告にきた。そして無事に元気な赤ちゃんが生まれてくるよう願った。両隣で手を合わせる二人の女性も同じようなことを報告しお願いしているのだろう。

 手を合わせる三人の中で、進一が最初に顔を上げた。墓石に彫られた多村家代々の墓の文字をじっと見つめながら生前の祖父母の顔を思い浮かべた。次に進一の右側で手を合わせていた祥恵がゆっくりと顔を上げた。進一は祥恵と視線を交わせた後、左側でまだ手を合わせ肩をすぼめ小さくなっている美和子へと顔を向けた。美和子がまだ手を合わせている姿を見て進一の口元が自然と綻んだ。祥恵に視線を戻し口角を上げあきれた笑みを送ると、祥恵は美和子に視線をやってから、両肩を上げ優しい笑みを返した。

 美和子はいつも祖父母に心配ばかりかけた親不孝な娘だったと話していた。唯一の親孝行は進一を生んだことだと聞いた時、進一の胸は熱くなった。未婚の母として進一を育てなければならなくなり、祖父母はそんな美和子をずっと支えていた。

 美和子は祖父母にすごく感謝しているのだろう。ここにくると、いつも手を合わせている時間がめちゃくちゃに長い。進一はその気持ちがすごく理解できた。

 しかし、美和子に対してひとつだけ、理解できないことがある。それは、もう一ヶ所墓参りするところがあるはずなのに、美和子はそこへは行こうとしないことだ。その墓とは美和子と結婚する予定だった男性の墓だ。二十六年前、美和子とその男性は恋人同士で、美和子のお腹に進一ができたので、すぐに結婚する予定だったが、結婚する直前にその男性は亡くなったらしい。本当なら進一の父親になるはずだった男性なのに、美和子はその男性のことについては口を開かない。進一はその男性がどこの誰でどんな人なのか全く聞かされていなかった。

 進一は自分の父親になるはずだった男性について詳しく知りたかったし、自分に子供ができたことを男性の墓前にも報告しに行きたかった。

 進一は本当はその男性は死んでいないのではないか、自分に話せない事情があるのではないかと疑っていた。


「今日はお墓参りに連れて行ってくれてありがとうね。車だと助かるわ」

 墓参りから帰ってから美和子と二人きりで話がしたいからと言って祥恵に買い物に出てもらった。祥恵には、これから美和子に話す内容は伝えてある。自分の出生についてのことだ。

「いいよ、それくらい。俺のじいちゃんとばあちゃんの墓参りなんだから、俺も可愛がってもらったんだ。それくらいして当たり前だろ」

「孫ができるの楽しみだわ」

 美和子は両手を合わせた。

「俺も父親になる。これからもっと頑張らないとな」

「そうね、しっかり祥恵さんを助けてあげないとダメよ」

「そのつもりだ。俺は絶対に二人を幸せにする」

 進一はお茶を一口飲んでから強い口調で言った。

「ところで、訊きたいことって?」

 美和子は湯呑みを両手で包み込むように持って首を傾げた。

「あ、ああ、あの、俺の父さんのこと、なんだけど」

 これまでにも進一は自分の父親について美和子に何度か訊いたことがあるが、美和子は父親のことになると途端に閉口してしまう。そして、その後は二人の間にどんよりとした空気が流れてしまうので、いつも聞きそびれてしまう。しかし今日こそは絶対に聞き出すつもりでいた。

「あなたのお父さんねー」

 美和子は湯呑みをテーブルにコツンと置いた。

「どんな人だった?」

 進一はテーブルに肘をつき両手を組んで美和子を見つめた。

「そうねぇ」

 美和子は宙に視線を向ける。

「外見は俺に似てた?」

「うん、あんたに似て、背が高くて体格がよくてカッコいい人だったわね」

「俺、父さんの墓参りがしたいんだけど。墓前で、もうすぐ父さんの孫ができることを報告したいんだ」

「そ、そうなの」

「父さんの墓はどこにあるんだ」

「……」美和子は俯いて唇を噛みしめた。

「母さんは父さんの墓参りに行ったことあるのか」

「遠いところだから……、なかなかねえ、行けないのよね」

「遠いところって、どこだよ」

「うん、そうね……、とおーいところ」

 美和子は遠くを見るような目をしていた。

「母さん、ごまかすなよ。俺はもう子供じゃないんだ。なに聞いても驚かないし、母さんのこと恨んだり、嫌いになったりはしない。だから、そろそろ本当のこと話してくれよ」

「進一は、父さんのことで何か知ってるの」

「知らないけど、母さんの態度がおかしいんだよ。父さんが俺が生まれる前に死んだんなら、俺の結婚の時や今回みたいに孫ができた時に母さんの性格なら父さんの墓前に報告に行くだろ。じいちゃんとばあちゃんには墓前に報告に行くのに父さんに報告に行かないのがおかしいんだよ」

「父さんとは、結局、結婚しなかったから他人のまんまだからね。他人のお墓には行きにくいのよね」

「俺は他人じゃねえだろ。俺は血が繋がってるんだぞ。俺だけでも墓前に手を合わせてくる。だから父さんがどこの誰で、墓がどこにあるか教えてくれ」

 そこから、美和子は俯いたまま顔を上げなかった。部屋の中は沈黙が続き、時計の音だけがカチカチと鳴っていた。

「母さん」進一はテーブルを叩いた。

 美和子は顔を上げて、進一の顔を見た。

「そうね、いつかはあなたにも話さないといけないものね」

 美和子が背筋を伸ばして進一の顔をじっと見た。

「ああ、教えてほしい。俺も二十五歳だ、もうすぐ父親になるんだ。何聞いても驚かないよ」

「そうね、わかった。じゃあ話すわ」

 美和子はそう言って宙に視線を向けた。

 

 進一は美和子から、自分の出生に関する真実をはじめて聞かされた。

 進一の父親は江藤武史という男で、美和子とは不倫関係だったため、美和子は未婚のまま進一を生むことになった。

 美和子は江藤から交際を申し込まれ、江藤と交際をはじめた。交際をはじめて一ヶ月ほどした頃に、江藤が和風レストランをチェーン展開するエトーフードサービスという会社の社長の一人娘と結婚していることを知った。それを知った美和子はすぐに江藤に別れを告げるが、江藤は離婚して会社も辞めるから別れないでほしいと言ってきた。美和子は江藤のその言葉を信じてしまった。というか、信じたかったというのが本音だった。美和子は江藤が離婚するまで待つことを選んでしまった。

 美和子の気持ちに変化があらわれたのは、美和子のお腹に江藤の子供を身籠った時だった。お腹の子供のために今の関係にけじめをつけてもらうよう江藤に迫った。江藤はすぐに離婚は難しいと言う。美和子は食い下がったが、話は平行線のままだった。最後に江藤は二人でかけおちしようと持ちかけてきた。美和子はかけおちに乗り気ではなかったが、すぐにはどうするべきか答えが出せなかった。

 江藤の提案通り、水山駅という駅で待ち合わせしてかけおちする約束はした。美和子は悩んだ挙げ句、待ち合わせ場所には行かなかった。美和子はかけおちしても幸せにはなれない。未婚の母としてお腹の子供を一人で育てることを決意した。その方がこのお腹の子は幸せになれると思ったからだ。

 進一は美和子の告白を唇を噛みしめ静かに聞いた。美和子が自分の出生の秘密を話してくれたこと、これまで自分を育ててくれたことに感謝した。

「江藤との最後の日に、この写真を見てしまって、わたしは一人であなたを育てる決意をしたの」

 美和子は進一の前に一枚の写真を滑らせた。進一は写真に視線を落とした。写真の中には、三人の男女の笑顔があった。背が高く体格のいい男性が白い歯を輝かせ、小学校低学年くらいの男の子を抱っこしていた。抱っこされたその子の表情は満面の笑みでピースサインをカメラに向けていた。男性の隣に立つ髪の長い美しい女性は赤い口角を上げ男性の腕に手を回し、男性の肩に頬を寄せていた。三人の後ろに芝生の緑が広がり、その奥に観覧車が見える。青い空が三人の笑顔をより一層輝かせていた。家族で遊園地にでも遊びに行ったときの写真だろう。幸せがあふれる一枚だった。

 進一は、この幸せそうな家族が江藤の家族だとすぐにわかった。この白い歯を見せる男が江藤だ。

 美和子はこの写真の三人の笑顔を自分のせいで壊してしまうことに罪悪感をおぼえ身を引く決意をしたと言った。それから未婚の母として進一を育てた。江藤とはそれ以来一度も会ってなく、現在の江藤は和食レストランをアメリカで展開するためにアメリカに在住しているらしい。日本は当時小学生だった息子の誠也に任せてある。江藤は美和子を騙して、自分だけ幸せになり成功を収めている。騙されているのは美和子だけではない。いっしょに写真に映っていた笑顔の二人、奥さんと息子も騙されている。進一の心にどす黒い感情が込み上げてきた。


 父との対決

 父親は、進一が生まれる前に死んだと聞かされていたがそうではなかった。美和子が妻子ある男性と不倫して、その男性との間にできた子供が自分だと知った。

 進一は小学生の高学年の頃から美和子や祖父母が父親について、何かを隠していることを薄々は勘づいていた。美和子からは、自分がお腹にいる時に父親は病気で亡くなったと聞かされていたが、祖父母は事故で亡くなったと言ってたりした。話が合わなかった。どちらにしても具体的なことは何も話そうとはしなかった。何の病気だったのか、どのような事故だったのか、全く教えてくれなかった。進一が父親について訊くと、母や祖父母の表情から笑みが消えていくのが嫌で、進一は子供心に父親について、なにも訊かない方がよいのだと感じていた。写真も無いので父親の顔も知らなかった。

 自分が不倫関係で出来た子供だということは、父親についてあれこれとひとりで悩み、勝手に想像していた中の一つだったので、墓参りの後に美和子から聞かされても、さほど驚きはしなかった。進一の想像のなかには、もっとショッキングなものもあったからだ。父親は犯罪者で服役中であるとか、美和子がレイプされてできたのが自分だったとか、小学生の頃から、父親について、いろんな嫌な想像ばかりを膨らませていたのだ。


 進一は美和子が江藤とかけおちするために待ち合わせをしたという一九八〇年七月二七日の午前十時に行って江藤と会うつもりだったが、江藤は姿を見せなかった。進一はベンチから立ち上がりゆっくりと駅舎へと向かった。駅舎に入る前にもう一度伝言板に視線をやった。江藤は、この伝言を見ていないのだ。進一は拳を握り、もう一度伝言板をじっと見た。

『生まれてくる子供とふたりで生きていきます。さよなら、ごめんなさい。Mより』

 母さんが『ごめんなさい』じゃない。謝るのは江藤の方だ。江藤への怒りがこみ上げて体が熱くなった。進一は江藤の顔を見るだけのつもりだったが、一発殴らないと気が済まないくらいに沸々としたマグマのような感情がドンドン膨れ上がっていった。今から江藤に会いにいき、そして自分の気がすむまで殴りたい。そして一言でいい、美和子への詫びの言葉を江藤の口から吐かせたい。進一は調べてあった江藤の自宅へと向かった。

 白く高い塀が続き、カーポートには赤いシボレーと白いベンツが並んでいる。その横に間口の広い重厚な門が見えた。門の向こうに松の木が覗き、その奥に真っ白い壁の瀟洒な二階建ての建物が顔をのぞかせる。この時の江藤は和食レストランをチェーン展開する株式会社エトーフードサービスの社長の一人娘の婿養子になり専務になっている。この豪邸に江藤は奥さんの両親と息子と五人で暮らしている。江藤は今ここにいるのだろうか。

 進一は腕時計に視線を落とした。午後一時を過ぎていた。ここで待ち続けて、そろそろ一時間になる。今ごろ美和子がどんな思いをして、何をしているのだろうかと思うと進一の胸は苦しくなった。江藤といっしょになることをあきらめ、お腹にいる子供を一人で育てる決意をしたばかりのはずだ。

 大きな門の横にある通用口がガチャガチャと音を立てた。途端に進一の心臓は跳ね上がった。通用口に視線が釘付けになる。通用口がゆっくりと開いた。中から体の大きい男が姿を見せた。脇に野球のグローブを抱えている。美和子から預かった写真に映る男と見比べた。江藤に間違いなかった。江藤に続いて左手にグローブをつけた男の子が通用口から出てきた。こいつが江藤の長男の誠也だ。江藤は誠也の前に屈んで、顔を近づけていた。ふたりは通用口の前でしばらくニコニコと笑いながら話している。江藤が誠也の頭をくしゃくしゃと撫でて相好を崩した。また通用口が開いた。今度は背の高い女性が出てきた。女性の口が「おまたせ」と動いた。江藤の奥さんの澄子だ。江藤が立ち上がり澄子の頬にキスをした。目鼻立ちがはっきりとした綺麗な女性だ。二人は仲睦まじく見えた。江藤は美和子に奥さんと離婚間近だと言っていたらしいが、進一にはそうは見えなかった。写真に映る笑顔の三人のままだった。澄子が右手に持ったバットを江藤の胸に押しあてた。バットを受け取った江藤は踵を返して先を歩きはじめた。澄子が誠也の手を引き、江藤の背中を追いかけて歩きだした。進一はその後ろについて歩き出した。

 前を歩く三人のはずむ背中を見ながら、進一は今頃美和子がどんな思いでいるのかを想像していた。きっと食事も喉に通らないでいるはずだ。そう思いながら江藤の背中を見ていると、進一の怒りは沸々と爆発に向かってドンドン温度を上げていった。

 江藤、今、この時間、母さんとかけおちする約束をしたんだろ。なぜ、待ち合わせの場所に来なかったんだ。進一は江藤の背中にきつい視線を向けながら幸せそうにはずむ背中を睨み付けた。

 江藤は時折、後ろの澄子と誠也の方に振り返り相好を崩し目を細めていた。澄子が前を歩く江藤に何やら声をかけている。その度に江藤は振り返り満面の笑みを浮かべていた。澄子も笑っているのだろう、肩がはじけるように揺れている。澄子に罪はないが、それを見て澄子に対しても進一は怒りを覚えた。

 五分ほど歩いたところに大きな緑地公園があった。江藤たちは公園へ入っていった。公園の入り口に噴水があり、数人の小さな子供が水遊びをしている。噴水の向こうには芝生が広がり野球やサッカーを楽しむ人の姿が見える。江藤たちは噴水の横を通り、人気の少ない木陰の方へと歩いて行った。進一は噴水の横に立ち三人の様子を窺った。澄子が木陰にレジャーシートを広げて腰を下ろした。江藤は誠也とキャッチボールをはじめた。誠也は進一の腹違いの兄ということになる。誠也が父親とキャッチボールすることが羨ましかった。今この時代の進一は、美和子のお腹のなかにいる。美和子が未婚の母として進一を育てると決めた覚悟につきあっている。進一の心に美和子の苦しみが染み込んでいった。

 江藤、お前はわざとこの家族写真を落として母さんに見せたんだろ。母さんが写真を見たら身を引くと計算したんだろ。卑怯だぞ。キャッチボールをする江藤の後ろ姿をずっと睨み続けた。進一は江藤がひとりになるタイミングを待ったがチャンスは無さそうだった。この先どうするか決まらないまま、時間だけが過ぎていった。灼熱の太陽が真上から照りつける暑い時間だが、噴水に顔を向けると、霧のような水しぶきが風に乗って暑さを和らげてくれるので、時おり噴水に顔を向けた。


「うわー、ごめんなさい」誠也の声がしてそっちに顔を向けた。

 誠也の投げたボールが大きくそれたようだ。江藤が飛び上がってグローブを伸ばしが、ボールはそのグローブの上をこえて、バウンドし進一の方に向かってきた。ボールのバウンドが徐々に小刻みになりながら進一に近づいてくる。最後はコロコロと力なく転がって進一の足元でピタッと止まった。進一はボールに視線を落とした。進一は腰を折りボールに手を伸ばし、ゆっくりと拾い上げた。真っ白な軟式のボールだった。拾い上げたボールを力いっぱい握りしめ、じっと見つめた。俺も父親とキャッチボールがしたかった。

「すいませーん」江藤の溌剌とした声が進一の耳を刺した。

 顔を上げると江藤が汗ばんだ笑みを浮かべ頭を下げながら近づいてきた。じっと江藤の顔を睨んだ。なにヘラヘラと笑ってるんだ。

 進一は手にしたボールをギュッと握りしめた。体が熱くなり震えてきた。ボールから視線を外し江藤の顔をじっと見た。進一は江藤にボールを返そうとはしなかった。

「あのー、すいません、ボールを」

 江藤が、また一歩、二歩と近づいてきた。

「ボール、ボールってうるせえんだよー」

 進一は腹の底から声を出し、江藤の顔面にめがけてボールを投げつけた。ボールは江藤の顔面に直撃し大きくはねた。江藤は顔をおさえて屈みこんだ。進一はそのまま江藤に思いっきりタックルして地面に叩きつけた。ウワーッという江藤の声がした。かまわず倒れた江藤の顔面を靴底で何度も何度も蹴った。江藤の顔が赤く染まるのがわかった。江藤が両手で顔を覆った。今度は江藤に馬乗りになった。誠也の泣き声が耳に飛び込んできたが、進一は止まらなかった。

「お前のせいで母さんは、どんな思いをしてると思ってんだー」

 倒れる江藤の胸ぐらを掴み顔を近づけて怒鳴った。その後も進一は涙を流しながら江藤の顔面を何発も何発も殴った。

 進一の拳も赤く染まった。背中から「やめてー」という悲鳴が聞こえた。

『ガン』という音とともに進一は後頭部に鈍い痛みを感じた。後頭部をおさえて振り返ると澄子が真っ赤な顔をしてバットを持って立っていた。しまったと思ったが、その瞬間、バットが進一の額に向かってきた。

 右手を出し避けようとしたが間に合わなかった。バットが額に当たる瞬間、目を閉じた。額に受けた衝撃が全身に伝わっていく。体の力が抜けた。目を開けると視界がグルグルと回る。最後に真っ青な空が見えた。額が熱い。額に手をあてると手が真っ赤に染まっていた。目の前に広がる青い空も赤く染まっていき、そして徐々にその色を失っていく。進一の視界は最後には真っ暗になった。


説得

 仏壇にあげた線香からまっすぐにのびる煙をじっと目で追った。りんを鳴らし、手を合わせ静かに目を閉じる。「お父さん」と心のなかで呟いてみたがピンとこない。

 りんの響きが耳奥に吸い込まれて鼓膜を優しく刺激する。りんの響きが耳奥に全て吸い込まれてから、顔を上げた。仏壇の上の父親の写真に視線を上げて、沙耶は写真に向かって今日これからの無事を祈った。

 正座したまま体を後ろへずらしテーブルへと移動した。テーブルを挟んで向かいに座る母祥恵と祖母美和子に視線を向ける。ふたりとも口を開こうとせず、湯飲みに両手をあてたまま仏壇の上に飾ってある父親の写真を見つめていた。美和子の瞳は少し潤んでいるように見えた。一応今日が沙耶の父親で美和子の夫の進一の命日にあたるそうだから、二人は進一との思い出に浸っているのだろう。沙耶には父親との思い出はなかった。父親は沙耶が生まれた時には、すでにいなかった。沙耶は仏壇の上に飾ってある写真の父親しか知らない。写真の父親は右眉に傷があり、少し怖い印象なのだが、あの傷は喧嘩などでついた傷でなく、学生の頃ラグビーの試合中に怪我したもので、あなたのお父さんは優しい人で怖い人ではない、心配症で気は優しく力持ちだと母親と祖母は言っていた。確かに写真の中で微笑んでいる表情は優しそうにも見える。

 父親は沙耶が祥恵のお腹の中にいる時に死んだと聞かされていたが、沙耶は今日まで父親が何故死んだのかは聞かされていなかった。沙耶は今日はじめて父親の死の真相を聞かされた。

 母親と祖母から聞かされた話では、父親は死んだのではなく、沙耶が生まれる前に行方不明になったそうだ。それは普通の行方不明とは少し違う。それは母親も祖母も父親がどこに行ったのか知っているのだ。知っているが、二人には父親を探しにいくことが出来ない。なぜなら父親は過去の世界に行ったきり帰ってこなかったからだ。

 沙耶は自分の父親がいなくなった真相を今日はじめて聞いて、自分が父親を探しに行くと決めた。そこに行く方法を知っているのは沙耶だけだからだ。


 午前十時までには到着できると思っていたが、この時代は沙耶の暮らす時代に比べ電車の本数が少なかった。元の時代では沙耶の自宅の最寄り駅から目的の駅まで直通でつながる電車があったのに、四十年前のこの時代は電車を二回も乗り換えないといけないし、電車の本数も思った以上に少ない。四十年間で交通の便は目まぐるしく便利になっていたことを実感した。目的の駅に着くのは予定より三十分位遅れそうだった。沙耶は落ち着かず、ずっと電車のドアの前に立っていた。目的の駅に到着するアナウンスが流れ、電車のスピードが落ちて、ゆっくりとホームに入っていく。電車が止まりドアが開くのをイライラしながら待っていると、ドアの向こうに仏壇に飾ってある写真で見た父親によく似た男性が一人立っていた。似ているが、その男性の表情は眉間に皺が入り険しい表情をしていたので、写真で見たにこやかな表情とは少し違った。父親かどうか確かめようと沙耶は電車を降りて、すれ違いざまに目を凝らして男性を見た。彫りの深い顔とギョロっとした目がやはり写真の父親と似ていた。どうすべきかと少し迷ったが、見失ってしまうわけにいかないと降りた足でそのまま男性に続いて電車に乗りこんだ。その男性は電車に乗ってすぐに座席のドア近くの一番端に腰をおろした。沙耶は男性の座る真横のドアの前に立った。男性を斜め上から見下ろした。男性の頭しか見えない。この男性が父親なのか確認しようと、反対側のドアの前に移動し、吊り広告を見るふりをしながら、目だけを動かし男性の顔をそっと盗み見た。男性はまっすぐ前を向いていた。一点をじっと見つめているようだが、どこを見ているのかわからない。口を真一文字にし眉間に深い皺が刻まれている。沙耶は男性の右眉の上の傷を確認することにした。父親には右眉の上に学生の頃にラグビーで怪我した傷がある。こっそり見ると男性の右眉の上に傷があるのが確認できた。これでこの男性が父親の進一に間違いないと確信した。今からどこに行くつもりなのか。江藤には会えたのだろうか。沙耶はとりあえず、しばらく後をつけることにした。

 二十分ほど電車に揺られ、駅に到着するアナウンスが流れると父親は、すくっと立ち上がった。そして、沙耶の横を抜けてドアの前に立った。次の駅で降りるつもりのようだ。父親を見ると相変わらず眉間に深い皴を刻んでいた。興奮しているのか、鼻息も荒い。電車が駅に着き、ドアが開くとすぐに電車から飛び降り早足で歩いて行った。沙耶は慌てて追いかけた。

 父親は駅を出てからもスピードをゆるめることなく、信号を渡り、商店街を抜けて行った。沙耶はそのまま後を追った。五分ほど歩いたが、父親は歩くスピードをゆるめることなく、早足のまま大股で歩いていく。沙耶は小走りで追いかける。商店街を抜けても父親はペースを落とすことなく歩き続けた。沙耶の顔から汗が吹き出る。父親の歩くスピードについて行くのに必死で汗を拭う余裕もなかった。十五分程歩いたところで、やっと父親の足が止まった。沙耶も足を止めて、少し離れた場所から父親の様子を窺った。父親は目の前にそびえ立つ白い豪邸をじっと見つめていた。

 一時間ほど待っていると豪邸の通用口の方から男が出てきた。父親と似て体格のいい男性だ。彼が江藤だとすぐにわかった。父親を見ると両拳を握りしめ江藤を睨みつけていた。江藤に続いて小学生くらいの子供が出てきて、すぐに背の高い綺麗な女性が出てきた。江藤の息子の誠也と奥さんの澄子だろう。三人は笑顔を振りまきながら歩きだした。父親はその三人の後をついていった。沙耶もその後ろから続いた。しばらく歩いてから江藤らは公園に入り、父親も続いた。江藤と誠也がそこでキャッチボールをはじめた。父親はしばらくその様子を噴水の横で見ていた。沙耶も噴水の近くまでいったが、父親は沙耶の存在に全く気づかなかった。父親の視線は、キャッチボールしている江藤の背中に集中していた。沙耶がしばらく見ていると江藤がボールを後ろに逸らして、そのボールが父親のところまで転がっていった。父親はボールを拾いあげ、そのボールを握りしめたままじっと見ていた。江藤が父親からボールを受け取ろうと近づいていった。父親はなにやらボソボソと口を開いた後、大声を上げ江藤の顔面に向かって思いっきりボールを投げつけた。ボールは江藤の顔面に直撃した。江藤がよろめいたところへ父親はタックルをし江藤を倒した。そのまま倒れた江藤を蹴り、馬乗りになり何発も殴っていた。沙耶は一瞬の出来事に、ビックリして止めに入ることもできず、その場で立ちすくんでしまった。すると、澄子が父親の後ろからバットを振り下ろした。バットが父親の後頭部に直撃し、ゴンと鈍い音が沙耶のところまで聞こえた。父親の顔が歪んでいるのが沙耶の位置からでもわかった。父親は澄子の方へ顔を向けた。澄子はまたバットを振り下ろした。また鈍い音が沙耶の耳に届いた。父親はそのまま馬乗りになっていた江藤の体から崩れ落ち仰向けに倒れた。江藤は顔が血まみれになっていたが、意識はしっかりしているようだった。少しふらついてるようには見えたが、頭を振りながら立ち上がり、倒れている父親の顔に向かって血の混じった唾を吐いた。そして父親の頭をサッカーボールでも蹴るかのように思いっきり蹴った。父親は蹴られて首が捻れるように動いたが、体はピクリとも反応しなかった。江藤はもう一度父親の顔面に向かって唾を吐き、そのまま澄子と誠也を連れて立ち去って行った。

 江藤たち三人の姿が見えなくなってから、沙耶は倒れている父親に近づいた。父親はここで死んでしまったから、元の時代に戻ってこれなかったのだろうか。怖くて涙が出てきた。倒れる父親の前に屈み顔を覗きこんだ。真っ青で死んでいるように見えた。口元がピクピクと動いていた。息もしているようだ。胸が上下に動いている。よかった、生きてる。沙耶はフゥーと息を吐いた。恐る恐る肩を揺すってみた。

「大丈夫ですか」

 父親は全く反応しない。もう一度肩を揺すってみた。

「大丈夫ですか」

 やはり、反応がない。どうしようかと考えても答えが出ない。沙耶は途方に暮れ、両手で顔を覆った。救急車を呼ぶべきなのか。しかし未来から来たことをどう説明すればいいんだろう? 悩んでいると後ろから声がした。

「どうかしましたか?」

 振り向くと上品な六十代くらいの男性と女性が並んで立っていた。

「あっ、ひ、人が倒れてます」

 沙耶は震える声で言った。

「あら、大変。血が出てるわ」

 豊かな銀髪をショートカットにした女性が両手を口にあて目を大きく見開いた。

「あなたのお知り合い?」

 薄くなった髪をオールバックにし眼鏡をかけている男性が訊いてきた。

「い、いえ、たまたま通りかかっただけで、知らない人です」

 あたしの父親です、とは言えなかった。

「あなた、すぐに救急車を呼びましょう」

 女性が男性の肘を引っ張った。

「そ、そうだな。確か、あっちに電話ボックスがあったはずだ。電話しに行こう」

 男性がそう言って踵を返した。

「そうですね。わたしもついて行きます」

 女性がそう言って踵を返して男性の背中を追いかけた。「あなたはそこで待っててね」女性が振り返り言った。

 沙耶は頷いてから、意識を失っている父親の体を何度もゆすった。このまま救急車で病院へ運ばれてしまうと、元の時代に戻れなくなる。早くここから逃げ出さないといけない。

「大丈夫ですか、起きて下さい」

 父親は全く反応しない。

「お願いします。早く起きて」

 何度も呼びかけ父親の体を揺すったが、全く反応はない。遠くで救急車のサイレンの音が聞こえてきた。救急車が来てしまうと病院へ運ばれてしまう。そうなると、きっと元の時代に戻れなくなる。

「お父さん、お願い、起きて」

 沙耶が父親の耳元で叫ぶと、父親の瞼がピクピクと動いた。

「お父さーん、お父さーん」今度は父親の頬を両手で挟むようにして顔を揺らしながら叫んだ。

 父親の目がうっすらと開いた。沙耶はそれを見てもう一度叫んだ。

「お父さーん」

 パンパンと父親の頬を右手で軽く叩いた。

 父親がぼんやりとした表情のまま視線を沙耶に向けた。

「お父さん、気がついた? 大丈夫?」

「あ、あんたは?」

「あたしは多村沙耶です。あなたの娘です。あなたと同じようにタイムスリップしてここに来ました」

「多村沙耶? タイムスリップ?」

 父親は首を捻って、天を見上げた。

「あなたはあたしのお父さんです。わかりますか?」

 沙耶は父親に顔を近づけた。父親の視点は定まらず、どこを見ているのかわからない。沙耶は進一が記憶を失っているのではないかと思った。

「俺が、お父さん? 俺は一体誰だ?」

 父親は首を捻った。

「あなたは多村進一です。わかりますか?」

 父親は空を見上げているだけだった。やはり、記憶を失っている。

「はやく、はやく、こっちです」

 遠くから声が聞こえてきた。

「こっちです。こっちです」

 だんだんと声が近づいてくる。見るとさっきの夫婦が救急隊員を連れてこっちに向かってきていた。

 このまま救急車に乗せられたら、自分まで元の時代に戻れなくなる。沙耶は父親の手を引っ張り連れて行こうとした。

「お父さん、早く逃げよー」

 父親は全く腰を上げようとしない。華奢な沙耶にとって、大柄な彼の体は岩のように重かった。

「はい、そこです」

 救急隊員が目の前まで来ていた。

 もう無理だ。父親だけではなく、本当に自分まで元の時代に帰れなくなってしまう。沙耶は父親をおいて、ひとりで走って逃げることにした。

「お父さん、ごめんね」沙耶はそう言って走って行った。

「お嬢さーん」背中からさっきの老婦人の声がした。

「ごめんなさい、あたしは帰らないといけないんです」

 沙耶は振り返らず、宙に向かって叫んだ。

 このトラブルのせいで父親は、元の時代に帰って来れなかったのだ。沙耶は走りながら思い、そして、この後どうするかを考えた。一旦、元の時代に戻り、来る時間を三十分早めてタイムスリップをやり直してみよう。父親が江藤の自宅に行く前に父親を止めよう。そう心に決め、急いで自宅の物置小屋へと向かった。


 今回は間に合ったようだ。沙耶は駅前にあるベンチに座る父親の姿を見つけた。暑いなか待ち続けたせいか、江藤への怒りのせいか、眉間に深い皺が入っている。これから怒りをぶつけるために江藤に会いに行くつもりなのだ。父親が立ち上がって、沙耶が立つ伝言板の方へと歩いてきた。沙耶は父親と目が合ったが、なぜか慌てて目をそらしてしまった。

 父親はこれから江藤のところへ行くつもりだ。ここで止めなければいけない。でないと、父親は元の時代に帰ってこれなくなる。沙耶は声をかけるタイミングを考えていた。

 父親は伝言板に視線をやって唇を噛みしめていた。美和子のことを思い、江藤への怒りが膨らんでいるのだろう。沙耶は父親の姿を見て胸が熱くなった。父親がまた沙耶に視線を向けた。沙耶は目を合わすことが出来ないでいた。父親はしばらく沙耶の方を見ているようだった。

 沙耶が迷っている間に父親が駅舎のなかに入って行ってしまった。沙耶が慌てて父親の大きな背中を追いかけた。

「あのー」

 やっと声が出た。

 父親は振り返り沙耶の顔をじっとみた。

「俺?」父親が自分の鼻に人差し指を向けた。

「は、はい」沙耶は唾を呑み込んでから、背筋を伸ばして頷いた。

「なにか?」父親は首を傾げた。剣のあった表情から剣が消えていった。

 沙耶は呼吸を整えた。

「多村進一さん、ですよね?」

「えっ、そ、そうだけど」

「今から、江藤さんのところへ行くつもりですよね?」

 沙耶が江藤の名を出した途端に父親の表情はまた険しくなった。沙耶が江藤の知り合いと勘違いしたのかもしれない。

「あんたは?」

「あたしは多村沙耶です」

「多村?」

「はい」

「沙耶?」

「そうです。多村沙耶です。あなたの娘です」

「な、なに?」父親は目を剥いた。

「お父さん、あたしはあなたを追いかけてここまで来ました」

 沙耶はそう言ってペコリと頭を下げた。

 父親は沙耶の顔をじっと見ていた。目の前にいるのが自分の娘だということに驚いている様子だ。額に手をあて、何度も首を横にふっていた。

「どういうことだ?」

 沙耶は自分がここに来た過程を説明した。ちゃんと伝わったのかが不安だった。

「それは本当なのか?」

 父親はなんとか理解してくれた様子だった。

「はい、本当です」

「ほんとに、俺の娘なのか?」

「はい。あたしの母は多村祥恵で、祖母は多村美和子です」

「俺がここに来る時、娘はまだ祥恵のお腹の中だったんだぞ」

「あたしは十五歳になりました。今のこの時代の四十年後からタイムスリップして来ました」

 そう言うと父親は沙耶の顔をじっと見つめた。

「俺は二十五年後から来た」

「そうです。その時、あたしはまだ生まれていませんでした」

「そういうことか」

 父親はそう呟いて遠くを見つめた。

「そうなんです。わかってくれましたか」

「言われて見れば、母さんの若い頃によく似てる」

 父親が沙耶の顔を見て微笑んだ。

「あたし、おばあちゃんに似てますか?」

「ああ、そっくりだ。涼しげな目元も薄い唇も鼻筋の通った鼻も母さんにそっくりだ」

「おばあちゃん、美人だから嬉しい」

「で、なぜ、ここに来たんだ?」

「あっ、はい。実はお父さん、この後、元の時代に帰ってこなかったんです」

「えっ、俺が元の時代に帰ってなかった?」

「はい、この後トラブルがあって、お父さん帰れなくなったんです」

「帰れなくなる?」

「はい、それを伝えに来ました。お父さんが帰って来なかったので、あたしは生まれてから十五年間、お父さんには会っていませんでした」

「十五年間、俺と会っていない?」

「はい」沙耶はコクリと首を縦に振った。

「何故だ。何故俺は元の時代に戻ってなかったんだ」

「お父さんは、この後、江藤に会いに行って、トラブルがあって記憶を失うんです。多分それが原因で、元の時代に帰れなくなったんだと思います」

「俺がこの後、記憶を失う?」

「はい。この後、お父さんは江藤と揉み合ってる間に、江藤の奥さんにバットで頭を殴られてしまうんです。それで記憶を失います。だから、今から江藤に会いに行くのはやめて下さい。お願いします」

「しかし、江藤に会って頭を下げさせないと母さんが不憫でならないんだ。母さんが可哀想すぎる」

「そんなことしてもおばあちゃんは喜びません」

「いや、母さんは江藤とケリをつけないまま俺を育てたんだ。俺が江藤に会って頭を下げさせる。詫びの言葉を一筆書かせる。それを見れば母さんの気持ちにもケリがつくはずだ」

「そんなことありません。あれを見て下さい」

 沙耶は伝言板を指差した。

『生まれてくる子供とふたりで生きていきます。さよなら、ごめんなさい。Mより』

「母さんが、ごめんなさい、じゃないんだ。謝るのは江藤の方なんだ。だから、絶対にこのままあいつを許すわけにはいかない」

「違います。おばあちゃんは、あの伝言板を書いた時にケリをつけたんです。江藤とは二度と会わず、この先はお腹の子供と幸せに暮らすと決めたんです。そして、その通りに生きてきたんです」

「このままだと、俺の気持ちがおさまらない」

「二度とおばあちゃんやお母さん、あたしに会えなくてもいいんですか」

「そ、それは困る」

「あたしも、元の時代であなたをお父さんと呼びたいです。十五年間あたしは写真でしかお父さんのこと知らなかったんです。だから、このまま元の時代に帰ってください」

「しかし、母さんのこと思うとなあ」

「おばあちゃんは江藤との結婚をあきらめてあなたをひとりで育てる覚悟をするために、あの伝言を残したんです」

 沙耶は伝言板に視線をやった。

「母さんは悔しくなかったのかな」

 父親も伝言板に視線をやった。

「江藤よりあなたが大切だったんです。きっと、今日江藤が来ない、騙されてることにも気づいてたと思います。あの伝言は、おばあちゃんの最後のプライドだと思います。それと江藤と決別して、あなたをひとりで立派に育てる決意をするために書いたんだと思います。だから、おばあちゃんのためにも、母のためにも、そしてあたしのためにも、すぐに元の時代に帰ってください」

「わ、わかった」

 父親は首を縦に振り、唇を噛みしめた。

「じゃあ、お父さん、それぞれの時代に帰りましょう」

 沙耶が父親の手を引っ張った。はじめて父親のゴツゴツした手を握って、沙耶の心は跳ねた。


 薄暗くひんやりした物置小屋は、農具がきれいに整理され埃一つなかった。沙耶の知っているそれとはえらい違いだ。曾祖父がきれいに掃除していたのだろう。ここは曾祖父の秘密の場所だから。

「じゃあ、先にお父さんが元の時代に帰ってください。あたしはお父さんを見送ってから、自分の時代に帰るから」

 沙耶がいうと、父親は黙って頷いた。父親の目は潤んでいた。名残惜しそうに沙耶に視線をやってから、「これでお別れか」と言った。

「ちがうよ。元の時代でまた会えるから」

「そうだな。けど、今から戻ったら、沙耶は祥恵のお腹の中だな」

「お父さんの帰る時代だと、そうだね。けど、十五年後に今のあたしに会えるから、それまで、あたしをしっかり育ててね。よろしくお願いします」

 沙耶は口角を上げ頭を下げた。

「そうだな、思いっきり、お前を可愛がって幸せにしてやる。絶対にだ」

「うん、お願い」

 沙耶の目から涙がこぼれた。

「じゃあ、行くな」

「いってらっしゃい」

 沙耶は父親に向かって胸の前で両手を振った。父親の姿が物置小屋の奥に消えた。沙耶は、「フゥー」と息を吐いた。


 沙耶が目を開けると、物置小屋は少し埃っぽかった。テーブルの上も埃が浮いている。沙耶はハンカチでテーブルの埃をはらった。これからは、たまに物置の掃除をしようと心に決めた。窓を開け中の空気を入れ換えてから物置を出た。庭から自宅に入り、自分の部屋に戻ろうとした時に後ろから声がした。

「沙耶、どこ行ってたんだ」

 父親の声がした。ちゃんと戻ってきていた。沙耶の口元が緩んだ。

「今、十五年前から帰ってきたところだよ。お父さん、覚えてる?」

 口角を上げて父親の顔を覗きこんだ。

「ああ、覚えてるけど、なんか、頭が混乱するな。変な感じだ。沙耶は大丈夫なのか?」

「あたしは、お父さんのいない十五年間とお父さんのいる十五年間が頭のなかで同居して、今はパニックで頭が痛くて苦しいよ」

「そ、そうか、沙耶の方が俺よりも頭の中がパニックなんだろうな。悪いことしたな。けど、本当にありがとう」

「江藤とは、今の時代で会ったの?」

「いや、会ってない。江藤は、今も順風満帆って感じだな。腹が立つけど、俺には関係ないと思うことにした。江藤に暴力振るって、自分が不幸になったら元も子もないからな。人を恨んで、そいつを不幸に陥れても、自分は幸せにはなれないよ。それを沙耶に教えてもらった」

「そうね、お父さんは江藤に関わらない方が幸せだと思う。江藤のことはあたしに任せて」

「あたしに任せてって、それどういうことだ?」

「へへへ、なんでもない」

 沙耶はそう言って、手のひらをひらひらと振った。


 過去を変えるな

 夜勤から帰ってくると、立て付けが悪くなった物置のドアがガタガタと音を立てていた。そちらに視線をやると、ドアが少しだけ開いて、その狭い隙間から細くて華奢な体が出てくるのが見えた。すぐに沙耶だとわかった。あんなところで何をしているんだろうと、進一は口を尖らせた。

「沙耶」と声をかけた。

 沙耶はこっちを見て、口に手を当てていた。しまったという表情に見えた。何か父親には言えないようなことをやっていたに違いない。

「そんなとこで何してるんだ」

 進一は沙耶の方へ一歩、二歩と近づきながら言った。

「べ、べつに」

 沙耶は手を後ろに組み、進一と目を合わさないように宙に視線をやった。

 二十歳になっても、まだ父親を避ける年齢なのだろうかと進一はさびしくなった。沙耶が小学生の高学年くらいの頃に、進一と口をきかなくなった時期があった。祥恵に相談すると、女の子はそれくらいの年頃になると誰でも父親を避けるものだから気にしないでいいと言われた。それから十五歳までは、そんな父娘の関係が続いた。進一はその頃もさびしい思いをしていたが、沙耶が十五歳になってから人が変わったように、沙耶は進一を慕いよく話しかけてくれるようになった。それは、沙耶が父親のいない十五年と、父親といっしょに過ごした十五年の二つの記憶を持っているからだろうと推測した。父親のいない記憶を持っているおかげで、父親がいる有り難みをわかってくれたのだと進一は思っていた。

 十五歳になった沙耶と話す内容は進路の相談や学校のこと、そしてタイムスリップした時の話だった。あれから五年が経ち沙耶も大人になった。

「べつに、じゃないだろ。中で何してたんだ」

 物置小屋のドアの少し開いた隙間に視線をやって言った。

「お父さん、あたしが物置小屋にいたんだから、何してたかわかってるんでしょ」

 沙耶が進一を見て口角を上げた。

「まさか、タイムスリップか?」

 進一は眉間に皺を寄せていた。

「そうよ。お父さん、何でそんな顔するのよ」

「沙耶がタイムスリップするのは心配なんだ。タイムスリップした先で何が起こるわからないんだぞ。帰れなくなるかもしれないんだ。それをちゃんと理解してるのか」

「一度帰ってこれなくなったお父さんに言われたくないよ」

 沙耶は口を尖らせた。

「それに沙耶、今日は化粧も服装も派手すぎないか。スナックでアルバイトしていた頃の母さんの写真にそっくりだぞ。お前、水商売のアルバイトとかやってるんじゃないだろうな」

 進一は沙耶を頭のてっぺんから足の先まで何度も見て顔をしかめた。

「あたし、おばあちゃんの若いころに似てる? じゃあ、美人ってことよね。よーし」

 沙耶は進一の心配をよそに両拳を握って笑みを浮かべていた。沙耶の喜ぶ姿を見て進一はため息を吐いた。

「で、タイムスリップしてどこに行ってたんだ?」

 進一が沙耶を問い詰めた。

「えっ、ああ、ひいおじいちゃんに会いに行ってきた、かな」

 沙耶は首を傾げながら言った。

「じいちゃんにか?」

「う、うん。ひいおじいちゃん。会いに行くとすごく喜んでくれるからね」

「じいちゃんと何してたんだ?」

「ああ、えーと、大阪万博に行ってきた」

「大阪万博? そんな昔の大阪万博に行かなくても、今、こっちでやってるじゃないか。今開幕中の大阪万博に行けばいいだろ」

「今の大阪万博も、そのうち行くけどさぁ、その前に一九七〇年の大阪万博を見ておきたかったの。今の大阪万博と比べたいのよね。五十五年の進化みたいなのがわかるでしょ。それを味わえるのは、両方の万博を生で見れる人。今六十歳以上の人とタイムスリップが出来るあたしとお父さんとひいおじいちゃんだけだよ」

「わかった。けど、タイムスリップして過去をかき回しすぎるなよ。過去を変えることで、今が変わりすぎると戻ってきた時に頭が混乱するぞ」

「それはわかってるよ。お父さんを探しにいってから元の世界に戻った時、わけがわからなかったもん。頭のなかにお父さんがいる十五年と、いない十五年の違う二つの過去が記憶の中にあって、ごちゃごちゃになってたからね。しばらく頭痛が酷くて苦しかった。でも、あれはお父さんのせいだからね」

「そ、そうだな。そのことは俺も反省してるし沙耶に感謝してる。あの時はありがとうな」

 この話になると父娘の立場が一気に逆転してしまう。

「うん、じゃあ、あたし出掛けるから」

「おい、どこに行くんだ?」

「友達とご飯行ってくる。じゃあねー」

 沙耶はひらひらと手を揺らしながら出ていった。

「しかたないな」と言って、進一は部屋に入り新聞を広げた。そしてある記事に視線が釘付けになった。

『エトーフードサービス、前社長 江藤澄子氏インタビュー』

 エトーフードサービスの前社長はあの江藤武史ではなかったのかと首を傾げた。スマホを片手にネットで『エトーフードサービス』と検索してみた。初代社長は江藤宗一、そして二代目社長は宗一の娘澄子となっていた。そして三代目社長が澄子の息子の誠也だった。江藤武史の名はどこにもなかった。

 どういうことかと、もう少し調べて見た。江藤澄子は一九八〇年に離婚をしていた。進一がタイムスリップした年だった。過去が変わっている。誰が変えたのかは、すぐにわかった。さっき沙耶が物置小屋から出てきたのを思い出した。きっと沙耶がタイムスリップして過去を変えたんだ。

 沙耶が帰宅したので、すぐに部屋に行って、ドアを強くノックした。

「沙耶いるか?」

「なーに」面倒くさそうにドアが開いた。

「お前、これ知ってるか?」

 進一が新聞記事を指で叩いた。

「エトーフードサービス、前社長 江藤澄子氏インタビューと書いてあるんだ」

 沙耶は首を傾げた。

「これが、どうかしたの?」

「エトーフードサービスの前社長が江藤武史じゃないんだ。江藤澄子は四十五年前に離婚している」

「ふーん、そうなんだ。良かったじゃない。お父さんは江藤武史のこと憎かったんでしょ」

「まあ、そうだけど。間違いなく過去が変わってるんだ。最初に母さんから聞いた時は、江藤武史は社長になって、その後、誠也に社長を譲ってアメリカで事業を拡大していたはずなんだ」

「そうなの、あたしは、そんなの興味ないから」

 沙耶はドアを閉めようとしたので進一は閉めさせないようにノブを握った。

「過去を変えれるのは沙耶、お前しかいないだろ」

「お父さんも変えれるじゃない」

「俺はやっていない。だからお前のはずだ」

 ドアの隙間から沙耶に強い視線を向けた。沙耶は進一に笑みを向けた。

「へへへ、実は江藤武史はあたしもムカついたらからね。あいつは女の敵だよ。それだけ。だからもういいでしょ」

 沙耶はそう言って、ドアをバタンと閉めた。

「沙……、」

 沙耶を問い詰めようとしたが、閉められたドアが進一の鼻先に当たった。

 エピローグ

 母親と祖母が出ていく背中を見送ってから祖母の部屋に向かった。父親が夜勤から帰ってくる前に終わらせなければならない。祖母の部屋に入り、引き出しから祖母の若い頃の写真を一枚取り出した。それを持って自分の部屋に戻り、祖母の写真を見ながら鏡台の前に座る。慣れない化粧をし、最後に真っ赤な口紅をつけた。祖母の写真と鏡に映る自分を見比べる。

「よし、これで化粧は完成。あとは服装か」

 そう呟いて、タンスから先週古着屋で買ったワンピースを引っ張り出した。昭和の匂いのする派手なそれに着替えて鏡の前に立った。じっと鏡を見つめる。もう一度祖母の写真と見比べてみる。

「うん、完璧」と呟いてから部屋を出て、物置小屋へと向かった。

 これから沙耶は恨みをはらしに行く。


 沙耶はインターホンのボタンに指をかけたまま、体が固まってしまった。勢いに任せてここまで来たが、いざとなると臆病になる。一旦、後退し白い瀟洒な建物を見上げて、これから話すセリフを頭のなかで反芻した。

 深呼吸して、「よしっ」と気合いを入れなおしてからインターホンのボタンを押した。息を呑んで、インターホンのスピーカーから声がするのを待った。しばらくして、「はい」と女性の声が返ってきた。目的の人物のようだ。

「お、お忙しいところ、す、すいません、え、江藤澄子さんはいらっしゃいますか?」

 インターホンに顔を近づけた。

「はい、わたしですが、どちらさまでしょうか?」

「あ、も、申し遅れました。え、えっと、あたし、多村美和子と申します」

「たむらみわこさん?」

「はい、ご主人の江藤武史さんのことで、少しお話があります」

 そう言うとインターホンから「ハァー」とため息が漏れ、少し間があいてから、「しばらくお待ちください」ときつい声が返ってきた。はい、と返事する前にプチっとインターホンが切れる音がした。心臓が喉元にせり上がってきそうなくらいに緊張した。

 通用口の前で待っていると足音が近づいてきた。深呼吸して背筋を伸ばした。通用口のドアがゆっくりと開いて、目が切れ長で顎の尖った色白の女性の顔が見えた。同姓から見ても見惚れるくらいに美しい顔をしているが、目は氷のように冷たく口元は少し歪んでいた。

「お、お忙しいところ、と、突然、お伺いし、も、申し訳ございません」

 沙耶は慣れない言葉を発して、深々と頭を下げた。

「たむらみわこさんね。とりあえず、中に入って」

 澄子は剣呑な視線を向け、顎で家の奥を指した。

「あっ、は、はい、失礼い、いたします」

 澄子について通用口をくぐり玄関へと向かった。

 家のなかへ入り、応接間に通された。

「どうぞ、座って」と言われ、ソファに腰を下ろした。

「失礼します」という声が震えた。こんな状態でこれからしっかりとこの女性に言うべきことが言えるのかと不安になった。

「冷たい方がいいかと思って、麦茶にしたけどよかったかしら」

 澄子は冷たい麦茶の入ったグラスを沙耶の前に置いてから腰を下ろした。

「ありがとうございます」

 立ち上がり頭を下げた。それを見て澄子がニヤリと笑みを浮かべた。

「で、主人のことで何か?」

 澄子はソファに腰をおろし剣呑な視線を向けた。澄子の目力に圧倒されそうになった。ここにきて、江藤の浮気について言い出すことに躊躇しそうになっていた。

「あの、ですね」沙耶は立ったまま俯いてしまった。

 この奥さんは今から自分が話す内容を聞くと傷つくことになる。この人に罪はないのだ。この人も被害者なのだ。そう思うと言葉が出なくなってしまった。

「とりあえず座りましょうか。こっちが落ち着かないわ」

 澄子が沙耶を見上げた。

「は、はい」沙耶はソファに腰をおろした。座ったがお尻が落ち着かない。

「どうしましたか?」

 澄子は沙耶の顔を覗きこんで訊いた。

「あっ、いえ」沙耶は顔を上げ、目を閉じた。

「お話ししにくいことなんですか?」

 澄子の口元が緩んだ。

「そ、そうですね」

「それなのに、わざわざ、ここまで来たわけですか」

 あきれるように澄子が言った。

「すいません」沙耶は小さくなった。

「最初は怒りに任せて、ここまで来たけど、わたしの顔を見て言いづらくなったってことでしょうか」

 澄子はこっちの気持ちを冷静に分析する。さすがエトーフードサービス創業者の娘だ。

「そ、そうですね」

「今、主人とお付き合いしていて結婚したいから、わたしに離婚してほしいといったようなお話かしら」澄子は淡々と言った。

「えっ」沙耶は驚いて目を見開いた。

「図星かな?」澄子は首を傾げ涼しげな目をむけた。

「いえ、図星ではありませんが、あたしが江藤武史さんとお付き合いしているのは、当たってます」

「それで、わたしに何をお話ししたいのですか」

 澄子は全く動じない様子だった。

「いえ、すいません。あたしは武史さんに独身だと騙されて付き合っていたことで腹を立ててしまい、武史さんが、あたしを騙しておきながら幸せなのが許せなかったんです。奥さんには罪がないのに、こんな行動をとってしまい申し訳ありませんでした」

 沙耶は、立ち上がり深々と頭を下げ、軽率な行動を悔いた。胸がいっぱいになり涙が溢れてきた。

「いいですよ。これまでにも主人は何度もこういうことがありましたから、慣れっこですしね。最近の主人の様子を見て浮気してると疑ってましたし。それがはっきりわかったことはよかったです。子供のことや会社のことを考えると、なかなか離婚する勇気が持てなかったのですが、あなたが告白してくれたおかげで離婚の踏ん切りがつきそうです。ありがとう」

 澄子が沙耶に向かって丁寧に頭を下げた。

「えっ、離婚。本当ですか」

「ええ、離婚します。あなたはどうされます。わたしが主人と離婚してから、あなたが結婚するなら、別にわたしはかまわないわよ」

「いえ、あたしも、二度と武史さんに会うつもりはありません」

「そう。じゃあ、あの人、ひとりぼっちになっちゃうわね。江藤家からも出ていってもらいますし、もちろん会社も辞めてもらうわ。まっ、自業自得よね」

 澄子が涼しげな笑みを浮かべた。

「はい。でも、奥様は冷静ですよね。あたしに腹が立たないんですか」

 沙耶は奥さんが自分に泥棒猫だと罵り怒りだし修羅場になるかもしれないと覚悟をしていた。

「そうね、主人にはもう冷めてたから。わたしたち夫婦は知らない間に仮面夫婦になっていたのかもしれないわね。父の反対を押しきって無理に結婚した手前、離婚するなんて言い出せなかったから、ずっと仲のいい夫婦を演じてきただけなの。あの人はそれをいいことに自由に遊んでた。わたしは、それをずっと我慢するしかなかったの。でも、それも今日までにするわ」

 澄子が唇を噛みしめてから続けた。「そう、今日までにするわ。あなたのおかげよ」澄子の顔がぱっと明るくなった。

「あたしも、これっきりにします」

 沙耶がスッと背筋を伸ばした。

「これからお互い幸せになりましょうね」

 澄子が右手を出した。沙耶も右手を出し、握手した。澄子の手は温かかった。

「ありがとうございます」

 沙耶が握手する右手に左手を添えて頭を下げた。

「そろそろ主人が帰ってくるわ。わたしは今日ケリをつけるわ。あなたは?」

「はい、このまま会わずに帰ります。そして二度と彼には会いません」


 沙耶は江藤家を出て、駅へと向かって歩いていた。道路の向こうから白いベンツが走ってくるのが見えた。近づいてきて運転席を見ると江藤の顔が見えた。江藤も沙耶に気づいたようで、目を見開いて、こっちを見ていた。すごく慌てている様子だった。沙耶を美和子だと勘違いしているようだった。美和子が自宅に行って澄子に浮気をばらされたのだと思っているのかもしれない。自分は美和子ではないが、浮気をばらしたのは当たっている。

「よーし、これで、やっと、おばあちゃんの仕返しができたわ」

 白いベンツが沙耶とすれ違ったところで急ブレーキをかけた。沙耶が振り向くとベンツは道路脇に止まった。ドアが開いて江藤が降りてきた。

「おい」と言ってこっちに向かってきた。

「あー、江藤さん」

「こんなとこで何してるんだ」

 江藤が歩きながら声を上げた。沙耶は首を横に振りながら後退りした。

「べつに」

「おい、美和子」

 江藤は焦っている様子だった。

「サヨナラ」沙耶は両手を振った。

「なにが、サヨナラだ。どこに行ってた。まさかうちじゃないだろうな」

 江藤が近づいてくる。

「うるさい、このくそジジイ」

 沙耶は江藤に向かってアッカンベーをしてから思いきり走った。

「おーい、み、美和子ー」背中に江藤の声が飛んできたが、沙耶は振り向くことはしなかった。




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