2話
「迷惑をかけてすまなかった。この礼は必ずするから」
次の日の早朝、彼は強い口調でそう言い残して、家があるという王都へ戻っていった。迷惑をかけたのは私の方だ。悪夢のせいで目が冴えてしまった私の為に太陽が山際から顔を出すまで彼は話に付き合ってくれたのだ。
思った通り彼は誠実で真面目な人だった。家に戻ると彼は言っていた。おそらく家業を続けることにしたのだろう。
別れの際、次にお会いする時はダンスを見せて下さいねと私が言うと、彼は顔を真っ赤にして首を横に振った。
冗談で言ったつもりだったのだけれど、ルイさんは本当に嫌だったようだ。彼が踊るのは仕事の時だけだと言う。ところでルイさんが得意としているダンスは何だったのだろう。彼は私のことばかりを聞いて自分の話をあまりしようとはしなかった。
彼はこの村を辺境の地と呼んでいた。彼がこの辺境の地を再び訪れることはないだろう。王都からこの村までは数日かかる上に王都の人間が好き好んで田舎村にやって来ることはない。
去りゆく彼の背中に向かって私は手を振り続けた。
*****
「女嫌いの理由で見合いから逃げた癖に、女性の家に泊まっただなんて……!!これは傑作だ!」
手入れの行き届いたブラウンの髪を振り乱しながら目の前の男は腹を抱えて笑い声をあげた。男の笑い声に驚いた周囲の人々が不審そうにこちらに視線を向ける。黒を基調とし、金色の装飾が施された軍服を着た男たちが重々しい雰囲気を漂わせているこの場所で俺たち二人は異質な存在だった。
俺は慌てて男の背中を押し、人気のない階段の踊り場へと連れ出した。この金髪蒼顔の男フレッド・フィレンツォとは幼少時代からの付き合いである。俺の両親とフレッドの両親が昔馴染みの友人だったからだ。つまり両親同士も幼少時代からの付き合いであり、俺とこの男が幼馴染になることは避けられなかったのである。
「わ、笑うな…!想定外の出来事だったんだ」
「何が想定外だよ。君は親から勧められた見合いから逃げるために、わざわざ有休を使って田舎へと逃げたんだろう。しかも、適当に準備した荷物だけで旅立って、道に迷うだなんて…!君のような怪しい人間を泊めてくれた慈悲深い女性に感謝しないとね」
「感謝はしている。もちろん、礼をすることも約束した」
「彼女とまた会う約束をしたんだね。君、女は嫌いだって言ってなかった?女は地位と顔しか見ない卑怯な奴らだって言っていたよね?」
「彼女は恩人だ。そこらの女とは違う」
「つまり、惚れたんだね」
「なっ…!?」
フレッドの容赦ない一言に俺の顔が一気に熱を帯びる。昔からこの男は人の痛いところを突くのが得意だ。
「まさか女嫌いで有名なルイ・アーバン卿が田舎の女に堕ちるだなんてね。笑っちゃうよ」
「笑うな!」
相変わらず笑うことを止めないフレッドに向かって声を荒げる。しかしどれだけ声を荒げてもフレッドの笑い上戸を止めることが出来ないのは長年の付き合いの経験から分かっている。フレッドは自分の気が済むまで笑い続ける男だ。フレッドの笑いを止められる人間はいないと俺は言いきれる。
「ところで彼女は君の素性を知っているの?君に見初められた田舎者の彼女は目を輝かせて喜んだでしょ?」
「彼女は俺をダンサーだと思っている」
「はあ!?ダ、ダンサー!?」
数日前、俺は辺境の地でアーニャ・ガストという田舎の娘と出会った。彼女は道に迷った俺を家へと招待し、寝床まで用意してくれた。その際彼女の追及から逃れる為に俺は苦し紛れの嘘をついてしまった。
自分はダンサーだ、と。
本当はダンサーではないし、ましてや家業もダンサーではない。
「自分は貴族で王宮直属の騎士だ。親から強引に勧められた見合いから逃れるために、俺はわざわざ辺境の地までやって来た。フレッド、お前ならはっきりとそう言えるか?」
俺は王国の貴族であり、王宮直属の騎士である。数か月前、突然両親が俺に見合いをするよう強制してきたのだ。良い歳なのだからいい加減に嫁をもらって来いという余計なひと言を添えて。
その見合いの相手がレベッカ・マーゼルだと知った俺は絶対にこの見合いは避けねばならないと思った。レベッカという女は騎士団の中で有名な女だった。騎士と名乗る貴族の男ならば所構わず声を掛ける尻軽女だと。彼女はまさに俺が最も嫌う女の種族に属していた。
見合いから逃亡しようと決心するまではそれなりに時間を要した。見合いから逃げればレベッカの顔に泥を塗ることになる。いくら苦手な女でも、それはあまりに残酷ではないかと幾度か悩んだ。
しかし騎士団の訓練所で同僚である騎士たちに所構わず声を掛け、腰をくねらせている彼女を見て決心した。よし逃げよう、と。
見合いから逃れ、辺境の地から家に戻ると顔を真っ赤にした両親が俺を問い詰めた。マーゼル嬢はお前が来なかったせいで非常に落ち込んでいたと。それを聞いて自責の念に駆られた。
しかし今日も今日とて彼女は適当な男たちに声を掛けている。何でも見合いの場で男に逃げられることは珍しくないらしい。彼女は貴族の娘なのだから、貰い手が一つや二つあってもおかしくないだろう。顔も悪くないし、年齢はまだ適齢期を過ぎていない。しかし彼女をもらうという男は一向に現れない。彼女は自分の魅力の伝え方を勘違いしているような気がする。もっと謙虚になれば彼女の貰い手は現れるだろうと俺は思う。
「うーん…見合いから逃げてきたっていうのが少し恥ずかしいね。でも、どうしてダンサーなの?」
「俺は踊りが苦手だ」
「よく意味が分からないよ。いつも思うけど、君って変なところで真面目で、変なところで抜けてるよね…。何だか、君が可哀想に見えてきたよ」
憐れむような目を向けてくるフレッドに俺は首を傾げた。俺のどこが可哀想だというのだろう。この男はたまに理解できないことを言い出すから困る。
アーニャには苦手なものが家業でそれが嫌だから家を出たと言ってしまった。俺にとって苦手なものは踊りだ。そのせいでつい本当に苦手なものを口走ってしまった。自分でもこれは失態だったと反省している。
フレッドは深い溜息をつくと、腰に手を当てて俺を見据えた。腰に手を当てるのはフレッドが本心を話す時の癖だ。それに気が付き俺は何となく姿勢を正した。
「彼女に本当のことを話したところで、貴族と田舎の娘は釣り合わないと僕は思うな。貴族に見初められた彼女は喜ぶかもしれないけど、田舎の女の子が貴族の生活に慣れるのは相当難しいと思う」
「貴族と言っても下級貴族だ。平民とさして変わらない」
上級貴族や王族ならば話が変わって来るだろうが、俺は下級貴族だ。地位だけで人を判断したりはしない。
「変わるに決まってるでしょ。平民は王宮直属の騎士になんてなれないよ」
「それはそうだが……。彼女はただの田舎の娘じゃない。教養があるし、見た目も悪くない。何より彼女はこの俺を救ってくれた」
「ルイ……君は彼女のどこに惚れたの?」
「ほ、惚れたわけじゃ…!ただ彼女を素晴らしい女性だと思っただけだ!」
「つまり、彼女は容姿も振る舞いも全て君の好みで、君は一目惚れをしてしまったということだね」
「勝手にまとめるな!」
「ぜひ頑固な君の心を射止めたという彼女とお会いしてみたいよ。きっと絶世の美女で、慈愛に満ちた女神のような女性なんだろうね」
「俺をからかうな」
「からかっているわけじゃないよ。僕はね、君が女性に求める理想像があまりにも高いから心配していたんだ。だから、君の納得する女性が現れたと聞いて本当に驚いたんだよ。ルイを納得させる女性が本当に存在したのか、って」
「俺はそんなに理想が高いか?」
「君は妥協という言葉を知ってる?夫婦生活には妥協が必要不可欠なんだ。そして、女性の嘘を許す広い心もね。君は自分が完璧だから、相手にもそれを求めてしまうんだよ」
俺が言えることではないが男女に限らず嘘はダメだろう、嘘は。この男は女という生き物に対して甘すぎる。そういうところが女心をくすぐるのかもしれないが。現にフレッドは多くの女たちから想いを寄せられている。
「俺は別に完璧ではない」
「君は完璧だよ。容姿は悪くないし、騎士団で数々の功績を残した。そして貴族だ」
「貴族は他にもいるだろう」
「そうだね。でも君は下級貴族でありながら、中級貴族以上の働きをしてきた。君は男女問わず、多くの人から賞賛されているんだよ。君はもっと自分のことを知るべきだ」
「自分のことは自分がよく知っている。それに、完璧というのはああいう男のことを言うんだ」
踊り場の小窓から外を指す。指の先には白い軍服を着た男たちの集団が厳格な雰囲気を漂わせながら歩いていた。集団の先頭を歩いているのは金髪を風に靡かせる長身の若い男。あの男こそ完璧と呼ばれている人間だ。
「ああ、アラン・クロイド卿か。あの方は論外だよ。雲の上を行くお方だから。君が完璧なら、クロイド卿は超絶完璧ってところかな。いや、完璧という言葉では言い表せない程、素晴らしいお方だよ」
「……お前の言う完璧の意味がよく分からなくなってきた」
アラン・クロイド卿は貴族の中でも上位の人物である。古くから歴史あるクロイド家は王家との付き合いも長く、そして国を影から支えている神殿との関わりも深い。多くの領地を治めており国に対する影響力も大きい。
そのクロイド家の次男として生まれたアラン・クロイド卿は王宮騎士団の幹部であり、神殿直属騎士団の長でもある。彼は王宮からも神殿からも絶大な信頼を寄せており、何かと対立しがちな王宮と神殿をつなぐ架け橋として多くの人々から有望視されている。
若干二十七という若さにして二つの騎士団を支え、そして絶世の美男子と呼ばれているアラン・クロイド卿は老若男女問わず好意を寄せられていた。
彼が身に纏っている軍服は白を基調としたものであり神殿直属騎士団の軍服である。俺たちが着ている黒の軍服は王宮直属騎士団の人間であることを示している。今日のクロイド卿は神殿騎士団の長として視察へ来たようだ。
相変わらずクロイド卿の顔には表情がない。
クロイド卿は知っているのだろうか。人々から氷の伯爵などという愛称で呼ばれていることを。彼の微笑みを見た者は幸せになれる、というおかしなジンクスが巷で流行っていることを。クロイド卿には感情がないという噂が騎士団の間で広まっていることを。
「家柄に恵まれた人間は、やはり役職にも恵まれるな」
「ルイって、昔からクロイド卿が嫌いだよね」
「嫌いなわけじゃない。苦手なだけだ。ああいう家柄だけで這い上がって来たような奴は、どうも性に合わない」
「嫉妬なんて、男らしくないなー」
「べ、別に嫉妬しているわけじゃない…!」
クロイド卿はこの世に誕生した時から、高位の職務に就くことが約束されていたと聞く。その話を聞いたとき世の中の不公平さに思わず反吐が出そうになった。
「気持ちは少し分かるよ。クロイド卿は騎士団に入った当初から幹部だったからね。でも、クロイド卿は王宮にも神殿にも貢献されていると有名だよ。一年半前に王宮から受けた任務を果たしたことで、さらに評価が上がったと聞くし」
「初耳だな。どういう任務だったんだ?」
「それがどうも極秘の任務だったみたいだよ。評価が上がったという事実だけは周囲に広まったけど、その任務の内容だけは伏せられてる」
「任務と称してサボってたんじゃないか?」
「あのクロイド卿が?んー、家で胡坐をかいたりゴロゴロしているクロイド卿なんて想像出来ないな。でも、面白そうだね」
確かに暇を持て余して胡坐をかいているクロイド卿など想像出来ない。視界に入るクロイド卿はいつも姿勢が良く、高貴な雰囲気を漂わせながら多くの従者を引き連れていた。そんな彼が胡坐をかいていたら、多くの人間が卒倒するに違いない。彼に夢を抱いている女性は卒倒どころでは済まないかもしれない。
「それより、次はいつ彼女と会うの?」
「ひと月後、有給を取れたなら」
「お礼と称して彼女の元に通うだなんて、君も案外不誠実だなー」
「お礼だ!俺はお礼をする為に彼女の元へ行くんだ!」
「まあ、そういうことにしておいてあげるよ。今度はさ、その彼女を王都に連れて来てよ。どんな女性か見てみたいし」
「彼女は王都が苦手だと言っていた」
信じられないと言わんばかりにフレッドが目を丸くする。
「え、何それ。変わった子だね。田舎の人間は王都に憧れを抱いていると思っていたけど、そうじゃない子もいるんだね。やっぱり、その子は君と合わないんじゃないかな。君は大人しく自分に近い境遇の女性と付き合う努力をするべきだよ。それとも、王都と田舎を行き来する通い婚でも目指すつもり?」
「か、通い婚…?お、俺はまだ結婚までは…」
「まだっていうことは、これから考えるかもしれないってこと?通い婚が現実になる日もそう遠くはなかったりして…。君ってつくづく不器用だよね」
どうしてもフレッドは王都の女を勧めたいらしい。確かに田舎の娘の元に好き好んで通おうとする男なんてそうそういないだろう。……そこまで考えて俺は頭を抱えた。
どうやらフレッドの言う通り俺は彼女に本気になってしまったらしい。初めて抱く気持ちにただただ戸惑う。そんな俺を見てフレッドは呆れたように微笑んだ。