1話
「アーニャ先生!今日もありがとうございました!」
「今日もよく頑張りましたね。明日の宿題は早めに済ませるんですよ」
「宿題は遊んでから!」
「明日までに済ませればいいんでしょ!」
走り去っていく幼い子供たちの背中を見送りながら私は小さく溜息をついた。
アーニャ・ガスト。この名前を名乗るようになったのは一年と半年前くらいだろうか。それ以前は深山絢という名前を名乗っていた。深山絢は本来の私の名前である。けれど今はその名前を名乗ることが出来ない。その名前を名乗る女は死んだからだ。……いや、死んだことになっているからだ。
今から四年前、十七歳の深山絢……私は女子高生として生活を送っていた。私は四人家族の長女であり、父と母そして兄の三人と共にそれなりに幸せな生活を送っていた。その生活が崩壊したのはあまりにも急だった。
学校から家へと続く帰り道を歩いていた私に向かって一台のダンプカーが突進してきた。激しい衝撃と共に私の身体は宙に舞った。
死を覚悟した。それ程激しい衝撃だったのだ。四肢があちらこちらから引っ張られるような感覚、そして胸元に走る激痛。たとえ無事だったとしても、酷い後遺症が残るに違いない。絶望的な未来を覚悟した私が目にしたのは見知らぬ景色だった。
神妙な面持ちをした初老の男、驚いた顔をしてこちらを凝視する若い女。様々な表情や顔をした男、そして女が私を中心に円陣を組みながら見つめていた。
「成功だ…」
円陣の中の一人がそう呟くと人々は歓声を挙げた。対照的に私の表情は恐怖に染められていた。この人たちは何者なのか。そして私はどこにいるのか。何故白い壁に囲まれた見知らぬ建物の中にいるのだろう。周囲にいる人たちはいつの間に私を取り囲んだのだろう。
自分の状況を理解できず、私は泣くことしか出来なかった。未熟な十七歳の少女なのだから、当たり前の反応だろう。しかし私を取り囲んでいた男女たちは動揺する私の様子など気にも留めず、状況の説明や質問攻めを行なった。
私が異世界に召喚されたこと。傾きかけている王国の情勢、そして世界の環境の為に力を貸して欲しいということ。この世界では異世界の住人を神の眷属として崇めているということ。
神官と名乗る男の話を聞きながら、ただただ頷くことしか私は出来なかった。
彼らに言われた通り国の為に私は力を注いだ。この世界に訪れてから『神力』を扱うことが私は出来るようになったのだ。何でも異世界からの訪問者は神力を操ることが出来るらしい。
強大な神力を扱える異世界の訪問者はこの世界にとって貴重な存在なのだと私を召喚した神官たちは告げた。この世界にも神力を使える人間はそれなりにいるが、強大な力を得られるのは異世界の者だけなのだという。
その話をまるで他人事のように私は聞いていた。それが自分の身に起きたのだということを実感したのは、神殿の傍にあった湖の水を操った時だろうか。湖を茫然と眺めていると湖の水が激しい勢いで増水し始めたのだ。それを見た神官たちは喜びの声をあげつつも、私に恐れを抱いた。巨大な力を持つということは巨大な脅威になりかねないからだ。
神殿の奥に私は幽閉された。幽閉された場所は窓のない石畳で出来た冷たい小部屋だった。孤独だった。たまに若い女の神官が私に声を掛けに来たが、内容の殆どが業務的なものばかりで私の孤独を癒す内容ではなかった。
毎日のように泣き暮らした。
そんな私を見た国王陛下は『このような頼りない娘が、我が国の救済者となるのか。信じられぬ。お前たち、まさか召喚に手を抜いたのではあるまいな』と呟いた。その呟きを耳にした神官たちは、自分たちの地位が危ぶまれることに焦ったのだろう。私に一人の青年を寄越してきた。
彼は優しい笑顔を私に向けながらこう言った。「貴女の力になりたい」と。
彼と出会ったあの日から私は救われた。孤独の世界から、私を彼は連れ出してくれた。冷たく暗い小部屋から度々私を連れ出し、暖かな太陽の光の下で色々な知識を私に与えてくれた。
この世界に来てから彼は私の全てだった。この異世界の王国の為に私は力を捧げた。彼の支えがあったからこそ、安心して王国の為に私は力を注ぐことが出来たのだ。
そして全ての真相を知った一年半前。再び孤独の世界へと私は追いやられた。彼は私の死を願っていた。王国にとって私はただの駒に過ぎなかったのだ。
信じられなかった。信じたくなかった。
彼から仕向けられた刺客の手から逃れ、私が辿り着いたのは辺境の村。そこでアーニャ・ガストという名前を私は名乗った。
アーニャは絢をもじった。ガストは元の世界でよく友人と訪れていたレストランの名前だ。名前なんて適当で良かった。深山絢を名乗れば私が生きていることを王国の人間に知られてしまうかもしれない。そうなれば再び命を狙われる可能性がある。
突然現れた私を不審そうな顔をして村の人々は眺めた。当たり前の対応だと思う。身体の所々に傷を負い、薄汚れた白いワンピースを着て、息も絶え絶えの状態で現れた不審な女を温かく迎える人なんてそうそういないだろう。しかし私を村の人たちは迎えてくれた。不審そうな顔をしながらも私を介抱してくれたのだ。
身寄りがないと泣き続ける私に色々な物資をこの村の村長は提供してくれた。食べ物から住むところまで。最初は不審そうに私を見ていた村人たちも私に敵意がないと知ると親切にしてくれた。
今、こうしてアカイ村で教師として生活できているのは村長、そして村の人たちのお陰だ。
「さて、今日の食材を探しに行こうかな」
椅子に掛けていたショールを羽織い、椅子の上に用意していた籠を手に取る。適当に身支度をすると私は家を出た。
基本的に食事に使っている食材は家の裏にある山の山菜だ。教師の仕事を終えた昼から日が落ちるまでは山菜採り。私の欠かせない日課である。神の愛娘として神殿で暮らしていた頃は食事は全て使用人によって用意されていた。しかし一人身となった今では食材から衣服まで全て自分で用意しなければならない。
この世界に来た十七歳の頃は泣いてばかりだったが今は違う。私はもう二十一歳だ。元の世界では既に成人を過ぎている。この歳になれば親元を離れて自立して生活を送っている人たちもいるだろう。泣いてばかりいられないのだ。いや、もう泣かないと決めた。深山絢という名前を奪われたあの日からもう泣かないと私は決めたのだ。
「あら、アーニャ。今日も山菜採りかい?精が出るね」
山へ向かう途中、声を掛けてきたのはアネットさん。一人暮らしをしている私に気を遣ってくれている優しい女性だ。
「良い山菜が見つかれば、お分けしますね」
「いつも悪いね。今日採れた畑の野菜、アーニャの家の前に置いておくからね」
「え、でも…」
「うちの息子の面倒を見てくれてるお礼だよ。もらっておくれ」
「ありがとうございます」
神の愛娘として神殿にいた頃は教養と称して多くの知識を学ばされた。この世界の歴史や地理、神話、政治、マナーなど教わった知識は多岐に渡る。あの頃は知識なんて不要だと思っていたけれど、今は学んで良かったと思っている。こうして教師を名乗れるのはその知識のお陰だからだ。
アネットさんと別れると山の奥へと私は向かった。山の奥には小さな湖があり、その傍には様々な山菜が採れる。その場所を見つけた時は山菜の宝箱のようだと目を輝かせたものだ。
いつもは人気のない静かな湖だが、今日は違った。
誰だろう。湖の畔に人影を見つけて私は首を傾げた。
村の人間だろうか。湖の畔にしゃがみ込んで何か作業をしているようだ。近くに歩み寄ろうと歩を進めると、その人影がピクリと動いた。
「何者だ」
低く警戒心を露わにした声。どうやら村の人間ではないらしい。聞き覚えのない若い男の声だ。
「ち、近くの村の者です…」
恐る恐る声を紡ぐ。すると人影がゆっくりと振り返った。
「この近くに村があるのか」
人影は綺麗な顔をした男だった。堀が深く、鼻筋は綺麗に通り、切れ長の瞳。濃い眉は力強さを感じさせる。年齢は二十代前半くらいだろうか。少し幼さが残った顔立ちをした男は水滴が付いたダークブラウンの髪を手でかき上げた。
「驚かせてすまなかった。まさかこんな辺境の地に人がいるとは思わなかったんだ」
辺境の地……確かに男の言う通り、ここは王都から遠く離れた土地だ。しかしこれでも小規模な村が点々と存在する。村人は少ないが、みんなで力を合わせて懸命に生きているのだ。
ところで一体この男は何者なのだろう。王都から離れたこの場所に訪問者がやってくるのは随分と珍しい。
「そこで何をしているのですか?」
まさか私と同じ山菜採り?
「顔を洗っていたんだ」
ああ、だから水滴が髪や顔についているのか。布で顔を拭くと改めて男は私を眺めた。
「さっき近くの村の人間だと言ったな」
「ええ、近くの村……アカイ村で教師をしているアーニャ・ガストと申します。そちらは…?」
ハッと我に返ると、男は慌てて立ち上がった。その反動で辺りに彼の髪に残っていた水滴が飛び散る。
「お、俺は………ルイだ」
「ルイダ…?ルイ・ダさんでしょうか?」
「そうじゃない。ルイだ。ルイが名前だ」
ルイ……おそらく彼のファーストネームだろう。しかし何故ラストネームを名乗らないのだろうか。
「ところで、お前はここで何をしていたんだ?」
「私は山菜を採りに来たのです。今日の夕食に必要なので」
「山菜?ここで山菜が採れるのか?」
驚いた様子でルイと名乗った男は声をあげた。ここは山なのだから山菜が採れてもおかしくはないと思うのだけれど。
「水資源が豊富なこの辺りでは、山菜が育ちやすいんです。見て下さい。あれはアリアです。アリアは綺麗な水辺の近くにしか生息しません。アリア以外にも、多くの山菜がこの辺りに生息しているんです」
「随分と詳しいな」
「毎日訪れているんですから詳しくて当然ですよ。ところで貴方はどうしてこの湖でお顔を洗っているんですか?」
私の指摘にギクリと身体を震わせる男。その姿は見るからに怪しい。
「俺は……旅人なんだ」
そう呟きながら男は罰が悪そうな顔をして私から視線を反らそうとする。
「旅人…?旅人にしては随分と軽装ですね…」
男の恰好は薄着で長旅に向いているような恰好ではない。しかも彼の傍には小袋がいくつか置かれているだけだ。旅をしているのならもっと大荷物を抱えていそうなものだけれど。
「お前、意外と察しがいいようだな」
「意外というのはどういう意味でしょう」
驚いた顔をして私を見る男。男にとって私は一体どんな人間に見えるのだろう。思わず苦笑してしまった。
「実は家を出たばかりなんだ」
「家を出た?」
「今やっている仕事に疲れた俺は新たにやるべき仕事を見つけようと家を出た。ところが家を出たというものの、準備が甘かったようだ。家を出て早三日。今、温かい布団に恋焦がれているところだ」
「三日で心が折れたんですね…」
呆れた顔をして私は呟いた。その呟きを聞いた男の顔が真っ赤に染まる。
「こ、これでも家を出ると決心をするまで五日かかったんだ」
「決心をするまでに要した時間よりも、旅をした時間の方が短いじゃないですか…」
どうやら私は変わった人に声を掛けてしまったようだ。
「良ければ私の家にいらっしゃいませんか?温かいスープくらいならご用意しますよ」
***
男は怪訝そうな顔をしながらも私の招待を受け入れた。どうやらあまり良い食事にありついていなかったらしい。山菜スープを差し出すと彼は嬉しそうな顔をして平らげてしまった。
「山から拾ってきた山菜と聞いてどんな味かと心配していたが、結構美味いものなんだな」
食事を提供してもらいながら随分と失礼な言いぐさである。
「ルイさんは一体どのようなお仕事をされていたんですか?」
食事を終えた男に私は問いかけた。旅に出たくなるような仕事とは一体どんな仕事なのだろう。逃げたくなるくらいの仕事なのだから激務に違いない。
「俺がしていた仕事は……ダ、ダンサーだ」
「ダンサー?ダンスが嫌で家を飛び出したんですか?」
「どうも俺には踊りという行為が合わなかったようだ。ダンサーという職業を辞めるために、俺は家を出た」
「ダンサーを辞めるために家を?別に家まで出る必要はなかったのでは…」
「家業がダンサーなんだ」
「か、家業…?」
家業がダンサー。変わった家業だ。この世界ではダンサーを家業としている人がいるのか。つまり元の世界で言うサーカスや劇団のようなものだろうか。この世界に来てから四年という月日が経ったけれど、まだまだ知らないことが沢山あるらしい。
「華やかな家業ですね」
「合う合わないがあるんだ。最も、俺には合わなかった」
「それでわざわざ家を飛び出して来たんですか?ルイさんって変わった方ですね」
肩を揺らしながら笑う私を見て顔を赤くする男…もといルイさん。確かに合わない職業を背負わされたのなら逃げたくなる気持ちも分かる。私もそうだった。四年前、この世界に来たばかりの私は神の愛娘として務めるよう強制され、逃げ出したくてしょうがなかった。彼も、あの時の私と同じ気持ちなのだろう。
「ところで、お前はこの村の出身なのか?この小屋に一人で暮らしているようだが」
小屋とは失礼な。これでも村長さんが提供して下さった私の大切な自宅だ。一人暮らしなのだから小さな家で充分だ。
「いえ、この村の方に拾ってもらったんです。この村に来たのは一年半前です」
「一年半?最近じゃないか。それまで一体何をしていたんだ?」
神殿で暮らしていましたなんて言えるはずがない。この世界の神を祭る神殿を出入りできるのは選ばれた人間だけであり、地位のある人たちだけだ。神の愛娘と呼ばれる異世界の娘が存在することを知っているのも神殿を出入りできる僅かな人たちだけ。神殿を出入りできるというだけでも、この世界の人たちにとって恐れ多いことなのである。
本当のことを言えば死の危険に私は晒される。一年半前、神の愛娘は刺客によって殺されたことになっているのだから。
「王都で暮らしていました」
「王都?王都から何故このような辺境の地に?」
「王都の露店で働いていたのですが、解雇されてしまったのです。行き場を失った私は生活の出来る場所を求めて、この地に辿り着きました」
多少嘘が混じっているが、似たようなものだろう。神の愛娘という役割を解雇されたのだから。
深刻そうな顔つきをして私をじっと見つめるとルイさんは私から視線を反らした。
「悪い。嫌なことを思い出させてしまったな」
どうやら私は心情を顔に出てしまっていたようだ。
「いえ、気になさらないで下さい。所詮、過去は過去です。今が幸せなら、それでいいんですから」
まるで自分に言い聞かせるように私はそう言った。本当にそうなればいいのにと思う。私の胸の奥から消えないこの怒りや憎しみも、過去と一緒に消えてしまえばいいのに。
「ところで、今夜はどうなさるおつもりなんですか?」
ルイさんが飲み終わったスープを片付けながら私は尋ねた。
「それは、どういう意味だ?」
「このまま家にお帰りになるのですか?」
「俺の家は王都にある。一日で着くような距離じゃない。それに今はまだ戻るわけにはいかないからな」
「それなら、私の家に泊って行かれませんか?この辺りには、宿と呼べるようなものは一切ありませんよ」
「お前のような若い女の家に寝泊まりするわけには…。お前、突然現れた俺が怖くはないのか?普通の人間ならば、不審に思うだろう」
どうやら、ルイさんは真面目で誠実な人のようだ。自分から自分が危険な人間であるかもしれない、と忠告するくらいなのだから。
「野宿は辛いと思いますけど…」
「それは分かっている…。しかし…!」
「ルイさんは若い女ならば誰でも手を出してしまわれるような方なんですか?」
「だ、断じて俺はそんな不埒な輩じゃない!」
「それならいいじゃないですか。たかが一晩です。私はこの村の人たちに救われた身です。村の人たちは、突然現れた私を迎え入れてくれました。私も村の人たちのように、困っている方々を救いたいんです。どうか、私の我儘だと思って聞き入れてはくれませんか?」
ぐっと言葉に詰まったようにルイさんの顔が強張る。そして思い悩むように宙を睨んだ後、深い溜息をついた。
「そこまで言うのなら……今日は世話になる」
ルイさんは消えてしまいそうな声でそう言うと深く頭を下げた。
互いを知らぬ若い男女が共に寝泊まりするのは世間一般では白い目で見られるようなことなのかもしれない。しかし行き場のない彼を見捨てるのもまた道理に反しているように思える。
私は救われた人間だ。そして彼もまた過去の私のように困っている。そんな彼を見捨てるわけにはいかない。彼が異性だということが多少ネックだが、ここは彼を信用することにしよう。
ルイさんが眉を潜める。気分を害させてしまったのだろうか。客人に迷惑をかけてしまった。誰でも睡眠を邪魔されるのは嫌だろう。
「本当に申し訳ありません…。ルイさんは気にせず、身体を休めて下さい。私はもう起きますから」
「魘されているお前を置いて、自分だけぬけぬけと眠りにつくわけにはいかないだろう。その悪夢は頻繁に見るのか?」
どうやら気を遣わせてしまったようだ。彼を手助けするつもりが、迷惑をかけてしまっている。自分の不甲斐なさに私はガクリと項垂れた。
「いえ、悪夢を見るのはたまにです。どうも今日は運が悪かったみたいですね」
客人が訪れているというのに何たる不覚だろう。
「そうか…。やはり女一人で生活をしていると何かと不便のようだな」
「そ、そんなことはありません!自衛には気を遣っていますし、悪夢を見るのはたまにですから。それに度々村の方々が私の様子を見に来て下さるので安心して生活できています!」
「村の方々というのは男か?」
「ええ、村長や若い男衆が……」
「アーニャ、お前には男がいるのか?」
おかしい。話の内容が随分と変わってしまったような気がする。
「ルイさんのおっしゃる男がいるというのは、恋人がいるかということですか?」
「ま、まあ……そういうことだ」
罰が悪そうに視線を反らすルイさん。聞きづらい話題を尋ねるのなら最初から聞かなければいいのにと思ってしまう。思わず笑みを私はこぼした。
「いませんよ。私は独り身です」
「それは……大変だな」
ルイさんが憐れむような視線を向けてくる。憐れんでもらうようなことは一切ないと思うのだけれど。私は一人暮らしの生活をそれなりに気に入っている。誰かを疑う必要もないし騙されることもない。
何故、彼は私を憐れんでいるのだろう。この世界では二十一という歳になると恋人や夫がいて当然なのだろうか。