助けた虫が俺のクラスに転校してきたんだが
人間として、いや、男の一人として絶対に負けられない戦いというものがある。
現在の時刻はてっぺんを超えた深夜一時。
日課のゲームをやっていれば大抵この時間まで気がついたら止まらないものだ。
右手にはスプレー、左手には新聞紙というゴーストバスターズもびっくりの武装だ。
そして部屋の中央で赤外線トラップの如く目を光らせている。
どこだ、どこにいったんだあいつは。
俺としたことがまさか部屋であいつを見ることになるとはな。なんで深夜に一人で迎撃作戦を実行しなければならないんだ。今日に限って親父も母さんも出張でいねえし。
ま、原因を作ったのは俺なんだろうけどな。散らかってる現状を見れば誰だってそう思う。
食いかけのスナック菓子、飲みかけのジュース、いつ開けたのかすら忘れているグミetc。
虫達からすればエデンでありパラダイスであり、桃源郷なんだろうな。俺だって思うに決まっている。明日綺麗にすればいいか。なんて考えている最中、黒い物体が俺の
視界を横切る。
「来たな……天敵!」
サッと構えをとって、部屋の隅を集中する。
さあ、どこから来やがる。机の角か? 壁を駆け上って来るか? 飛んで俺に応戦してくるか?
いざという時のために様々なシチュエーションをしておかなければならない。人間は予期せぬ出来事に対して瞬時に反応できないからな。ひょっとして俺って天才か?
なんてことを考えながら構える。時間だけが無情にも過ぎる。時計の針がカチカチと動く音がとても大きく聞こえる。
奴から動く気配はない。もはや戦線離脱といった感じか?
否、ここで逃せば明日以降の俺が文句を言うに決まっている。
「こないつもりか、よかろう」
だったらこっちから宣戦布告といこうではないか。
「ここか!」
先ずは机の隙間にスプレー放射。反応なし。
「こっちか!」
続いてテレビ台の後ろに放射。やはり反応なし。
「くっそ、どこに行きやがった」
いくら殺意があったとしても数十分も緊張感を漂わせたままでいるのは流石に疲れる。
ベッドに腰を落として飲みかけのジュースに手を伸ばしたところで――
――カサカサ。
「出たな!」
スパイダーマンも驚くほどバッと飛び上がった俺は即座に戦闘態勢に移行する。
もちろん手から糸なんか出せないけどな。
敵の動きは何だが鈍い。おそらく先程撒いていたスプレーの煙がまだ部屋に残っているのだろう。人間でいう酩酊状態に近いのかもしれない。
そのまま放射してトドメをさそうと思ったが――
――カサカサ。
「何だ。こいつ……」
左右に揺れる触角。油の影響で気味悪い光沢がある羽根。人によってはトラウマにもなるだろう棘のついた足。見た目は害虫なのだが、俺に向かって首を何度も上下に動かしている。よく見ると二本の足を折り畳んでいる。この光景、実際に見たことはないが、ドラマや映画ではなんども見たことがある。
「土下座?」
謝っているつもりなのだろうか。まあ、確かに? こいつが俺に対して何か迷惑になるようなことをしたかと聞かれればそんなことはない。せいぜい深夜に体を動かされたくらいだ。虫からしてみればいい迷惑なのかもしれない。相手から見た俺は一体何に見えているんだろうか。イケメンや頭が良いといった特殊な能力を持ち合わせていない俺ですら巨人に見えるんだろうな。
俺がこいつの立場だったら何も考えずに特攻するよりも降参を選ぶつもりだ。死にたくはないからな。虫に人間みたいな知性があるのか知らないけどさ。
「なあ、お前……なんでここに来たんだ?」
――カサカサ。
器用にお腹を足で叩いてばたんと裏返った。必死にジタバタ動かす様子に目を背けたくなるが、何だろう。妙に可愛く見えてきた。慣れって怖いな。
こいつのボディーランゲージから察するに、ようはこうだ。
いくら数日何も食べなくても活動できるとはいえ、流石に限界が来たらしい。そんな中、ふと立ち寄った一軒家。お腹が空いてた自分にとっては天国に思える環境。すぐに出て行こうと思ったが時すでに遅し。驚かすつもりはなかったのだが、最悪のタイミングに俺が発見してしまったらしい。
「お前も苦労してんだな」
自分が人間なのが馬鹿らしく思える。こんなに生きてる奴が虫なんてな。
――カサカサ。
尚も土下座を続ける害虫を無視して、俺は部屋のドアを開けた。
――カサカサ。
首を斜めに傾げる害虫。
「俺の方こそ悪かったな。いきなりスプレーなんか発射してさ。今回は見逃してやるけど、二度と来るんじゃねえぞ?」
しっし、と手を振る。
――カサカサ。
俺の言葉を理解したのか害虫は颯爽と俺の部屋から出て行った。あいつ、これからどこに行くつもりなのだろうか。家を出て少し歩いたところにある森林か、地下に落ちたのか、それとも車に轢かれたのか。
「まあ、別にいっか。虫だし……」
散乱した部屋にポツンと一人。
熱気が急に冷めた気がする。
「さっさと寝るか……」
もうベットに入る体勢をとった体を無理やり起こす。
「これくらいはやらなきゃな」
散乱している食べ物やらを片づける。翌日の俺が寝不足に陥ることになるなんてこの時の俺は知らなかった。
「くそ……眠い」
瞼が物凄く重い。朝の陽射しがやけに眩しい。あれだけ掃除を頑張ったんだから今日くらい休みにしてくれないものだろうかとも思ったけど、そんなことは起きない。日曜日が過ぎれば月曜日になるのがこの社会だ。
重たい足を動かして教室を目指す。通学路を歩いて二十分もかからないはずなんだけどな。遥か遠くに感じるな。ああ、愛しのmyチェアー。
教室に着く。俺の前席にいつも座っている奴は既に登校していた。
「よ」
「や」
簡単で原始的な会話だが、俺にとって、いや俺たちにとってはいつものことだ。
伊藤翔――ほとんどの生徒が黒髪ということもあって、明るい頭髪はいやでも目立つ。本人曰く生まれつきの茶髪らしい。明るい性格に加えて人当たりがいい。それに加えて容姿が整っているという神様の贔屓を存分に受けていると感じる奴だ。羨ましい。
「何してんだ?」
「これか? 昨日知り合った子と会話中~」
どれどれと覗き込むとサッとスマホを隠すと、何とも仲が良さそうな風景が浮かんでくるかのようなプリクラを見せてきた。俺からするとどっちもクレイ型宇宙人にしか見えない。こんな目が大きいやつがいたら間違いなく都市伝説になってるだろうな。
「聞いたか。俺らのクラスに転校生が来るらしいぜ」
「こんな時期になんでまた」
普通、転校してくるといえば学期が始まってからだろう。今まで何度か転校生が来るというイベントはあったが、どれも学期の初めに来た気がする。余所から転校してくるプレッシャーを和らげるために計画しておくのだろう。
「さあな。俺がそんなこと知るわけねえだろ? あ、性別は女子だってよ」
「なんでそんなこと知ってんだよ」
伊藤翔はモテる。それは紛れもない事実であり、否定のしようがない。だが、とんでもなくこいつは手を出すのが早い。女子と分かるや否や、真っ先に連絡先を交換しデートに行くまで俺の記憶している限りだと最短で当日だった。そのため、女子からしてみれば好き嫌いが見事なまでに別れていると言っていい。
「はっはっはっ。これくらいの情報力はあるんだな~明美にきいたってわけ」
「あ、三号のことね」
「三号言うな」
「事実なんだから受け入れろ」
「そりゃあ、そうだけどよ」
三号というのは要するに三人目の彼女のことだ。ちなみに翔は現在、五号までいる。つまり、五股してるってことだ。よく刺されたりしないもんだよなほんと。
「それに、話を聞くところによると、かなりの美人らしいぜ?」
「でたよ。何かあるとすぐそういう話にもっていくんだから。そろそろ抑えた方がい
いんじゃない?」
「どんな子かな~。めちゃくちゃタイプだったりして」
もう手遅れだ。保健室に連れていったほうがいいかと考えたところで教室のドアが開いた。
いつものように担任が入ってきて、その後にめちゃくちゃ可愛い女子が入って来た。
「おおっ!」とクラスからは感嘆の声があがる。主に男子だが。
綺麗に伸びた黒髪。スラリとした手足。出ている所はでており、引き締まるところは引き締まっている。ファッション雑誌のトップモデルをしていてもおかしくない完璧なプロポーション。それに加えて均衡のとれた黄金比の愛くるしい顔。この世の男子全員を手駒に出来そうな気さえしてくる。
「か、可愛い……」
「ほれ、俺の言った通りじゃねえか」
「めちゃくちゃ可愛くね?」
「すっげー。なんでウチに来たんだろ」
中々の評判だ。俺含めクラス内の男子はみんな一目惚れになっていた。
ごほん、と咳ばらいをして担任が口を開いた。
どうやら教師ですら見惚れてた。
「じゃあ、自己紹介をしてもらおうか」
「はい。こ、こんにちは。わたしは五木黒江といいます。宜しくお願いします」
「というわけだ。みんなよろしくな。じゃあ、五木さんの席は……あそこだ」
「はい」
五木さんが座ったのは俺から右に二つ隣の席だ。なんとも微妙な位置。
「ねえねえ。五木さんってどこから来たの?」
「えっと、遠い所から」
「好きなモノって何?」
「暗い所かな」
「血液型何型?」
「Aだと思う」
ホームルームが終わり次第これだ。はたから見るとそれはさながらクラスにアイドルの握手会が行われているみたいな光景である。
「すっげえ人気」
「可愛いからな。お前も行って来いよ」
「そんな度胸あるわけないだろ。俺にそんなこと言うんなら、お前が――」
「で、五木ちゃんはどんな奴がタイプ?」
もう行ってるし。しかも何の変化もないドストレートで質問しやがった。
「う~ん、そうだな~」
ゴクリと喉を鳴らしている男性陣。誰しもが期待を寄せているのだろう。もしかしたら俺にもチャンスがあるんじゃないか! ってな。
「特にない……かな?」
「よっしゃ~!」
男子たちが雄叫びを上げ、教室全体が謎のムードに包まれたところで
「何騒いでんの。早く席について、とっくにチャイム鳴ってるでしょ」
一時間目の日本史教師が入って来たところでそそくさと自分達の席に帰る男子たち。
「いや~、特にタイプはないんだってよ」
振り返りながら俺に告げる翔。何がいいたいんだろうか。
「お前にもチャンスがあるってことさ」
「随分と余裕がありそうだな」
「まあな。何せ俺は五人を同時に相手する男の中の男だぜ?」
「胸を張って言うもんじゃねえだろ」
そんなこんなで開始した授業。当然、熱意を振るって指導する教師のことなど考えずに誰もが五木さんを見ていたことは言うまでもなかった。
放課後を迎えても人気が収まることはなかった。その上、クラスを超えて、他クラスにまで五木さんの話は知れ割っていた。そのため、ホームルームが終わった瞬間、ゾンビが押し寄せるかの如く五木さんは人の波に呑まれてしまった。
「お前、帰るのか?」
「ああ。早いとこ帰ったほうが良さそうだしな」
「ふーん。じゃあ、俺もあの波にのまれてくるとすっかな」
「お~。行ってら~」
自ら波に呑まれに行くという生粋のサーファーかただの馬鹿を放っておいて俺がドアに手を駆けた途端、わんさかしている人波からひょこっと一人だけ出てきた。
「ふ~! なんとか出れた~」
「え……」
「あ! 君!」
俺の顔を見るなり、両手で口を覆う女子。紛れもなく五木さんだ。
「ちょっと、来て!」
「え?」
「いいから」
グイっと俺の腕を捕まえるとそのまま放す素振りなど皆無。ずんずん進んで行く彼女に身を任せて俺もその後を歩く。チラリとクラスに目をやるとまだ人の波は去っていない。どうやら目当ての女子が俺の前を歩いてるなんて誰も気がついてないんだろう。
屋上まで来たところでようやく解放された。一歩一歩歩くたびに俺の腕が彼女の胸にあたってなんともいえぬ幸福だったが、ご褒美タイムはあっという間に終了してしまった。
「ここまで来れば大丈夫ね」
「そりゃあ、そうだけど……」
「あのね。君に伝えたいことがあるの」
ドキン。
何だ。急に胸が苦しい。屋上という今なら誰もこない場所。何か言いたげな向かいの女子の頬は朱に染まっていて、もじもじしている。まさか告白か? 俺に? ドッキリとかじゃないよな。
拍動する心臓の音、聞こえてないかな。ものすげえ鳴ってる。この前やったシャトルランを遥かに超える心拍数なのが自分でもわかる。
「えっと、その……」
「は、はい!」
「昨日は助けてくれてありがとう」
「え?」
昨日助けた? 一体何を言ってるんだ五木さんは。昨日はおろか過去数十年を振り返ってみてもこんな美人を助けたことはないし、そもそも見た覚えがない。誰かと間違えてるのか?
「昨日って言われても……別に俺、今日初めて会った筈なんだけど」
「嘘! 昨日あたしを助けてくれたじゃない!」
「いや……その……」
そう言われましてもね。落ち着け俺。昨日の出来事を思い出せ。何をしてたんだ? まだ二十四時間も経っていないから新しい記憶のはずなんだけど……。
冷静に昨日あったことを思い出してみる。
昨日は日曜。以外にも朝早くに起きた俺はいつもなら急いで食べる朝食をゆっくり食べて、やり残してた課題をやって、午前中が終了。その後は、昼食を済ませてゲームを起動してそのまま深夜までやって――って、昨日の俺は家から一歩も出てねえじゃん。
「やっぱり君とは会ってないんだけど、勘違いしてんじゃないの?」
「いや、絶対にそう! だって昨日会ってるんだもん」
押しが強いな。元気があっていいことだと思うけどさ。
「じゃあいいよ。証拠見せてあげるから」
そう言うとおもむろに服を脱ぎだす五木さん。そんな彼女を直視することなどできるはずがなく、反射的に振り返った。
「ちょ、ちょっと何してんの!」
「だから証拠を見せてあげるの!」
一体後ろで何をしているのだろうか。ジーっとした音。布が擦れる音。時折聞こえる「うんっ……しょ」という生々しい声。俺の後ろで行われているのは着替え。その頭に美少女高校生が付いたらもはやそれは犯罪臭がするんだが。
「見ていいよ」
時間にして五分もかからなかったはずなのだが、胸の鼓動が治まらねえ。
「う……」
目を瞑ったまま振り返り、重たい瞼を動かし目を開ける。
いやいや、服を脱いだといっても数枚に決まってる。いきなり全裸なんてことはないだろう。
俺の視界に映ったのは――
「あ、あれ?」
几帳面に畳まれた制服と側に置かれている靴。だがそれを着ていた持ち主の姿が見えない。一体どこに言ったんだ? まさか全裸で校内を駆けまわってるわけないだろうし。
「五木さん。どこ行ったんだ?」
――カサカサ。
「ひいっ!」
なんちゅうタイミングで出やがったこの害虫! もう俺に慈悲の心なんて優しいものはない。お前には死を与えてやる。怒りの踏みつけをお見舞いしてやろうかと思ったが、途中でふと気がついた。って、あれ? なんかこいつ、動いてるな。
それに何やら様子が変だ。両足を上に掲げている。「はーい止まってー」みたいなことを言いながら指示する交通整理しているおっちゃんたちのように。
もしかしてこいつ……俺が昨日助けた奴なんじゃ……
「なんでこんな時に俺の前に出てくるかな」
――カサカサ。
「あのなあ、いいか。突如クラスに転校してきた美人の生着替えを堪能できる絶好の機会だったんだぞ? まあ、虫のお前に何か言ったところで何も変わらないんだけどさ」
――カサカサ。
何やら害虫は自信を指差している。まるで自分がその美少女であると言うみたいに。それにどことなく、身を捩らせているような気もする。照れているみたいだ。全然可愛くないけど。
いや、虫とくらべんな。あの人の美貌に敵うはずないんだから変なことは言わない方が今後のためだ。なんて言いかけたところで五木さんが言ったことが脳裏によぎる。
彼女は俺に助けられたと言っていた。確かに昨日の夜俺は一つの命を助けた。余りにも小さい命をな。そいつは今俺の目の前、訂正。目の下にいて、懸命に自らを主張している。
まてよ? 転校してきたタイミング。そしてあの発言。
俺の脳内でバラバラのピースが完成されていく。まさかこいつ……
「ひょっとして、五木さんなの?」
――カサカサ!
数秒の間があったものの、嬉しそうに飛び跳ねている。なんて、こった。鶴や亀が助けた恩を返すために主人の元に来るなんて昔話は聞いたことがあるが、わざわざ害虫界のカリスマリーダーが来るなんて夢にも思うまい。
ああ、そんな……。俺の記憶に新しい五木さんの姿が音を立てて崩れていく。
どうやら五木さんは昨日俺が見逃したゴキブリらしい。
「驚いた?」
「ああ……うん……まあ……ね」
驚きを通り越してもはや若干引いてる自分がいる。虫が人間になるってことを置いといても疑問点が無数にあるが、そうだな。どれから聞こうか。
「あのさ」
「なに?」
「色々聞いてもいいかな」
「もちろん!」
目をキラキラさせると俺の目を真正面から見つめる五木さん。かと思いきや、即座に俺のすぐ前まで来た。服の上からも分かるほどの見事なまでのボリュームに視線が奪われそうになるのを理性でなんとか抑えた。刺激が強すぎるんだよ。
「なんでこの高校に来たの?」
「君がいるから」
真っ当な理由だ。
「なんで人間の姿になれたの?」
「本当の姿で行ったら退治されると思って」
警告したからな。
「なんで変身できんの?」
「知り合いの子にお願いしたらしてくれた」
「魔法使いですかその知り合いは」
「魔法? が何かわからないけど、「古くから伝わるものだー」って言ってたよ?」
この場合の知り合いってゴキブリのことなのか? それとも他の害虫か。ともかく、害虫界隈にも魔法使いみたいな奴がいるんですね。興味ないけどさ。
「その見た目は自分で選んだの?」
「こういう女が人間界では人気って知り合いの子が」
なんつー知り合いだ。よくやったと称賛を送るに値する。現に校内の男子全員を虜にしてるんだからな。
「ていうか、まず聞いておくんだけど」
「はい!」
良い返事をされても困る。
「五木さんは……その……ゴキブリってことでいいの?」
「そうなの! 両親ともにゴキブリだから純ゴキブリね」
「いや、純以外のゴキブリとか知らない。そもそも人間になれるなんて誰も思わないって!」
大丈夫か地球、並びに俺たち人類。このままじゃ近い将来、人間とゴキブリの全面戦争が引き起こされるんじゃないのか。
「そう? 知り合いの子に聞いたら「おいらも若い時はよく人間の姿になったんだー」って言ってたから普通の事かと思ってた」
「あっ……そ、そうですか」
そんな事情知らないって。
「あ~、昨日は嬉しかったな~。お腹空いて大変だった時にひょこっとよったらたくさんの食べ物があるんだもん。つい夢中になって探索している時に君に見つかっちゃっておしまいだぁ! って思ってたらね。見逃してくれるんだもん。あの時の君は神様に見えたよ~」
「別に、俺だって土下座するゴキブリなんて見たこと無いから」
「けど、普通だったら余計に気味悪がって退治するでしょ?」
「そりゃあ、まあ、うん。時と場合によるけど……」
「でも君は助けてくれたじゃん」
「助けたけど……それはなんて言ったらいいか……」
あの時なんで俺は戦闘心を捨てたのだろう。可哀そうに思ったのか? 普段虫に対してそんな憐みの心なんて持ち合わせていない俺が。今まで一体何匹のカブトムシたちを飼って犠牲にしてきたことか。俺の背中には大量のカブトたちの怨念があるに違いない。
「その時にズッガーンって来たわけ!」
「は、はぁ」
何が来たのか分からないけど、何かがズッガーンときたらしい。
「ああ、この人と一緒に過ごせたら楽しいだろうな~って」
「それで、俺と仲良くするためにハイスペック状態で転校してきたと」
「う~ん。何言ってるかあんまりわからないけど、そういうこと」
つまり、俺たち人類界隈でストーカー行為。それを平然としているということか。恐るべき行動力だな。
「それでね……あの……君さえ良かったらなんだけど」
モジモジする五木さん。顔の側で人差し指をツンツンしている。可愛い。
「あたしと付き合ってくれないかなって」
「え……」
「どう……かな」
どうと言われても。女子に告白されたことなんて人生で一度だけだ。しかもその一度はドッキリでしたー。なんてクソみたいな連中が俺に仕掛けたトラップだった。あれで人間不信に陥ったらどう責任をとってくれるつもりだったのだろうか。
「駄目……かな」
「うっ……」
上目遣いで俺のことを見ないで。
この人は虫。彼女は虫。美少女の虫なんだから。
そう簡単に了承するわけにはいかないんだ。二つ返事ではいみたいな展開になると思うなよ。
「やっぱり、俺には流石にその……荷が重いというか」
「うっ、うっ、うっ」
俺が言った途端にぽろぽろと涙を落とす五木さん。
流石に泣いている女子を放っておけるような精神なんか持っていない俺は慌てる。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って。なにも泣くことないだろ」
「えっ、だって……せっかく、人間になって、君と話せたのに」
俺が悪いのかこれは。了承しなかった俺のせいになるのか。教室で告られなくてよかったー。絶対に委員長とかが「ほらー。五木さん泣いちゃったじゃーん」みたいな展開に持って行くにきまってる。
その前に、五木さんに告られたってことが知れたらクラス中の男子から集団リンチを食らいそうだけど。
「それは……そうだけどさ」
「もういい。このまま虫になって死んじゃうから」
「既にあなたは虫なんじゃないんですかね」
「ひどい! 純粋な乙女の心を汚すだなんて!」
「乙女かどうかは知りませんが」
「ふんだ! そんなことを言う子だと思わなかった」
頬を膨らませながらそっぼを向く五木さん。美人は得だな。怒った顔ですら可愛いんだからさ。
「あの……五木さん」
プイッとしたまま顔をこっちに向けてくれない。完全なる対話拒否だ。もういいや。めんどくさい。
「わかったよ」
「え?」
ピタリと泣き止んだかのように顔を上げる五木さん。
女子の嘘泣きを見分けることなんて俺にはできない。
「付き合えばいいんでしょ」
「やったー!」
両手を上げてバンザイしながら飛び跳ねている。もはや並大抵の人間じゃあ飛べなさそうな高さだ。ゴキブリの身体能力を持ったまま人間になってるのか?
「じゃ、じゃあ、明日のお昼作ってきてあげるね!」
「え?」
「だって、君のか、彼女になったんだもん。お昼を作ってあげるのがいい彼女なんでしょ?」
「そう……なの?」
「え? 違うの?」
どうだろう。五人も彼女がいる奴がいるけど、わざわざ昼食を作ってくれるのは誰もいないな。案外作る方が絶滅希少種なんじゃないのか? ていうかそもそも俺、昼はいつも購買でいいんだけど。俺が通っている高校はなぜか購買のバリュエーションが充実している。丼類・麺類・定食を始め、パンにデザートなどといった感じだ。完全に資金の使い道を間違ってる気がする。
「いや、ありがたいんだけど、気持ちだけで――」
「じゃあまた明日ねー!」
ブンブンと手を振ってドアの向こうに消えてしまった。
どうやら俺の話を聞いてないらしい。間違いないな。都合のいい耳をお持ちのようで。異性からの昼食。本来なら嬉しがるところなんだが、相手は虫だぞ? あまり期待しないほうがいいのかもしれないと思いながら俺は帰ることにした。
五木さんと付き合って二年が過ぎた。校庭に植えられた桜の開花が間近に迫り、まもなく俺たちの高校生活も終了する。既にクラスメイトの受験戦争は終戦を迎えており、各々が選んだ進路に向かって進むだけだ。俺は働く気がないので社会人準備の合法なモラトリアムを手にするため、大学進学に進路を決定した。五木さんも将来のことについて考えていると二年の時に言っていたが、詳しいことは知らされていない。いや、教えてくれなかったと言った方が正しい。ちなみにイケメン野郎の伊藤は遊び過ぎた挙句、春から予備校通いに決まった。ざまあみろ。
「まあ、いいさ。予備校にも女子はたくさんいるだろうからな。俺は俺で楽しむとするぜ」なんて言っていた。勉強しにきている連中を口説くという正気の沙汰とは思えないが、あいつが言うと冗談に聞こえないのが恐ろしい。
進路が決定しているということもあり、クラスで行われる授業はもはや消化試合となっていた。禁じられていた夜更かしを日夜行い、代わりの睡眠を学校で行うのが最近のトレンドらしい。
だが俺のクラスに五木黒江の姿はない。
最後に見たのは一週間前。相変わらず元気すぎるテンションだったのは間違いない。なぜなら俺も告白されたあの日から一緒に登校してたからな。
「ん? 五木のことか? 本人は留学希望だって言ってたからその準備だと思うんだが、詳しいことを聞いてないのか?」
担任に聞いたところそのような返答が帰ってきた。
まったく全てが初耳の情報。留学する素振りなんて見せたことがないし、知らされてもいない。なんで俺に言ってくれなかったんだろうか。仮にも俺、彼氏なんだけどさ。
そのまま五木さんは卒業式の日も来なかった。いつも明るかった俺たちのクラスもどこか辛気臭い。急に姿を見せなくなったんだからな、無理もない。
式典も無事に終了し、別れを惜しむ生徒と教師たちの波をなんとか掻き分けながら教室へと向かう俺の視界に一つの黒点が映った。ただの黒点にしてはやけに大きい。そしてそれは人の形を保っている。スラリと伸びた手足。遠めから見ても間違いない。五木黒江だ。俺が告られた屋上に立っている。
「ちょっと、どいてください!」
無理やり人を掻き分ける。はたから見たら迷惑極まりないかもしれないが、そんなこと気にするか。屋上に着く頃には息も絶え絶えになっていた。
勢いよく開けたドアの音にビクッと黒点が震える。
「五木さん!」
俺は開けると同時に叫んだ。ゆっくり後ろを振り向く美人の顔はどこか寂しげな笑顔だった。
「わあっ、驚いた。久しぶりだね!」
「なんで、今日卒業式だったでしょ? みんな来るの待ってたんだよ?」
「あはは、ごめん。そうだよね。あたしも行きたかったんだけど」
「行けないの?」
「うん」
俺が尋ねると振り向いて外の景色を見下ろす五木さん。
「今からでも間に合うからさ。一緒に」
彼女の手を掴もうとした俺の手が空を切った。まるでそこに何もないかのように。
「五木……さん」
「掴めないでしょ? もう時間がないんだ」
「時間?」
ふと思い出す。あの日、五木さんは知り合いに特殊な術をかけてもらったと言っていた。もしかしたら有効期限が来てしまったのかもしれない。
「それって、かけてもらった術の?」
「ううん。あたしの寿命の時間」
言われてみればそうだ。五木さんは人の形をしているものの、人ではない。中身はゴキブリであり昆虫である。となれば寿命は長くてもせいぜい二年。あの日既に成虫だったのなら寿命が今すぐにきたとしても不思議ではない。
「最後まで気付かれずに
「あたしね……楽しかったよ」
「……」
「ずっと考えてたんだ。人間って楽しそうだなって。実際になってみたらその通りだった。君も楽しかった?」
「それは……」
楽しかったに決まってる。五木さんと出会わなければ普通のつまらない三年間を過ごしていたに違いない。告られた日も嬉しかったし、一緒に行事を楽しんだのも覚えている。
「あたしと君はずっと一緒に居られないんだ。ごめんね」
「……謝らないでよ」
何も悪くない。彼女は何も悪くないのは知っている。なのに、どうしてこんなにも悔しいのだろうか。どうしてこんなにも声が震えるのだろうか。どうして目から溢れる涙が止まらないのか。俺はもう彼女の顔を見ることができなかった。おそらく見ただけで涙が溢れると思ったから。
「君と会って色々あった二年間。とっても楽しかったんだ。これ以上ないくらい幸せだったよ」
「俺だって……楽しかったよ」
「ありがとう。君に助けられて本当によかった」
顔を上げると薄れていく五木さんの姿が視界に映った。その姿はもはや半透明。溢れた涙を拭った。
「俺の方こそ。君を助けることができてよかったよ」
「もう行かなきゃ。じゃあね」
やがて空気と同化するかのように、吸い込まれるように消えてしまった。
最後まで彼女は彼女のままだった。本当に幸せだったのだろうか。いや、救われたのは俺の方だったに違いない。
「ありがとう」
自然と口から出た。これから俺はまた何度もあの害虫と出会うのだろう。けど、出来る限り助けようと思う。だってあいつらにも命があって、人生があって、俺みたいな出会いがあるのかもしれないのだから。
短編です。読んでいただいた方、ありがとうございます。