三八二年 祈の二十五日
「…いいかげん暇なんだけど……」
食べ終わったパイの皿とカップをククルに返し、カウンター席で頬杖をついてテオがぼやく。
丘の上食堂が再開してから今まで、宿と食堂との両方で働いてきたテオ。昨日訓練の一行が帰ってから今日の昼まで休むよう言われていた。
この際ゆっくり休めばいいのに、ククルの予想通り結局今朝も寝坊するでもなくいつも通り店に来た。
「まだ手伝っちゃ駄目よ?」
笑いながらククルが告げる。
昼まではまだ時間がある。昨夜は宿泊客がいなかったので朝食を出さずに済んだ為、仕込みも前倒しで進んでいる。本当は昼といわず、夕方まで休んでもらっても大丈夫なのだが。
どうにも手持ち無沙汰らしく、昨日も今朝も、テオはこうして店に来ていた。
「…試作とかも駄目?」
「駄目。休んでて」
「もう休むの飽きた…」
へちゃりとカウンターに突っ伏すテオ。
「ククルだって、この状況になったら絶対お菓子作るって言い出すって。で、俺が休んでないって言っても仕事じゃないからって言い張るんだって」
自分のことながら、確かにそうだろうなと思うのだが。ここで肯定するとテオに動く理由を与えてしまう。
「案外お昼まで寝てるかもしれないわよ?」
「絶っっ対、ない!」
どきっぱりと言い切って。
「むしろこっちが起きる前からお菓子焼いてるに決まってる…」
ぶつくさとまだ続けるテオに、ククルは苦笑する。
自分への理解度が高すぎる幼馴染は、ありがたくもあるのだが。
「してもないことで怒らないでよ…」
もう少し鈍感でもいいかなと、今は思った。
カウンターの真ん中の席。
ここからククルを眺めるのはどれくらい振りになるだろうか。
テーブルの上で組んだ腕に顎を乗せて、テオは仕込みをするククルを見ていた。
(…やっぱりまだククルのほうが早いよな)
片手間の五年と、食堂を手伝いだしてからの三月。そんな程度ではまだまだククルに追いつけないようだ。
(それに、お菓子だって…)
普段も仕込みをしているだけかと思っていたら、いつの間にか菓子が焼き上がっている。自分はずっと食堂にいるわけではないが、いつの間に作っているのだろうと気になっていた。
今回こうしてずっと食堂にいられるうちにわかるかと思っていたのだが、結局わからないまま既に菓子を出されている。
蜜煮のりんごを詰めて焼いたパイ。わざわざ自分の好きなものを作ってくれたのか。それとも偶然か。結局聞けなかった。
視線に気付いたククルが見返してくる。どうしたのかと問うように笑みを向けられ、テオは考えていたこととは別のことを尋ねる。
「ククルは疲れてない?」
「私はここにいるだけだもの。平気よ」
「でもククルだって父さんたちだってずっと働いてるのに、俺だけ休みって…」
「テオが一番大変だからでしょ?」
そう言われるが、一番大変なのはきっと自分ではないとテオは思っていた。
「…俺よりククルのほうが大変だろ」
「私は手が空いたら休めるけど、テオはここで手が空いたら宿に行って、宿で手が空いたらここに来るでしょ? 休んでないじゃない」
「そんなこと―――」
ないと言いかけて、心当たりしかないことに気付く。
黙り込んだテオにククルが仕方なさそうに苦笑した。
「ね」
テオは返事をしないまま、うつむいて顔をうずめた。
すねてしまったらしいテオに少し笑って、ククルは仕込みを続ける。
起きる前から菓子を焼くだろうと言われ、どきりとした。
今日は朝に時間があったのもあるが、実は少し早く起きてパイの準備をしていたのだ。
疲れているテオに好物を食べてもらえるようにと思ったのだが、気付かれればそれを理由に休みを切り上げたに違いない。もう少しで逆効果になるところだった。
本当に、自分の行動をよく把握してくれている。一緒に店に立っても初めから違和感がなかったのは、きっとそんなテオが相手だからだろう。
感謝の気持ちと、だからこそ無理をさせている申し訳なさと。そんな思いでテオを見ると、腕に突っ伏したまま目を閉じていた。
声をかけようとして、僅かな寝息に気付いてやめる。本人は大丈夫と言い張るが、やはり疲れているのだろう。
カウンターから出て、二階からショールを持ってくる。起こさないように気を付けて肩に掛けた。
戻ろうとして、ククルはふと立ち止まる。
テオが寝ているところなど幼い頃に見たきりだ。つい出来心で、横からじっくり眺めてみる。
目を閉じて眠る顔は、小さな寝息と相まっていつもより少し幼く見えた。その目元にかかる髪を手を伸ばして払うが、さらりとまた落ちてくる。
ずっと自分を支え、助けてくれている幼馴染。
じっと見つめていたククルが、瞳を伏せてうなだれる。
「…ごめんね、テオ」
そんな彼にひとつだけ、どうしても言えないことができた。
忘れると言ったその内容にも。
言えないということにも。
そのどちらにも、共に胸を痛めながら―――。




