三八二年 祈の二十二日 ③
夕方、訓練生より一足早くテオが店に戻ってきた。
「ごめんククル」
慌てて駆け込むテオの姿に大丈夫だとククルは笑う。いつも通りのその笑みに、テオはそっと安堵の息を洩らした。
訓練の途中に留守を頼んだウィルバートがやってきたので少々焦ったが、どうやら何もなかったらしい。
遅れてきたロイヴェインが関わっているのだろうが、ウィルバートがククルに危険が及ぶような判断をすることはないだろうと思い、結局何も聞かずにいた。
(まぁ、今日はククルもそれどころじゃないだろうけど)
店内に満ちる甘い香り。午後も変わらず明日の菓子を張り切って作っていたのだろう。
仕事に戻るついでに作業部屋を覗き、居並ぶ菓子に思わず笑う。
「今のうちにテオも食べる?」
ごまかすように聞いてくるククルにさらに笑い、じゃあひとつ、とテオは答えた。
甘い香りの店内に、どこかソワソワしながら訓練生たちが夕食を取る。
「テオって前の訓練受けてたってホント?」
「午前中に少しだけ。内容も軽めにしてもらってた」
リックの問いに、カウンター内からテオが返す。
「テオはさぁ、最初からゼクスさんたちの動き見えてたもんな。俺たち全然駄目で怒られてたのに」
遠い目をしてディアレスが呟く。
「ギルド員より動ける宿屋の息子って何なんだよって、よく言ってた」
「あ〜…」
今日初めてテオの動きを見た五人が納得の呻きを洩らす。
テオは苦笑するしかなかった。ごくごく身近に英雄とタメを張れそうな宿屋の店主がいることは、とりあえず黙っておこうと思う。
「それを言うならロイヴェインさんも、だよな」
「あの人ギルド員じゃないのはホントもったいなすぎるよ…」
「今日の手合わせ、あれ最初の避けられてたら違ってたと思うんだけどな」
「それにしてもロイヴェインさん、ジェットさんから何もらうつもりだったんだろ?」
口々に言い合うその中で耳にした声に、テオは引っかかりを覚えた。
「何の話?」
「いや、最初ロイヴェインさん渋ってて。でも受ける前に勝ったらもらっていいかって言ってたんだ。ジェットさんにはやるとは言ってないって言われてたけど」
何のことかと怪訝そうな訓練生。
(…ジェット……)
既視感のある会話に心中溜息をつくテオ。
ちらりと見やった当の本人は、全く気付いていないようだった。
今日は六人で夕食後の追加訓練を受け、今から夕食のロイヴェインと共に無事許可の出た夜食を食べにやってきた。
「匂いだけでも美味しいってわかる…」
待つ間にそんなことを呟かれ、ククルは苦笑する。
明日の為にと張り切りすぎた。訓練生たちにはおあずけ状態で申し訳ない。
そんなククルの様子に、ロイヴェインが小さく手招きする。
「じぃちゃんたち、食べてるんだよね?」
小声で聞かれ、頷くと。
「じゃあ夜食と出しても平気だよ」
にやりと笑ってそう言われる。
「さすがに自分たちが食べてるのに駄目とか言えないし。夜食のついででいいと思うよ?」
「そうですか?」
それなら、と顔を上げると、期待に満ちた訓練生たちの視線が向けられている。わかりやすい彼らの反応に微笑んで、ククルは準備に取りかかった。
ロイヴェインが追加の訓練と夕食に出ている間に、ジェットはゼクスの部屋を訪れていた。
「今日は本当にすみません」
昼間のことを謝るジェットにゼクスは首を振った。
「謝らんでいい。あやつに避ける気がなかったのだから仕方ない」
浮かぶ苦笑は何に対してのものなのだろうか、ゼクスにしては珍しく、少し困惑気味の表情を見せる。
「あやつにも色々あってな。もう少し落ち着いてくれるといいんだが…」
語られない内容について聞く気はないが、自暴自棄とも取れるロイヴェインの行動の理由をゼクスは知っているのだろう。
息を吐き、ジェットはゼクスを見据えて。
「…何でギルド員でもないロイをあんなに鍛えたんだ?」
ずっと抱えていた疑問をゼクスに投げかけた。
今回はロイヴェインがまともに戦うつもりがなかったのであの結果に終わったが、もし本気でやればどちらが勝つかわからない。自分やダリューンと五分に渡り合えるだけの強さが、間違いなくロイヴェインにはあるのだ。
自分を英雄として立てるように鍛えてくれたゼクス。その彼が鍛えたのだ、ロイヴェインの強さ自体は納得ができる。
しかし―――。
「多少ならわかる。でもギルド員でもないロイをあんなに鍛える必要はないはずだ」
鍛えた理由が、わからない。
だからこそ、疑念が浮かんだ。
「イルヴィナの……俺の為、か?」
低く問うジェットの声に、ゼクスは答えなかった。
「答えてくれ、ゼクスさん」
苛立ちを顔に出し、言葉を重ねるジェット。
イルヴィナでのことはロイヴェインには何の関係もないのだ。それなのに、どれ程の鍛錬を彼に強い、どれ程の無理をさせてきたのか。
収まらない怒りに拳を握りしめる。
「あれは俺たちの悲願だろ? 生まれてもなかったロイに背負わすものじゃないはずだ!」
受けるしかなかった自分と、その必要などなかったロイヴェインと。
課された内容は同じでも、意味が違う。
「答えろよっ! ゼクスさんっっ!!」
否定を求めるジェットの叫びに、それでもゼクスは答えなかった。
ただ静かに自分を見上げるその眼に、ジェットが再び口を開きかけたそのとき。
「外まで聞こえてるよ」
扉が開き、呆れ顔のロイヴェインがそう告げた。
「何熱くなってんの? ダンが心配して出てきてるよ?」
開けっ放しの扉の向こうに見えるダリューンの姿に、ジェットは気まずそうに視線を逸らす。
頷いたダリューンに、ロイヴェインは扉を閉めた。
睨むようにジェットを見据え、わざとらしく溜息をつく。
「俺のことなら余計なお世話だよ」
何の話をしていたかも聞かれていたらしい。
「十三までは基礎しか習ってない。じぃちゃんはちゃんと選択の年に話をして任せてくれた。選んだのは俺自身だ」
言い切るその表情には後悔も迷いもなく。
ジェットとゼクスを一瞥ずつしてから、ロイヴェインは鼻で笑う。
「そもそも顔も見たことない英雄さんの為にするわけないだろって」
そんなにお人好しじゃないよ、と軽くつけ足す。
そんな彼と無言を貫くゼクスを見、ジェットは大きく息を吐いた。
もちろん真偽はわからない。しかし、この家族の間ではそれでいいということなのだろう。そしてそこにこれ以上、他人の自分が踏み込むことはできない。
もう一度ずつ顔を見て、ジェットは表情を緩め、頭を下げた。
「怒鳴ってすまなかった」
「ジェットもあんな顔するんだね」
騒がせたことを再度詫び、部屋を出ていったジェット。
肩をすくめて呟いて、ロイヴェインはゼクスを見る。
「俺たちは自分の意志で選んだんだ。…ジェットの為じゃなく、じぃちゃんの力になりたかったから」
祖父がずっとそれを気に病んでいることをロイヴェインは知っていた。だからこそ強い言葉でジェットを否定し、自分の意志だと強調したのだ。
「俺たちにとってじぃちゃんは憧れなんだから。謝られたくないからね」
「…わかっとるよ」
孫の言葉に頷いて、ゼクスがようやく口を開いた。




