三八二年 祈の二十二日 ②
午後の訓練開始に合わせ、ウィルバートは食堂へと向かう。
自分が訓練に参加するとククルがひとりになるからと、昼前にテオに頼まれた。しなければならない話もあるので、昼食自体を午後にずらすことにしたのだ。
「お疲れ様です、ウィル」
微笑むククルの様子に内心安堵しながら礼を返す。
「遅くなってすみません。先に少し話をしても構いませんか?」
手を止めようとしたククルに作業しながらでいいと伝え、カウンター席の真ん中に座った。
「ゼクスさんから、もし夜食を頼まれたら出していいとのことでした。費用は俺に教えてください」
ふたりなので口調を戻すか考えたが、仕事の話をする分には自分もこのほうが話しやすい。
「あと、明日お茶の時間を取ると聞いたんですけど、その分もお願いしますね」
「わかりました」
すぐに頷いたククルに、ウィルバートはゼクスに聞けずにいたお茶の話を尋ねた。ククルらしいその話に納得する。
「多めに焼いてますので、よければ食べてくださいね」
今回はウィルバートも訓練生たちと同じく、菓子は最初に食べたきりだ。
「嬉しいけど、ちょっと気が引けるかな…」
思わず素で呟くウィルバート。くすりと笑ってククルが続ける。
「ゼクスさんたちも食べていますし、あとでロイにも出しますので」
「あとって…」
「少し休んでいるそうなので、昼食がまだなんです。食べられそうなら昼食と、あとはお茶を出してゆっくりさせてほしいとエト兄さんから頼まれてて」
ジェットがわざわざ頼んだのなら、何か理由があるのだろうとは思ったが。
それでも少し腑に落ちず、険しい顔付きになる。
「ウィル?」
「ごめん。ちょっと考え事してた」
食事を出しながらのククルの声にそう返し、ウィルバートはいただきますと告げた。
食事を終えると、お茶とずっしりとしたチョコレートケーキを出される。
「ウィルにもらったレシピですよ」
そう言って微笑むククル。
こんなふうにゆっくりとここに座るのも久し振りだった。
訓練の承諾を取りに来たあのときは、ロイヴェインと何もなかったのかと気になってあまり落ち着けなかった。
もちろん今でも気にはなる。しかしふたりきりの穏やかなこの時間に、そんなことに気を取られているのはもったいないと思った。
(…初めはこうして見てるだけだったな)
ククルが自分の気持ちに気付いていないからこそ、眺めていてもどうしたのかと問われるだけだった。
しかし今は。
じっと見ていると、気付いたククルが少し恥じらって笑う。
どうして自分が見ているのかを知っているククルは、もうそんなことを聞いてはこない。
自分の眼差しの意味を知っていても拒絶せずいてくれる。
それが嬉しくて。
仕事中だと言い聞かせ、手を伸ばしたくなるのを堪える。
このところ波立ったままだった己の感情が、ようやくどうにか落ち着いた。
むくりとベッドから起き上がる。
見回すまでもない無人の部屋で、ロイヴェインは溜息をついた。
ジェットに部屋に連れ帰られ、祖父には馬鹿な真似をするなと怒られて。
少し休もうと横になり、そのまま眠ってしまったようだ。
腹に手を当て、押さえてみる。
腹部の痛みはもう消えた。
この後悔も同じように消えてくれたらと、切に思う。
―――気は遣っても、もう少し普通でいられると思っていた。
ククルに優しくされるとその分、自分がしたことが浮き彫りにされて。
そのくせ懲りずに触れたいと願う、浅ましい自分がいて―――。
両手で顔を覆い、うしろ向きにベッドに倒れ込む。
(そんなこと、もう、許されるわけないだろ…)
自分がどれだけ願っても。
自分がどれだけ欲しても。
もう自分の手が届くことはないのだから。
結局またしばらく思い悩み、出ない答えに溜息をついて。
このままいても沈むだけだとようやく気付き、ロイヴェインは部屋を出た。
食堂にウィルバートがいることに気付いて迷ったが、ククルとふたりになるよりいいかと思い直す。
「ロイ! 大丈夫ですか?」
入るなり心配そうに尋ねてくるククル。心配してもらえて嬉しい反面、自業自得の原因に罪悪感が増す。
「うん、大丈夫。遅くなってごめんね」
笑って取り繕うのにも慣れてきたのか、意識せずとも笑みが浮かんだ。
「お昼、今からでもいい?」
「もちろんですよ。座ってください」
どこに座るべきか考えたその一瞬に、カウンター席のウィルバートが立ち上がった。
「ごちそうさまでした、ククル。俺も訓練の様子を見てきます」
そう言って振り返るウィルバート。
まっすぐに自分を見る紺の瞳を、今はしっかり見返せなかった。
「俺がいると気が休まらないでしょうから。…仕事中なんですから、余計なことはしませんよね?」
「…しないよ」
本当は、できない、なのだが。
ならいいですと頷いて、ウィルバートは店を出ていった。
無言でそれを見送ってから、ロイヴェインはウィルバートが座っていた席の左隣に座る。
「エト兄さんから食後にお茶を出すように言われています。お菓子も作ったので、よければゆっくり食べていってくださいね」
座るのを待ってそう告げたククルに苦笑を見せ、ジェットにどこまで聞いてるの、と呟く。
聞こえなかったようで、ククルは何も答えず準備を始めた。
作業音だけが響く店内、ロイヴェインも黙ったままククルを見ていた。
自分とふたりだというのに穏やかな表情で食事を作るその姿に、胸中に湧き上がる甘い感情。
沈む心を引き上げるそれは、決して己を満たすものではないけれど。
「足りなければ言ってくださいね」
そう言って置かれた食事は、鶏と野菜を煮込んだスープ。訓練生には物足りないだろうそれを見て、ロイヴェインは顔を上げる。
「…もしかして、俺用に作ってくれた?」
「疲れていると聞いたので、あっさりしたもののほうがいいかと。足りなければ何でも作りますよ」
食堂ですから、と笑うククル。
呆然と見上げ、それから再び視線を落とす。
慣れたはずの笑顔も何故だか出ず。
「…ありがと。嬉しい」
代わりに心からの言葉が小さく洩れた。
温かいスープを食べながら、ロイヴェインは己の胸中に目を向ける。
罪悪感も後悔も消えたわけではない。
それでも今胸を占めるのは、彼女を好きだという気持ちだけで。
(…いいのかな)
自分は身を切られながら進むべきなのだと、どこかそう思っていた。
しかし今は、ただ温かな幸せを感じているだけで。
この感情に身を置いてもいいのだろうか。幸福感を感じながら、彼女を好きでいてもいいのだろうか。
視線を上げてククルを見ても、もちろん答えはないのだが。
邪魔をしないようにだろう、時折様子を窺うだけで話しかけてはこない。しかしたまに視線が合うと、瞳を細めて微笑んでくれる。
先程出なかった笑みが、自然に浮かんだ。
食事を終えて、お茶を出されて。
「ちょっと待っててくださいね」
そう断って作業部屋に入ったククルは皿を三枚載せたトレイを持って戻ってきた。
「チーズタルトとクリームタルトは焼けたばかりなので、今なら中も柔らかいと思います。あとチョコレートケーキが…」
「ククルってば、お茶は明日だよね? どれだけ作ってるの?」
驚いた声に、きょとんと見返し。
「これは明日でもちゃんと美味しいので」
「…明日にもまた作るんだ?」
「もちろん当日のほうがいいものは明日作りますよ」
さも当然とばかりに答えるククルをまじまじと眺め、ロイヴェインは吹き出した。
気合いを入れて作ると言った言葉通り、本当に色々作るつもりらしい。
「何ていうか、ククルらしいね」
「…そう、ですか…?」
笑いながらの声に首を傾げながら、ククルは手元にトレイを置いた。
「食べられそうなら、お好きなものをどうぞ」
「じゃあチーズタルトで」
わかりました、とチーズタルトの皿を持ち上げるククル。受け取ろうと伸ばした指が、皿の下で触れた。
「ごめんっ」
慌てて引っ込め謝るロイヴェイン。過剰なその反応に目を見開いたククルが、ふっと息を吐く。
ことりとロイヴェインの前に皿を置き、ククルはまっすぐ見つめた。
「ロイ」
応えず見返すロイヴェインに表情を緩める。
「手を出してください」
「え?」
「手を、出してください」
同じことをもう一度繰り返され、ロイヴェインは右手を胸の高さまで持ち上げる。
にっこり微笑み、ククルは両手でその手を握った。
己の右手を包む温かな感触に、驚きのあまり動き止めるロイヴェイン。自分に何が起きたのか、状況を把握するのにしばらくかかった。
自分を見つめる紫の瞳が、安心させるように細められる。
「もう大丈夫ですから。ロイのこと、怖がったりしませんから」
手を引く前にそう言い切られ、またもや動けなくなる。
「だから普通にしてください」
ぎゅっと握られた自分の右手とククルの顔とを交互に見て、握り返すことさえできないまま、ロイヴェインはただうろたえる。
いくら願っても、もう触れられることなどないと思っていたのに。
どうしよう。どうしたら。そんな感情と共に熱の上がる頬。
「ク、ククル…」
「からかわれるのは困りますけどね」
そうつけ足し、ククルは手を放す。
「せっかくなので、冷めないうちにどうぞ」
微笑み、フォークを差し出され。
思わず両手で受け取ってから、ロイヴェインは吐息を洩らした。
訓練に戻るからと店を出て、裏へと回るその途中で。
立ち止まり、うなだれるロイヴェイン。
(いいのかな)
右手を握りしめる。
きっと自分に可能性はない。それは変わらないけれど。
(…ククルを好きで幸せだって。思ってもいいのかな)
もう少し普通に。ただ好きだと思うだけでも。
心中の問いに応えはない。
深く息を吐き、顔を上げる。
翳りの残る翡翠の瞳。
それでも今は、前を見ていた。




