三八二年 雨の二十三日
テオに教わりながら、シチューの仕込みを始める。
今日の仕込み分が店に出せるのはあさってになる。それに合わせて少しずつ町の住人たちにも来てもらえるようにしようと思っていた。
テオと一緒に仕入表と見比べたのだが、チョコレート以外の材料はすべて合っているようだった。
テオが昼食にシチューばかり食べていたのはそういう理由だったのかと、今更ながら納得した。そして同時に、ひとりで五年もの間挑戦し続けた彼に頭が下がる思いであった。
しかし、また新たな疑問が浮かぶ。
(…どうしてテオはそこまで料理を覚えたかったのかな?)
店に手伝いに来てくれるようになってから知ったのだが、アレックもかなり料理が上手い。しかしそれをテオが知らぬわけがないだろう。
内心首を傾げるが、それで答えが出るはずもなく。
「ねぇテオ?」
「何?」
黙々と芋の皮を剝いていたテオが、顔も上げずに聞き返す。
「どうしてアレックさんじゃなくて、父さんに料理を教わりたかったの?」
びくりと肩が跳ね、手が止まった。
「テオ?」
「…クライヴさんの料理が好きだから、だよ」
ぼそりとそう答え、テオはまた手を動かし始める。
ククルは怪訝そうに見ていたが、それ以上は聞かずに仕込みを再開した。
夜の営業を終え、片付けを始める。
テオは成人しているとはいえ、酒を出すのにこどもだけではと、夜はいつも来てくれるアレックも既に帰った。
閉店作業が済めば、テオも宿に帰る。
今日一日降っていた雨はやんでいた。ククルが入口から覗いていると、終わった、と、うしろから声をかけられる。
「お疲れ様」
どうぞ、とテオを通してから、自分も外に出る。
いつも通りの町の明かりが目の前にある。変わらぬ光景に表情が和らいだ。
―――両親が亡くなって七日が経った。
たった七日のはずなのに、本当に色々あったように思える。そして間違いなく、その七日を傍で支えてくれたのは。
「テオ」
呼ばれて振り返る幼馴染。思えば今まで知らなかった彼の姿もいくつか見た。
そう。今まで隠してきたのだろうそれを晒してまで、彼は自分を―――店を助けてくれたのだ。
きょとんとして自分を見る彼の姿はどこかあどけなく、とてもそんなふうには見えないが。
自然と浮かぶ笑み。
まっすぐテオを見つめ、ククルは心から告げた。
「ありがとう。テオがいてくれたから、私も店も今みたいにやれてる。…本当に、いくらお礼を言っても足りないくらい」
「礼なんかいいよ。だってそんなの―――」
ふっと笑うテオに、先程までのあどけなさはなかった。
見返す瞳に真剣味が増す。
「好きだから、当然なんだよ」
―――七日前、店でひとり泣くククルに声すらかけられなかった。
何もできなかったことが情けなくて、悔しくて。おそらく自分はそこで覚悟を決めたのだと、テオは思っていた。
店も再開し、シチューも完成した。アレックの口から、クライヴからの合格ももらえた。
ククルに話した約束の内容は半分だけだった。十三歳の自分がクライヴに頼んだのは『ククルとずっと一緒にいられるように、店の料理を教えてほしい』だったのだから。
そんな自分に礼などいらない。
今は笑って、楽しそうに店に立ってくれればいいと、そう思っていたのに。
溢れた本音に気付いたときには遅かった。
自分を見返すククルの頬が赤くなっていく。
「…店が?」
「ばか、何でだよ」
精一杯だろう小さな呟きにそう返し、テオは息をつく。
「今はまだ聞き流してくれていいよ。それどころじゃないのは俺だって同じなんだし」
「…じゃあどうして…」
「わかってたけど、止まらなかった」
ごめんと謝ってから、柔和な笑みを浮かべる。
「俺はこれからもずっとククルが好きだから。いつまでも、待つよ」
立ち尽くすククルをしばらく見つめてから、何かを振り払うようにかぶりを振ったテオは。
少し幼い、少年らしい笑みを浮かべた。
「じゃ、今からいつも通りで。俺、帰るから。まずは表、戸締まりして」
「えっ、ちょっとテオ」
ほらほら、と押し戻されて店内に入る。
外から回ると言うテオを残して鍵を閉め、ククルは裏口へ向かう。たかが入口から裏口までの距離、考えようにも時間がなかった。
裏口を開けると既にテオが前まで来ていた。こうして二箇所の施錠を確認するのがテオの最後の仕事だ。
「じゃあククル。おやすみ」
微笑むテオはいつも通りの顔で。
「おやすみなさい」
なのでククルも自然といつもの言葉が出てきた。
ようやく和らいだその表情に、テオの笑みにも安堵が混ざるが、扉を閉めたククルはそれに気付かなかった。
内側から鍵をかけると、扉前から足音が去っていく。
ようやく考える時間を得たククルだが、だからといってどうすればいいかはわからない。
聞き流していいと言われたものの、それで忘れられるはずもなく。
(…テオが、私を?)
自分の大切で大好きな幼馴染。しかしそれ以上なのかと問われると、正直わからない。
速くなる鼓動に胸を押さえる。
今からいつも通り。自分を気遣ってくれたのであろうテオの申し出に。
今はまだ甘えさせてもらおうと、ククルは思った。
宿での仕事も終え、自室に戻ったテオ。後ろ手で扉を閉め、そのままもたれかかる。
(俺…言った…んだよな)
顔が熱い。鼓動が速い。今更ながら、どうしていいかわからなくなる。
(どうしよう、俺…)
明日から普通にできるだろうかと、くしゃくしゃと自分の髪をかき回して。
息をつき、目を閉じる。
ずっとずっと。胸に抱いていた想い。いつかはと思ってはいたが、まさかこんなふうに伝えることになるとは思わなかった。
望む形ではないけれど、こうして一緒に店に立って―――。
そこまで考え、我に返る。
ククルの今の状況。どうして自分が店に立つようになったのか。
―――そう。彼女は両親を亡くしたばかりなのだ。
(…バカだ、俺…)
高揚していた気持ちが一気に冷えた。
クライヴからの合格に浮かれていた。ようやく普段通りになってきていた彼女に、自分は、自分の衝動のままに告白して。
困らせることになると、わかっているのに。
先程までの幸福感に似た胸の高鳴りは影を潜め、テオはそのままズルズルと座り込む。
ククルの幸せを一番に考えるべきなのに。
「…ホント、駄目だな…」
こんな調子では、またすぐに彼女を困らせてしまう。
再度己に言い聞かせ、テオはうなだれ、溜息をついた。