三八二年 祈の五日
昼下がり。ひとり仕込みをするククルの下に、ロイヴェインが訪れた。
「…ロイさん?」
目を隠していた前髪も、結べる長さがあったうしろ髪も、すっかり短くなっていた。
翡翠の瞳だけはそのままに、ロイヴェインは扉を開けただけで立ち止まる。
「入っていい?」
静かな声でそう尋ねられ、ククルは少しの間のあとどうぞと返した。
ありがと、と呟いて、ロイヴェインは店の真ん中まで歩を進める。カウンター内のククルには手を伸ばしても届かない距離だ。
無言で見るククルを見返してから、ロイヴェインは勢いよく頭を下げる。
「こないだはごめん。謝って済むことじゃないのはわかってる。言い訳もしない。許さなくていいから、せめて謝るのだけはさせてほしい」
一気にそれだけ言い切って、さらに頭を深く垂れる。
「ひどいことして、本当にごめん」
その声に含まれる悔恨の響きに、ククルは瞳を伏せた。
原因も理由もわからないままでは、許すも許さないもないのだが。
しかし真剣なロイヴェインの謝罪は、きちんと受け止めるべきかと思う。
「…とりあえず、頭を上げてください」
かけられた声に、ロイヴェインはゆっくり頭を上げた。
覚悟を決めたようにも見える翡翠の瞳を見返し、ククルは続ける。
「ロイさんが心から謝ってくれていることは伝わりました。…でも私には、どう答えればいいのかわかりません」
少しの安堵と諦めに近い納得と。一瞬浮かんだそれを即座に消し、ロイヴェインは頷く。
「…ありがとう。それでも十分すぎるよ」
囁くようにそう呟き、ロイヴェインは瞳を細めた。
「髪、切ったんですね」
続く沈黙を破るククルの問いに、そう、と頷くロイヴェイン。
「ヴェインの姿は念の為にってことだったんだけどね。イルヴィナのことも片付いたから、もういいだろうってじぃちゃんが」
まだ少しぎこちないが、いつものようにと言葉を紡ぐ。
「だからこれからは、どっちも俺」
装うのをやめたからといって、ヴェインが消えるわけでもない。
それはもう十二分に思い知ったのだから。
自嘲気味に笑ってから、そういえば、と呟く。
「これ、ククルに」
両手に乗るくらいの包みを鞄から取り出し、包んでいた布を取る。
濃い青で細かい装飾がされた、淡い青のガラスの水差し。
時間をかけて作った、渾身の作だ。
少し近付き、カウンターに置く。
「片付けるの、俺がやるからさ」
うしろに下がり、ロイヴェインはにっこり笑う。
「叩き割って! すっきりするから」
「何言ってるんですかっ?」
驚いた声がククルから上がる。
思わぬ強い反応に、きょとんとロイヴェインが見返した。
ククルにしても思わぬ反応だったのだろう。怪訝そうに見るロイヴェインに、困ったような視線を向ける。
「これ、ロイさんが作ったんですよね?」
「うん。ククルに割ってもらう為に作ったんだけど」
「割る前提で作らないでください…」
溜息と共にそう言われるが。
「少しは気が晴れるかなって」
そのくらいしかできそうにないから。
後半は呑み込み、ロイヴェインは苦笑した。
思いもよらない気晴らしを提案され、ククルは困惑気味にロイヴェインを見る。
自分の感覚でいうと、作った料理を食べずに捨てるようなものだ。とてもじゃないができそうにない。
どうやら本気で言っていたらしく、断られたロイヴェインも困ったように自分を見ていた。
しかし、妙な会話をしたおかげか、最初の緊張状態も少しほぐれた。若干緩んだ雰囲気に、今なら聞けるかとふと思う。
「…ロイさん。私、何か傷つけるようなことを言いましたか?」
ずっと引っかかっていたことを口にしたククルに。
ロイヴェインは一瞬驚愕の表情を見せたあと、視線を落として首を振る。
「俺が勝手に勘違いしてやっただけ。ククルは何も悪くないよ」
返ってきた返答には、自分への気遣いしかなく。
「…そう、ですか…」
言い訳はしないと言っていた。これ以上聞いても答えてくれそうにないと感じ、ククルはうつむくロイヴェインを見る。
彼の行いに対しての怒りはもちろんあった。
しかし無意識とはいえ自分が彼を追い詰めるようなことをしてしまったのも、おそらく事実なのだろう。そして根が優しい彼がそれを話すことは、きっとない。
自分も彼を傷つけるつもりはなかった。
そして彼も、自分を傷つけるつもりはなかったのなら。
その点での互いの罪の重さは同じではないのか。
そう、そして。
自分への怒りをあの形で表した彼に。
自分も彼への怒りを何らかの形で表して、それで終わりでいいのではないか。
カウンターに置かれたままの青い水差し。ガラス職人の彼ならではの思い付きだ。
食堂を営む自分ならば。
やり返すようで気は引けるが、ただ水に流すことはできそうにない己の心境。
狭量な自分が少し情けなかった。
黙り込んでしまったククルに、ロイヴェインは息をつき、顔を上げる。
「…顔も見たくないっていうなら、もう来ない。でも、もし…」
「ロイさん」
言葉を遮り、ククルが名を呼んだ。
びくりと身じろいだロイヴェインに、ククルはカウンター席の真ん中を示し。
「座ってください」
席を勧め、動き出す。
疑問符だらけの顔をしながらも、おずおずと席についたロイヴェイン。暫し後、その前にサンドイッチが一切れ出された。
ハムと野菜の、何の変哲もないサンドイッチ。じっとそれを見つめてから、今度はククルを見上げる。
「…ククル?」
「それを食べ切ってくれたら忘れることにします」
水と牛乳のグラスを出しながら、ククルが告げる。
「ロイさんも、忘れてください」
ククルとサンドイッチを見比べ、ロイヴェインは怪訝そうな顔のまま手に取った。
いただきます、と告げて半分程口に入れる。数度噛んだところで動きが止まった。
勢いよく水のグラスを手に取り、一気に飲み干す。
「かっっら」
涙目で呟き、ちらりとククルを見上げるロイヴェイン。
「辛いものが好きな人なら美味しい程度です。苦手なロイさんには、少し大変かもしれませんが」
そう言って、にっこり笑って水を注ぎ足す。
「私だって、怒っていたんですよ?」
少し冷えた空気に、ククルを見ていたロイヴェインが息をつく。
「…がんばります」
ぼそりと呟き、残る半分を口に入れた。




