三八二年 雨の二十二日
早朝に発つギャレットに合わせ、ククルは店を開けた。程なくしてテオとギャレットがやってくる。
「早くからすまないね」
「大丈夫ですよ、ハーバスさん。どうぞ」
ギャレットでいいと返されながらククルが席を勧めている間に、テオは身支度に行く。ギャレットひとりならククルだけでも対応できるが、どうしてもふたりでギャレットの感想を聞きたかった。
朝なので控えめにシチューをスープ皿に注いで、パンとサラダと共にトレイに載せる。何度もテオを見ては、励ますように頷かれる。
「お待たせしました」
かつてない緊張と共に、ククルはギャレットの前にトレイを置いた。
皿を見たギャレットが瞠目する。
そのままゆっくりとスプーンを手に取り、シチューを一口食べた。
バクバクと心臓がうるさい。
二口、三口と食べ進めたギャレットが、不意にスプーンを置いた。
「このシチューは?」
「俺が前から試作していたんですが、どうしても再現できなくて。ゆうべククルが一緒に考えてくれて…」
「私は最後の材料を一緒に探したくらいで、ほとんどテオが作ったんです」
互いに相手のおかげだと言い合う様子を微笑ましげに眺めるギャレットに。
「…どう、でしょうか?」
おずおずと、ククルが問う。
ククルとテオとを一瞥ずつして、ギャレットは頷いた。
「十数年振りに思い出のシチューを食べられて幸せだよ」
これ以上ないほめ言葉にへたり込みそうになりながら、ククルはテオと顔を見合わせ、微笑み合った。
「最初はクライヴのシチューも、塊肉と野菜の普通のシチューだったよ」
二杯目のシチューを食べ終えたギャレットが、お茶を飲みながらそう話す。
「少しずつ変わっていって、この店を開く頃には今の形になっていたかな」
「そうだったんですか…」
いつも作業を見ていたが、もしかするとほかの料理でも細々とした変更に気付いていなかったのかもしれない。
「クライヴのことだ。少しずつ改良していたんじゃないかな」
あいつはマメだからね、とギャレットは懐かしむように笑ってから。
「だから、君たちはあのシチューをクライヴのものと全く同じにしなくていいと思うよ。自分たちがいいと思うように変えていけばいい」
さて、と立ち上がる。
「そろそろ出ないと。また食べに来させてもらうよ」
忙しいだろうギャレットが、それでもまた来ると言ってくれたこと。
それが嬉しくて。
「はい、お待ちしてますね!」
満面の笑みで、ククルは返した。
ギャレットが帰り、日常が戻る。
寝不足のククルとテオを気遣い、アレックたちが交代で一時間程休ませてくれた。
その分閉店作業はククルがひとりで請負うことにし、店に来ていたテオとアレックは宿に戻る。
「よくやったな」
店を出たところでぽんと背中を叩かれ、振り返る。
「父さん」
少しいいか、と言うアレックに、テオは頷く。
星は見えないが、雨は降っていなかった。
町の明かりと店と宿。ククルの好きな風景だと、ふっと和む。
宿から少し離れた所で立ち止まったアレック。隣に並ぶともう一度背を叩かれた。
「クライヴの代わりに伝えることがある」
「えっ?」
思わぬ言葉に父を見る。
視線を合わせ、アレックは頷いた。
「お前の約束について、話していたことがある。本当ならクライヴから伝えられるべきなんだが…な」
少し寂しそうに息をついて、アレックは続けた。
「あのシチューはククルの協力がないと再現は難しいだろうと言っていた。実際お前も苦戦していたしな」
「…あんなの思いつかないって」
テオが小さくぼやく。仕入表を見せてもらわなければ確信できなかった。
「クライヴはお前のシチューが完璧でなくてもよかったらしい。テオなら必ずやれるだけやってから来るだろうから、と」
「クライヴさんが…」
じんわり胸が熱くなる。
ククルの言う通りだった。課題を出された時点で、既に自分はそれだけ認めてもらえていたのだ。
嬉しさと、それを直接聞けなかった悲しさと。ごちゃまぜの感情にテオはきゅっと強く口元を結ぶ。
そんな息子の様子を見下ろし、アレックは淡々と続けた。
「クライヴは結果を見たかったんじゃない。お前の努力を見たかったんだ」
「…俺の、努力?」
「ああ。お前の努力はクライヴもとっくに認めていた。合格だ、テオ」
じっとアレックを見上げる瞳が少し潤む。
「…本当に?」
「ああ。そしてこれは父さんから。お前が今回自分のシチューを出してこなければ、たとえこの先どんな成果を見せても、クライヴからの言葉は伝えないでいるつもりだった」
次第に強くなる声音に、思わず息を呑む。
「何故かは、わかるな?」
「父さんとの約束に反するから」
「わかってるならいい」
即答したテオに、アレックもようやく表情を緩める。
「父さんからも、合格だ。本当によくやった」
ぐりぐりと強めに頭を撫でられて。
今度こそ零れた涙を慌てて拭って、テオは笑う。
「ありがとう、父さん」
嬉しそうなテオを微笑ましそうに見ていたアレック。しかししばらくして何かに気付き、少し考える。
「…その、テオ。これはあくまで父さんたちふたりの、だからな? 本人がどうかは…」
「わかってるよ。俺は自分に自信を持ちたかっただけだし、これからもできることはしていくつもりだ」
珍しく言い淀んでの言葉に笑って、テオは言い切る。
「父さんとの約束だって守るよ」
後悔など微塵もないその瞳に。
アレックは少しだけ心配そうな顔をしたが、結局は何も言わずにもう一度頭を撫でた。