三八二年 実の四十三日 ②
店に戻り、ロイヴェインはククルの淹れたお茶を飲んでいた。
しばらく泣いたククルは、自ら涙を拭い、前を向いて。
振り返り、礼を言った。
結局胸を貸せずに済んでしまって残念な気持ちと、少し吹っ切れたような笑みが見られたことへの安堵と。
そんな気持ちでククルを見つめる。
(…よく我慢したよな、俺)
そう。本当は。
うしろから抱きしめたい衝動と。
無理矢理にでもこちらを向かせて抱きしめたい衝動と。
そのふたつに耐えていた。
目の前で泣いている女の子を黙って見ているなど、いつもの自分では絶対にないことだ。
でも今回は―――ククルには、そのほうがいいと感じた。
案の定そのおかげで少しは警戒を解いてくれたらしい。向けられる笑みから固さが取れたことが、何だか嬉しかった。
「本当に、ありがとうございました」
カウンター内、テオから引き継いだ仕込みをしながら、ククルが礼を言う。
「何だか少し、落ち着けた気がします」
「それならよかった」
明るいククルの声に頷く。
「忙しくしてたらいつの間にか薄れるけど、やっぱり向き合うことは大事だからね。だから余計なお世話しちゃった」
努めて軽くそう言って、ロイヴェインも笑った。
自分を気遣ってくれるロイヴェインに、ククルは心中再度礼を述べる。
ロイヴェインが言い出してくれなければ、事故現場に行こうなど思いもしなかった。
あの場所でああして泣けたことで、何だか少し靄が晴れたような、そんな気持ちになった。
お茶を飲むロイヴェインは、目が合うと少し安心したような笑みを見せる。
ヴェインと名乗った彼は、寡黙で気遣いに長け、何も言わずにいつの間にか助けてくれていた。
ロイと呼ぶように言われてからは、明るく奔放で、言葉と行動が同時に出るような勢いもあって。しかしそれでも、相手を気遣い、合わせてくれていることに変わりはなく。
からかいがすぎるのだけは困るのだが、それさえなければヴェインとの差など声と話し方くらいだろう。
最初はあれ程別人のようだと感じたというのに、今となってはどちらの姿でも違和感はない。
少しいたずらがすぎるが、周りをさり気なく気遣う優しい人だ。
自分を見返す笑顔に、笑みを返す。
「やっぱりロイさんはヴェインさんなんですね」
呟いた言葉に、返事はなかった。
(…今、何て言われた?)
ククルの言葉に、ロイヴェインは一瞬耳を疑う。
自身であるロイと、ギルド向けの姿であるヴェインとを、演じ分けられている自負があった。
ロイとしての知り合いにヴェインの姿で会ってもバレたことはない。逆もまた然り、今まで誰も気付かなかった。
―――そう。自分の気持ちを何ひとつ言えず、責める言葉しか出てこなかったあのとき。二度とあんな思いをしないように、自分は変わったはずだった。
自分の気持ちを口に出せるように。
それに見合う自分になれるように。
自分は変わったはずなのだ。
用心の為ギルド関係のときには雰囲気を変えるよう言われて。ヴェインとして、今の自分とは真逆の、あの頃の自分を演じていたはずなのに。
(…やっぱりって…それじゃあ俺は―――)
ククルに悪気はない。わかっている。
わかっては、いるけれど。
(何も、変われてなかったってことになるじゃないか…)
今までの自分を否定されたように感じ、狼狽が怒りに変わる。
チリチリと胸が痛い。
これ以上は、聞きたくなかった。
―――だから、黙らせる。
「ククル」
動揺を悟られないよう、意識して声を作る。
「ちょっとこっち、来てくれる?」
どうしたのかと、カウンターから出てきたククル。立ち上がったロイヴェインを見上げ、少し怪訝そうな瞳を向ける。
何か言おうとしたククルの左手首を、唐突にロイヴェインが掴んで引いた。
ククルが疑問の声を上げるよりも早く、その唇を己のそれで塞ぐ。
「―――っ?」
うしろに引こうとするククルの頭を反対の手で押さえ込み、逃げる身体を放した左手ごと腰に手を回して引き寄せた。
互いの身体の間にあるククルの右手が精一杯の拒絶を示す。
しかしどんなに抗おうと、力で敵うはずもなく。
おそらく息も止めたままなのだろう、次第に弱くなる抵抗。
だが、手を緩めるつもりはない。
(俺のことなんて、大して知りもしないくせにっ)
心中の叫びを唇に込める。
(俺がっ! 今までどんなに―――)
頭を押さえつける手を緩め、顎を少しだけ引いて離れる。息をしようと開いた唇に再び己のそれを割り込ませ、引こうとした頭をまた押さえて拘束する。
黙らせることはできた。
しかし収まらない苛立ちに、そのまま弄ぶように繰り返す。
合間に息をするしかないククルには、もはや抵抗する力もないのだろうか、徐々に深く重なる唇。
貪るように繰り返されるそれが、もはや黙らせるなどという範疇にないことを、ロイヴェインは気付いていなかった。
頭を押さえていた手が、髪を撫で、そのまま頬に触れる。
その濡れた感触に、ふと意識が逸れる。
(…これって…)
何かと思い当たった瞬間、ロイヴェインは一気に我に返った。
重なる唇、抱き込んだ身体、濡れた頬。
己の所業すべてを認識し、ロイヴェインは突き飛ばすようにククルから離れた。
よろりと後退り、顔を上げるククル。その頬に、涙の筋がいくつも見える。
(俺…は…)
手で口元を覆う。
(何を…した?)
血の気が引いていく。
何か言わないと。そう思っても、いつものように言葉が出ない。
自分を見上げるククルに。その涙に。
己の行動を説明するすべを、ロイヴェインは持っていなかった。
最初、何をされたのかわからなかった。
呼ばれて、傍に行って。
いつも通りに見えるのに、どこか追い詰められたような瞳をしていることに気付いて。
どうしたのかと問おうとしたら、引き込まれてキスされて。
離して、もらえなかった。
執拗に繰り返されるそれに抵抗する力すら失い、気付けばただ泣くだけで。
でも今、青ざめた顔で自分を見下ろすロイヴェインに、ククルは何も言えなかった。
追い詰められたようだったその瞳には、今は狼狽と怯えが見える。
自分は彼に何かしてしまったのだろうか。
思わずそう自問する程、ロイヴェインは動揺しきっているように見えた。
声をかけようと、口を開きかけた瞬間。
びくりと身を震わせ、ロイヴェインは己の荷物を引っ掴んで店を飛び出していった。
呆然と立ち尽くし、それを見送るしかなかったククル。
(…ロイさん、どうして…)
声にもならない問いに応えはない。
大きく息をつき、ククルは涙を拭った。
いつテオが戻るかわからない。
こんな姿を見られるわけにはいかなかった。
髪を整え、平静を装う。
何があったのか、テオに説明するのは怖かった。




