三八二年 実の四十二日
朝食の片付けと仕込み作業をするククルとテオの元へ、一度宿へ戻っていたゼクスたちがやってきた。
「少し話を、と思ってな」
手は止めずに聞いてくれればいいと言い、ゼクスたちはカウンター席に座った。
「イルヴィナで、差し入れもいただいたよ」
そう話しだしたゼクスに、今回の訪問の本当の目的を理解する。きっと忙しいジェットやウィルバートに代わり、イルヴィナでの話をしに来てくれたのだろう。
「あの魚は儂にとっても懐かしいものだった。昔を思い出したよ」
「…父さんがレシピを残してくれていたんです」
試作を重ねる間に少し変えたが、それでも懐かしいと思ってもらえたようだ。
よかったですと笑うククルに、ゼクスも微笑み頷く。
「本当に、ククルちゃんはジェットの恩人なんだな」
前回ジェットにも言われたその言葉に、ククルは首を傾げる。
「恩人、ですか?」
「ああ。ジェットは炙ったほうが美味いからと、あの場所で火を熾すと言い出したんだ」
「火を、ですか…?」
あまりピンときていない様子のククルに、ゼクスは少し言葉を変える。
「あの場所での火は、ジェットにとって辛い記憶でしかないだろうからな」
そこまで言われて、ククルはようやく気付いた。
自分の浅慮を恥じるしかない。
気にしなくていいと笑って、ゼクスは続ける。
「ククルちゃんは、それすらジェットに克服させた」
「私は何も…」
呟くククルに首を振って。
「いや。変に気を遣わず、ジェットのことを考えての行動だからこそ、あいつも進むことができたんだろう」
「何とも気の抜けた、いい顔しとったよ」
「そうだな。イルヴィナにいるとは思えない顔だった」
それまで話をゼクスに任せていたメイルとノーザンが、そうつけ加えて笑う。
頷いたゼクスは、ククルとテオを一瞥ずつしたあと、すっと頭を下げた。
「ゼクスさん?」
声を上げたククル。頭を上げたゼクスの表情には、強い後悔と少しの安堵、そして深い感謝が見えた。
「二十年前、儂ら大人の勝手でジェットには本当に過酷な道を進ませた。それでもジェットが無事最後まで辿り着けたのは、ジェット自身の強さと、共に歩く者たちと、帰りを待つ君たちの存在のおかげだと、儂は思う」
だから、と呟くゼクス。
「礼を言わせてほしい。実の三十六日にイルヴィナで、笑うジェットが見られる日が来るなど思ってもいなかった」
浮かぶ翳りを消すように。占める後悔を忘れるように。
ふたりを見るゼクスに、先程までのそれはなく。
「ククルちゃん、テオ。本当にありがとう。こんな日を迎えられて、儂は本当に幸せだ」
深く息を吐いてから、ゼクスは嬉しそうに目を細め、呟いた。
ゼクスが語ったジェットの様子に、ククルはかつてこの店で過去を語ったジェットの姿を思い出す。
とても悲しそうに、苦しそうに、言葉を紡いでいたジェットが。
(…エト兄さん……)
すべて終わったと、ここで笑っていたジェット。イルヴィナでも、同じように笑えていたのなら。
(よかった…)
零れそうになった涙を、テオが横から手を伸ばして拭った。
頬に触れた指に驚きテオを見ると、少し笑って頷かれる。
「向こう座って。お茶淹れるから」
「怪我なんて…」
先日のように動揺しているわけではない。大丈夫だと言おうとするククルに、テオは違うと首を振る。
「ジェットの話なんだから。ククルはちゃんと聞いたほうがいい」
「テオ…」
「俺はここで聞くから。ほら」
テオに促され、ゼクスたちにも頷かれ、ククルは空いている左端の席に座った。
「ありがとう」
ゼクスたちの分と一緒にお茶を出してくれたテオにそう言うと、いつものように、いいよ、と返された。
そのあともイルヴィナでのジェットの様子を色々と語ってくれたゼクスたち。
肩の荷が降りたのだろう、町にいるときとあまり変わらないその様子に、ククルは本当によかったと思いながら聞いていた。
話が済む頃には仕込みも大半が終わり、あとはククルに任せると言ってテオは宿に戻った。
「ありがとうございました」
改めてゼクスたちに礼を言うククル。
「本当によかった…」
視線を落として呟くその姿に、ずっと黙ったままだったロイヴェインが立ち上がった。そのままククルのうしろに行き、何も言わずに手を伸ばす。
肩口から伸ばされた手には、抱きしめるというほど力は入っていない。被さるように身を寄せて、ロイヴェインは呟く。
「泣くの、我慢しないほうがいいよ」
「ロイさん?」
「そのうち癖になるから。その前に」
止めようとした隣のゼクスがその表情を見てやめたことに、ロイヴェインは気付かなかった。
宿に戻ったロイヴェインは、ベッドに腰掛け考えていた。
(…ククル泣いてるの、初めて見たな)
零れる前に拭われて、それきりではあったが。
我慢するなと言った自分に、ククルは礼を言い、大丈夫だと返した。
自分にもからかうつもりはもちろんなかったが、何故かククルもからかわれているとは取らなかった。
あれだけ色々してきたのだ、うしろから抱きしめたりなどすれば、すぐに振り払われてもおかしくないというのに。
自分が離れるまで、ただじっと待っていてくれた小さな背中。
僅かに触れた、柔らかな身体―――。
我に返り、ぼふりとベッドに倒れ込む。
(…何考えてんだ、俺)
今日はまだ一度もからかっていないのだが。
今はどうしてもそんな気になれず、ロイヴェインは寝転がったまま溜息をついた。




