三八二年 雨の二十一日
再開初日は順調に進んだ。
宿泊客が少ないので朝食も問題なく終え、日中も住人たちが様子を見に来て励ましてくれた。
夜、その日宿泊の一組の食事を終え、ククルとテオは片付けをしていた。
「ククル、少しいいか?」
慌てた様子のアレックが店に入ってきた。そのうしろに見慣れぬ砂色の髪の男が続く。年はアレックより少し上だろうか。体格はいいが帯剣はしていないので、ギルド員でも警邏隊でもなさそうだ。男は明るい青色の瞳をククルへ向け、君が、と小さく呟く。
「ギルド事務長のギャレット・ハーバスという。ご両親のこと、本当に残念だった」
入るなりそう言って深々と頭を下げたギャレットに、ククルは慌てて駆け寄る。
「ククル・エルフィンです。あの、頭を上げてください」
「いや、まだ謝らなければならないことがある。本来ならすぐにでもジェットをこちらへ来させるべきなのだが、今は北のベレット洞窟に入っていて連絡を取るのに手間取っている。おそらくあと数日はかかると思うので、もう少し待ってやってほしい」
一気にそこまで言い、ギャレットは頭を上げた。青い瞳を少し懐かしそうに細める。
「…ご両親の面影があるね」
先程までとは違う柔らかな声音に、ククルは改めてギャレットを見返す。
「両親をご存知なんですか?」
「ああ。クライヴの父親…君のおじいさんが、ギルド員だったことは聞いているかな。私は彼の弟子だったんだ」
ギルドには師弟制度がある。入った新人を各パーティーのリーダーに預け、共に行動する中で教育するのだ。
「彼が引退して宿を始めてからも、何度もお邪魔したよ。彼が亡くなってからは、ここ丘の上食堂にも、ライナスの宿にもね」
かつてを思い出すかのように店内を見回す瞳に影が差す。
「事務職に移ってからは旅をすることもなくなってしまって。いつかまた、とは思っていたんだが…」
含まれるのは後悔の響き。目の前の男はこんなにも両親の死を悼んでくれている。蘇った哀しみと感慨に、ククルは心から礼を述べ、頭を下げた。
「食堂を開けているんだね」
懐かしむように店内を眺めていたギャレットが不意に呟く。
「はい、今日からなんです。アレックさんたちに助けてもらって…」
ギャレットはどこか嬉しそうに頷いて、うしろに立つテオに視線を向けた。
「テオくん、だね。ジェットから聞いているよ。かわいい弟分がいると」
「かわいいって…」
苦笑するテオにすまないと笑ってから、ギャレットは改めてククルとテオを見つめた。
「これからも、ここがジェットの帰る場所であってほしいと願っているよ」
「当たり前です。ここはエト兄さん…ジェット兄さんの家なんですから」
思わずいつものように『エト兄さん』と呼んでしまい、ククルは慌てて言い直した。
その様子にギャレットが表情を崩す。
「ジェットはギルドでも君のことを『クゥ』と呼んでいるよ。私を含め、ほかがそう呼ぶと怒られるけどね」
(…エト兄さん…)
笑ってそう言うギャレットに、何だか少し恥ずかしくなる。
暫し笑ってから、ギャレットは名残惜しいが、と前置いた。
「遅くにすまなかったね」
「いいえ、来てくださってありがとうございます」
礼を言うククル。ギャレットは頷き、もう一度店内を見回した。
「食堂の再開もできてよかった。本当はゆっくりあのシチューを食べたかったところだが、明日の朝帰らなければならないのでね。またの楽しみにしておくよ」
「父の、シチューですか?」
「ああ。前の宿の頃から随分と試作していてね。何度もご相伴にあずかったよ」
懐かしむギャレットの姿に、ククルはぎゅっと己の手を握る。
様子がおかしいことに気付いたテオが声をかけようとしたとき。
ククルが勢いよく頭を下げた。
「すみません。私まだ…父のシチューは作れないんです」
突然の告白に驚いてククルを見る三人。顔を上げないまま、ククルは続ける。
「父が残してくれたレシピにシチューは入ってなくて…。作るところも見たことがないので、再現するにもいつになるのか…」
背後のテオが息を呑んだことに、ククルは気付かなかった。
そのまま黙ってしまったククルの肩に、ギャレットがぽんと手を置く。顔を上げた彼女に、安心させるように笑みを見せた。
「大丈夫。クライヴだって何年もかかって作ったんだ。再現に時間がかかるのは当然だよ。それに、レシピを残さなかったことにも何か意図があるのかもしれないしね」
後半は青ざめるテオに告げ、ギャレットはアレックと宿へと戻っていった。
ふたりを見送り、ククルはふぅと息をつく。
(父さんのシチュー、食べてもらいたかったな)
店の看板メニューでもあるし、何より自身も大好きな父の味だ。店を再開するなら出したかった。
(…どうして残してくれなかったのかな)
店の厨房でレシピを見つけたときは嬉しかった。しかしその中にシチューがないことに気付き、正直落胆した。
そして同時に、疑念が浮かぶ。
もしかして父は、自分が店を継ぐことを望んでなかったのではないか、と。
沈む気持ちで振り返ったククルは、そこでようやく呆然と立ち尽くすテオに気付いた。
「テオ?」
かけられた声にはっと見返したテオは、次の瞬間、まるで泣き出しそうな顔を見せる。
「…ごめんククル。レシピがないの、多分俺のせいだ…」
消え入りそうな声でテオが呟いた。
今まで見たことがない程狼狽した幼馴染の姿に、ククルもうろたえる。
「ちょっと待って、テオ? 何のこと?」
「…一緒に来て」
ククルの手を掴んで歩き出すテオ。店を出て、宿ではなく家へと入る。
そうして連れてこられたのは調理場。四人家族にしては大きな鍋がひとつ置かれている。
「中、見て」
怪訝に思いながら蓋を開けると、中にはシチューが入っていた。思わず蓋を落としそにうなって、ククルは慌てて鍋の上に戻す。
「これ…」
振り返ってテオを見ると、沈んだ面持ちのまま頷いた。
「うん…。俺が作ったんだけど…未完成なんだ」
「未完成? 作ったって…?」
「俺、クライヴさんと約束してたんだ。…店のシチュー、自力で再現するって」
ぽつりとテオが話し出す。
「約束? 父さんと?」
聞き返したいことが多すぎて、何から口に出せばいいのかわからない。
軽く混乱するククルに気付かず、目を伏せたテオは溜息をつく。
「きっと俺がズルしないように、レシピを残してなかったんじゃないかって…」
「テオがズルするわけないじゃない」
色々疑問が積み重なりすぎてはいるが、それだけは即座にきっぱりと言い切った。
ククルにとっては当然の認識であるのだが、張本人のテオは弾かれたように顔を上げた。
信じられないものでも見るようなその顔に、ククルは手を伸ばす。
「そんなこと、父さんだって知ってる。絶対にそんな理由じゃない」
ぎゅっと、テオを抱きしめる。
「娘の私が言うんだから。信じなさい」
ぽんぽんと背を叩いてから、離れる。
「返事は?」
顔を真っ赤にして硬直するテオが、ぎくしゃくと頷いた。
(あああぁもう…俺…ほんとバカだ…)
抱きしめられて、こどものように慰められた。
ククルが自分を信じてくれている嬉しさよりも羞恥が勝ってしまい、テオは先程までとは別の理由で泣けてくるのを堪えていた。
レシピがないと聞いて頭が真っ白になり、そこからはもう悪い考えしか浮かばなかった。
はぁ、と息をついて、テオは苦笑する。
「ごめんククル。まだ弱ってんな、俺」
弱ってる、の言葉に、ククルも何か思い当たる節でもあるような、曖昧な笑みを見せる。
「…私だって同じよ」
しかし一瞬でそれを打ち消し、店を開けたままだから帰るね、と、ククルは出ていった。
片付けの途中だったことを思い出し、追いかけようと走りかけ、ふと気付く。
自分が作った、未完成のシチュー。
何かが足りない、でも何なのかがわからない。そこでずっと行き詰まったままなのだ。
もしこれを今ククルの手を借りて完成させることができれば、ギャレットにも食べてもらうことができるのではないか、と。
手を伸ばしかけ、ためらう。
クライヴとの約束は、自力で、だ。ククルの手を借りればもうそれは自力ではない。
(でも…)
一旦手を引っ込め、大きく息をつく。
(クライヴさんとの約束と…父さんとの約束…)
店を再開する条件として、テオはアレックとひとつ約束をしていた。ククルと店を守る為に、自分はどうしてもそれを破るわけにはいかない。
クライヴとの約束は、自分自身の望みの為だ。そしてこれを完成させるのは、ククルと店を守る為に必要なこと。
それならば。答えはひとつしかない。
再び伸ばした手に、もう迷いはなかった。
ククルが店に戻ってまもなく。シチューの鍋を抱えてテオが戻ってきた。
「ククル! これ完成させよう」
先程までの翳りはない。吹っ切れた笑顔でテオは言い切った。
「手伝って!」
そのまま作業部屋に入るテオを、ククルは慌てて追う。
「ちょっとテオ、何言って…」
竈に鍋を置き、火をおこす。
「時間ないから。味見用の皿、いっぱい出して!」
「テオってば」
テオが昨日から置くようになった自分用のエプロンを着る間に、ククルは小皿を持ってくる。
「ねぇ、テオ!」
「あとスープ皿も! 少しずつ試さないと、これだけしかないから」
焦げつかないよう混ぜながらの声に、聞いてよ、とぼやきながらも言われた通りに持ってくる。
「ありがと。これ今の状態」
小皿に注いで、はいと渡される。
まだ少しぬるいが脂はとけたようだ。口に含み、しばらく味わう。
煮とけた野菜、ほぐれた肉の繊維感。
クライヴのシチューは一般的な塊肉ではなく、煮ほぐしたものを使っていた。それに合わせて野菜も主張を控えめに、大皿ではなく汁物として扱われてもいいくらいの素朴なものであった。
(これは…)
首を傾げるククルに、やっぱりとテオが苦笑する。
クライヴのシチューだといわれればそんな気もする。しかし何か物足りない。
小皿を置いて視線をやると、テオは苦笑のまま小さく頷いた。
「今の俺にはこれが限界。だからククル、一緒に考えて」
「でも…」
これはクライヴとの約束の為に、テオがひとりで得た成果だ。今から自分が手伝うことは、それを台無しにしてしまうのではないか。
もちろんククルには手柄を横取りするようなつもりはない。しかし自分がそう思っていても、テオにとっては同義ではないのか。
答えあぐねるククルに、頑固だなぁ、とテオが笑う。
「俺がいいって言ってんの。それに俺だってこの店の一員なんだから、お客さんに喜んでもらいたいって思うの当たり前だろ」
父が、母が。そして自分が、いつもこの店で願うこと。
それを突きつけられ、言葉を返せなかった。
テオの笑みが勝利を確信したそれになる。
「ほら。ハーバスさんが帰るまでに間に合わせて、食べてもらおう」
「うん。ありがとうテオ」
心からの礼を述べ、ククルも微笑んだ。
テオがスープ皿に取り分けたシチューに、少しずつ何かを足して味をみていく、という作業をひたすら繰り返す。皿が尽きたところで、一旦片付けと口直しにお茶を淹れることにした。
「今のところ、ないよなぁ」
手際よく皿を洗い、隣のククルへと渡すテオ。
「そうね。近いものもなかったし…」
すすいで水を切る為並べていくククル。
「あと使えそうなもの…」
「調味料も俺があらかた試したからな…」
少し濃いめにお茶を淹れ、大きめのカップに注ぐ。
作業部屋には椅子がないので、店内のものを持ってきた。
時間はとうに夜中。いつまでも帰らないテオに、途中アレックが心配して見に来たが、理由を話して許可をもらった。
こくりとお茶を飲む。
急に静かになった室内に、ククルはちらりとテオを見た。
「何?」
視線に気付いて首を傾げるテオは、もうすっかりいつ通りだった。蒸し返すかとも思ったが、どうしても気になることがある。
「…このシチューは、テオが父さんとの約束の為に作っていたのよね?」
「うん」
「約束って?」
「や、くそく…は…」
明らかな動揺を見せたテオに、ククルはますます疑惑の目を向ける。
眼差しの意味に気付いたのか、話すから、と仕方なさそうにテオが苦笑する。
「選択の年に、クライヴさんに頼んだんだ。…料理、教えてくださいって」
「料理?」
「うん。うちじゃ朝しか出してなかったから。手伝いっていったらほかのことになるんだよな。でも俺、クライヴさんみたいに料理作ってみたくて。それで頼んでみたんだけど…」
どこか遠い目をして、テオが溜息をついた。
「道具と火の扱い方と注意、それだけ教えてくれたあと、初心者向けのレシピ本渡されて」
「え?」
「店で出してるシチューを自力で再現できたら認めてやるって言われて」
「え?」
「五年も経てば確かにある程度料理はできるようになったけど、結局シチューは再現できないままだった」
「……父さん…」
あまりの対応に頭痛すら覚え、ククルは低く呟く。
まさか家族同然の幼馴染が父にそんな仕打ちを受けていたとは思いもせず。申し訳なさでいっぱいで、父の代わりに何と謝ればいいかもわからない。
「あ…あの、テオ…」
「大丈夫。クライヴさんがどうしてそうしたのか、多分だけどわかってるから」
最初こそヘコんだけど。そう言ってテオは笑う。
「ククルと違って、俺はクライヴさんが料理してるところを見ることがほとんどないんだ。ククルはレシピを見たら、どんなふうに調理してとか、味とか大体想像つくだろ?」
そう言われて改めて考えると、確かにそうだ。材料、調味料を工程に沿って頭の中で調理を進めると、余程突飛なものでない限りそれなりの想像はつくだろう。
「まぁ…うん」
「したことないから当たり前なんだけど、俺にはそれが足りなかったんだ。でも一日店にはいられないから、自分でやって覚えるしかなかったんだよ」
もちろん見て覚えたほうが早いだろうが、その時間が取れないテオへの配慮だったのかもしれない。
(それにしたって、少し放任すぎだとは思うけど)
よく文句ひとつも言わずに五年も続けてきたものだと、ククルは改めてテオに敬服する。
自分がそれなりに料理ができるのは今までの環境のおかげ。もっとがんばらなければと、内心思った。
休憩を終え作業再開となったのだが、めぼしい材料はあらかた試してしまった。まずは材料探し、と作業部屋の中を調べる。
食料庫は別にあるのでここにあるのは調味料くらいかと思っていたのだが、棚の中に甘みのないチョコレートを見つけた。
「シリルさん用?」
店で出す菓子類はシリルが作っていた。もちろんここにあっても不思議ではない。
「食料庫にもまだあったから、当日使う分だけこっちに移していたのかもしれないけど…」
ふたりで暫し考える。
「…ククル、仕入表ってある?」
「持ってくる!」
テオが何を見たいのか、ククルにもすぐわかった。
数日分の仕入表を見比べ、ふたりは顔を見合わせる。
チョコレートを使った菓子が毎日出ることはなかったのに、納品自体は毎日ある。と、いうことは―――。
「まさか、これ?」
「うん、でも…これを見る限りそうとしか思えない」
チョコレートを溶かす為に小鍋にいくらかシチューを移し、少しずつ味をみながら加えていく。
最初は半信半疑だったふたりであったが、ある程度進めたところでお互い手を止めた。
「…近い、よな?」
「うん…。まだ同じじゃないけど、でも…」
ぽろりとククルの瞳から涙が零れる。
「…父さんの、シチューの味…」