三八二年 実の十三日 ③
余計なことを考えずに済むよう、テオは必死に仕込みを片付けていた。
ウィルバートがククルに何を言ったのか、考えなくてもすぐにわかった。
焦る心にかぶりを振る。
どうしようも、どうしたらも、意味がない。決めるのはククルなのだから、自分には何もできない。
そして。ククルが選んだことに、自分が口を出すことはないのだから。
父との約束を違えるつもりはないけれど。
しかし今、本当にそうなってしまうかもしれないこの状況が、怖くて仕方ないのだ。
(…覚悟はしてた、はずなんだけどな)
おそらく、していたつもりだったのだ。
心のどこかでは、このままの日々が続くのだと思っていたのだ。
そう気付き、嘆息する。
己の覚悟が甘すぎたことを、テオは今更痛感した。
裏口の扉が開く音がして、足音が近付く。
ひとりで姿を現したウィルバートは、ありがとうございますと礼を言った。
「もう大丈夫だと思います」
そう言って微笑むウィルバートに安堵と嫉妬を覚えるが、何とか呑み込む。
「それならよかった。…ククルは?」
「少し部屋で休んでから来るそうです」
テオは仕込みの手を止め、通路に立ったままのウィルバートに向き直った。
「ありがとう。助かった」
「いえ。俺も誤解が解けてよかったです。…ですがテオ、どうして俺に話をさせたんですか?」
突然の問いに、黙ったままのテオがウィルバートを見上げる。
「ククルのことですから、放っておいても時間が解決してくれたんじゃないですか?」
「かもしれないけど。すぐじゃないだろ」
即答し、息をついて店内を見回す。
「ここはククルと両親の店だ。…いい思い出ばっかりの、大事な店だったんだ」
帰らない両親をひとり待っていた、あの日までは。
「これ以上ここで、ククルに悲しい思いをさせたくない。怪我なんかしたら、きっとククルは自分を責めるだろうから」
だから、と続ける。
「そうなる前に、いつも通りに戻ってほしかったんだよ」
言い切ったテオに、ウィルバートは肩をすくめる。
「だそうですよ、ククル」
その声に、奥からククルが顔を出した。
「なっんでククルがっ?」
声を上げるテオ。黙って立ち聞きしたからだろう、少し気まずそうな顔をして立つククル。
「実際俺も助かりましたし。これで借りは返しましたよ」
ぽんとテオの肩を叩き、ウィルバートは店を出ていった。
呆然と突っ立つテオに、ククルが一歩近付いた。
「…話、勝手に聞いてごめんね」
すぐには返事ができず、テオは困ったように視線を落とす。
「いつも私のこと心配してくれてありがとう。…もう大丈夫だから」
「…いいよ。俺がやりたくてやってるだけなんだから」
顔も見ずに呟くテオ。
「ククルがいつも通りでいられるなら、それで」
「テオ」
そっと、ククルが手を取った。
「ありがとう」
触れた手に顔を上げ、向けられた笑みを正面から見て。
「いいってば」
赤くなってうつむき、テオは小さく呟き返した。
閉店作業を終え、いつものように施錠を確認したテオが宿へと戻ると、先に店を出ていたウィルバートがロビーの長椅子に座っていた。
「…少し話をしても?」
店を出るときにやたらと自分を見てきたので、何かあるとは思っていたが、そういうことだったらしい。
「お茶淹れるよ」
宿の厨房へ連れていき、座るよう勧める。
「話って?」
「ふたつ聞きたい」
お湯を沸かしながらのテオの問いに、口調を戻したウィルバートが返した。
「俺はククルに好きだと言った。気付いてるのにどうしてふたりで話をさせた?」
昼間の問いをもう一度繰り返すウィルバート。
「それで誤解がとけても、ククルは俺には応えないって自信があった?」
「あるわけないだろっ」
噛みつくように言い返し、テオはうなだれる。
ククルの返した返事を自分は知らない。ふたりを待っている間に抱いていた不安は、まだ消えていないのだ。
「でも仕方ないだろ。俺はククルにもうあんな思いをさせたくないんだ」
落ち着こうと息を吐いてから、クライヴたちが亡くなったとき、ククルがひとりずっと店で待っていたことを話す。
「これ以上あの店で悲しい思いをしてほしくない。ククルと店を守れるなら、俺の想いは二の次でいいって決めてる」
そう告げるテオ。表情を変えずに見返すウィルバートがふっと息をつく。
「結果ほかの男に取られてもいいと?」
「いいわけっ…ない、けど…」
弱くなる語尾。
「…俺だってもっと割り切れてると思ってたんだ…」
もう聞くなと内心請いながら、絞り出すように呟いたテオ。
何かに耐えるかのようにうつむくその様子に、ウィルバートはもう一度息をついた。
「追い詰めて悪かった。ああ、あと、今急かすと断られそうだから、残念だけど返事は特にもらってない」
顔を上げたテオに苦笑を見せる。
「先は長そう、だな」
ウィルバートの前に、お茶と昨日ククルが食べていたりんごケーキが一切れ置かれる。
「余り物だけど」
「…ありがとう」
テオにまで甘党だとバレているのかと思いながら礼を言う。数口食べてお茶を飲んでから、改めてテオを見た。
「ククルのあの様子、テオは知ってたのか?」
聞かれるだろうとわかっていたのか、テオはすぐ頷いた。
「最初はクライヴさんたちが亡くなってすぐだった。何かいつもと様子が違ってて。本人はぼんやりしてただけって言うんだけど」
「それだけには見えないな」
口を挟んだウィルバートに頷く。
「考え込んでるようにも見えるから、手の空く時間にひとりだとまずいかなって思ってて。なるべく長くひとりにしないようにはしてるんだけど…」
だから自分とふたりきりにしたのかと、ウィルバートは納得する。そしてそれなのに自分が、ククルをひとりで考え込む状況を作ってしまったことも。
「…今回は俺のせいだな。本当にすまない」
謝るウィルバートに、テオは首を振る。
「話さなかった俺にも原因はあるから」
そう言い、溜息をつく。
「わからないことが多くて、まだ誰にも話せてないんだ。ジェットにはこないだ話そうと思ってたんだけど…」
「いいなら俺から」
すぐにそう請け負ったウィルバートに、テオは少しだけ表情を緩めた。
少し幼さの増したその顔に、そういえばククルと同い年だったと思い出す。
ククルの両親が亡くなってから今まで。この少年はククルを守る為ずっと必死だったのだろう。
手強い恋敵ではあるけれど、所詮はまだこども―――そう思っていた自分を内心恥じる。
昼間の言動からしても、テオは己の欲で動いていない。自分の想いは二の次でいいと言ったその言葉のまま、己の想いと矛盾する行動もすべてはククルを守る為、だ。
―――どこまでも献身的なそれは、年頃の少年にはいささか苦しいものであるだろうに。
(…認めるべき、だな)
ひとりの男として、好きな相手を守る為の。
テオの努力―――その成果を。
「テオ」
名を呼んだその声は、いつもより幾分優しく聞こえた。
怪訝そうに視線を上げたテオに、ウィルバートが少し笑う。
「今のククルが笑っていられるのは、間違いなくテオのおかげだな。…ジェットの代わりに礼を言っておくよ」
思わぬ言葉に見開かれる瞳が、大きく揺らいだ。
「ありがとう。がんばったな」
労うように肩を叩くウィルバート。
呆然と見返し、テオは拳を握りしめる。
ククルの笑顔を守れたと―――自分の努力は実を結んでいたのだと。
耐えるように唇を引き結び、ウィルバートに背を向ける。
「何だよ、代わりって」
絞り出された小さな声に。
「ジェットならそう言うだろうからな。先払いしとくよ」
わざと軽い口調で返したウィルバートは、うつむくテオから目を逸らしてお茶を飲む。
ケーキをほぼ食べ終えた頃に、ようやくテオが向き直った。
気まずそうにそっぽを向いたまま、何度かためらったあと。
「…その…ありがとう、ございます」
呟かれた言葉に今度はウィルバートが呆けてテオを見返し。
くっと、吹き出した。
「なっっ」
途端に真っ赤になるテオ。
「何で笑うんだよ!」
「だって今更丁寧になられても…」
「それはあんたが俺がもらうとか言うからだろっ」
テオへの宣戦布告。確かにあれ以後口調が変わった。
笑いながらテオを見返し、ウィルバートは頷く。
「そうそう。俺たちはそういう関係。だから今更」
にっこり微笑む。
「負けないから」
「〜〜〜!!」
声にならない叫びを上げて、テオはからかうような表情のウィルバートを睨み返す。
「ウィルだってさっきから喋り方!」
「それこそ今更だろ? ま、人前ではいつも通りやらせてもらうよ」
さらりと返し、肩をすくめる。
「大人なんでね」




