三八二年 雨の十九日
宿泊客の朝食を出し終えたあと、ククルはテオに話があると言われた。
宿の裏口から屋根付きの短い廊下に出る。続く裏手の建物はテオたちの家。ククルの家は店の二階だ。
今日は小雨が降っているが、この廊下なら雨に濡れず、宿の邪魔にもならない。
「話って?」
立ち止まったテオにそう問うと、テオはまっすぐククルを見据えた。
「店、開けよう」
これ以上ない程真剣な声音。しかしそれでもククルは己の耳を疑う。
「…店を、開ける…?」
「宿の食堂は閉めて、三食店で出そう。丘の上食堂兼、ライナスの宿の食堂。それなら俺も手伝える」
自分を見据える茶色の瞳に迷いはない。もちろんテオが冗談や思いつきでそんなことを言い出すわけがないことは、ククルだって知っている。
「テオ? 本気で言ってるの?」
今まで親子三人で昼と夜との営業をしていたのだ。テオに手伝ってもらったとしても、自分ひとりで朝からの営業ができるとは思えない。
「朝は皆同一メニューにしてもらえばふたりでも何とかなる。昼と夜は父さんか母さんが手伝ってくれる」
問う声には答えず、強い口調でテオは言い切る。
「町の皆には慣れるまで様子を見てもらえば、しばらくは宿泊客だけだ。それなら今と変わらないだろ?」
半ば呆然とテオを見返し、ククルは告げられた言葉をゆっくり呑み込んだ。
(…店が、できる…?)
示された可能性に、ククルの胸が高鳴る。
両親が残してくれた大切な食堂。それを再開できる。
この上ない提案ではある。しかし。
(…テオたちに、そこまで甘えるわけには…)
今まで四人で宿を営んできたのだ。店に人手を割けば負担がかかることは目に見えている。
テオを見上げ、ククルはかぶりを振った。
「駄目よテオ。そんな無理できない」
「無理じゃない」
「でも!」
「ククル!」
平行線の言い合いを、テオが名を呼んで止めた。
切り替えるようにひとつ息を吐き、ククルを見つめる。
「俺だってあの店が好きなんだ。父さんも母さんもレムも。俺たちにとっても大事な店なんだよ」
だから、と手を差し出す。
「俺が、ククルと一緒に店をやりたいんだ」
自分を見据える真剣な眼差し。テオの覚悟をそこに見て、ククルは大きく息をつく。
―――そう。彼は本気で提案している。自分も真剣に考えなくてはならない。
己の望みとでき得ること。ライナスの宿への負担。
―――何かをするときに迷ったら一度全ての可能性を考えるのだと、叔父のジェットが言っていた。そしてそこから最善を選べるように努力するのだと。
自分にとっての最善、それは。
(宿も店も、無理なく続けられること)
テオたちに甘えすぎて宿が立ち行かなくなってしまっては意味がない。丘の上食堂とライナスの宿、どちらが欠けてもあの景色ではなくなるのだ。
ぎゅっと手を握りしめ、ククルは改めてテオを見つめた。
「本当に、テオたちもそれでいいの?」
「ああ。できない提案はしない」
迷いなく返された言葉に、ククルはようやく笑みを見せ、両手でテオの手を取った。
「ありがとうテオ。私がんばるから、助けてくれる?」
「当たり前だろ」
包み込まれた手に少しはにかみながら、テオは頷いた。
―――そうして丘の上食堂は再開されることになった。
その日と翌日、宿での仕事の合間を縫って準備を進めた。
厨房で見つけたクライヴのレシピと見て覚えている分とを合わせれば、かなりの料理が再現できそうだった。
もちろん、まだ問題もあるのだが―――。
そして迎えた、雨の二十一日。
少しの懸念を残しながらも、丘の上食堂に再び明かりが灯った。