三八二年 動の三十七日
朝食を食べに来た老人と青年。ククルが気付く前に、青年がトレイふたつをカウンターに返してくれる。
「ありがとうございます」
「…いえ」
相変わらず小さい声だが、気を付けていれば何とか聞き取れる。
昨夜もこちらが気付く前に食器を運んでくれた。
(…ものすごく気遣いのできる人なのよね)
ククルも店にいるときは周りの様子を気にかけることが常となっている。だがそんな自分でも見逃す程、青年の動きにはそつがないのだ。
対抗心すら芽生えかけ、ククルは内心苦笑する。
接客することに関してはそれなりに気付くほうであると思っていたのだが、どうやらまだまだ精進せねばならないようだ。
ごちそうさま、と言って立ち上がった老人が、思い出したようにククルを見る。
「そういえば、まだ名乗っていなかった。儂はゼル。こやつは孫のヴェイン」
言葉に合わせ、青年が軽く会釈する。
「ククルです。ご丁寧にありがとうございます」
慌ててカウンターから出て、ぺこりと頭を下げた。同じようにテオも出てきて名乗る。
「南方の親戚の家に行く途中なんだが、少し足が痛むので数日この町で休んでからと思ってな」
そう言って杖を見せるゼル。昨日今日の様子では、年のせいで足腰が弱いということではなく、杖を持つ右側の足を痛めているのだろう。
「そうだったんですね。何もない町ですけど、ゆっくりしてください。お茶は宿でも出せますし、ここも大抵私がいますので、何か必要なものがあればいつでも言ってくださいね」
「宿の者に言ってもらえれば、運ぶこともできますから」
ふたりの言葉に頷いてから、それよりも、とゼル。
「お願いできるなら、ここにいる間話をしにきてもいいだろうか? 部屋にこやつとふたりでいるより楽しそうなんでな。ああ、もちろん仕事の邪魔にならない程度で」
思わぬ申し出に、テオと顔を見合わせる。
「もちろん構いませんよ。いつでも来てくださいね」
朝開けてから夜閉めるまで、店が無人になることはほとんどない。
ありがとうと礼を言って、ゼルはヴェインと帰っていった。
昼食後、ゼルにこのまま残っていてもいいかと聞かれ、もちろんククルは頷いた。
ヴェインはゼルと何やら話し、小さく頭を下げて出ていった。
カウンターに座り直したゼルにお茶を出し、仕込みをしながら話す。足を悪くする前は色々旅歩いていたのだと言い、ククルの知らない町の話をたくさんしてくれた。
夕方にはヴェインもやってきた。相変わらず自分からは喋らず、ククルの問いにもぼそりと返すだけであったが、嫌われているわけではなさそうなので普通に応対することにした。
動きのよさも変わりなく、やはりこちらが気付く前に食器を下げてくれた。ヴェインに礼を言うと、朝と同じく、いえ、と返される。
前髪の奥、緑の瞳が垣間見えた。




