三八二年 雨の十六日
昨日の快晴はどこへやら、今日は朝から雨が降っていた。
丘の上食堂の営業は昼からで、午前中は仕込みをしている。火が使えるのはカウンター内の厨房と奥にある作業部屋。シチューの仕込みはいつもクライヴがひとり、作業部屋でしていた。
ククルはシリルとふたり、カウンター内で今日の分のシチューに火を入れながら、他の下準備をしていた。
雨の日には町の住人はあまり食べに来ない。控えめでいいかと相談していたところへ、突然店の扉が開いた。
「アルド? どうしたの?」
雨避けのマント姿の男は、店の仕入先でもあるブラスト食品店の店主であった。店内を濡らさぬよう扉の外で留まってくれている。
シリルの声に、奥からクライヴも出てきた。
ふたりの姿を見、すまないな、とアルドが口火を切る。
「さっき早馬が来て、ミルドレッドで馬車が壊れて荷が遅れると連絡があった。親父とリオルが取りに行くが、納品は遅くなる」
ミルドレッドはこの地区の中心街だ。ギルドの支部、警邏隊の詰所に加え、各地行きの馬車の起点でもある。
ライナスからは山道を抜けて馬車で一時間程。配送を待つよりも、取りに行ったほうが早いだろう。
「それなら俺も行くよ。人手がいるだろう?」
支度してくる、とクライヴが二階の自室へ向かう。私も行くわとシリルもエプロンを外してあとを追った。
「じゃあククル、すまないがあとを頼んだよ」
「宿にも連絡をお願いね」
「わかったわ。気をつけていってらっしゃい」
雨避けのマントを着て店の扉から出ていく両親を、ククルは笑顔で見送った。
昼になり、ククルはひとりで店を開けた。
しかし客どころか両親も一向に帰ってこない。荷を移すことを考えても、三時間もあれば戻れるはずなのだが。
(…父さんたち、遅いな)
やまぬ雨音に不安を掻き立てられては、大丈夫だと自分に言い聞かせる。
そんなことを何度か繰り返していると、不意にドアベルが鳴った。
両親ではないが、見慣れたその姿。
「テオ?」
雨避けも被らずずぶ濡れのテオに、驚いて声を上げ駆け寄る。
ゆっくり上げられた顔は明らかに青ざめ、いつもまっすぐ自分を見る茶色の瞳も翳って光を失っている。
只事ではないその様子に、ククルは息を呑む。
「…ククル。店閉めて、宿に来て」
絞り出すような声でテオが呟いた。
どくんと鼓動が跳ねる。
何を言われたのかすぐには理解できずに、ククルはしばらくテオを見たまま立ち尽くしていた。
見返すテオは今にも泣き出しそうに見えた。髪から垂れた雫が頬を伝い落ちていく。
「…ククル」
伸ばされたテオの手を取り、その冷たさにククルはようやく我に返った。
「待ってて」
外にいたテオを扉の内側へ引っ張り込んでから、自分の雨避けとタオルを持ってくる。それをテオに押しつけ、火の始末と裏口の施錠をした。
店を出て宿に向かう。マントを広げてふたりで被ろうとするが、もう濡れてるからと断られる。
宿には裏口からではなく、正面から入った。ロビーにはテオたちの母親のフィーナが落ち着かない様子で待っていた。ククルからマントを受け取り、テオに着替えてくるよう言う。
「ククル」
ロビーの長椅子に座っていたレムが、駆け寄って抱きついてきた。緑の瞳からは涙が溢れている。
レムを抱きしめ、ククルはフィーナを見る。
「…父さんと母さんに、何があったの?」
疑問ではなく、確信。
どこか冷めたククルの声に、フィーナは両手で顔を覆った。
一時間程してアレックが戻ってきた。
その間ククルはレムとテオに挟まれ長椅子に座っていた。レムはずっと泣き続け、テオは何も言わず手を握ってくれていた。
何故か涙は出なかった。
時折心配そうに自分を見るフィーナの視線をどこか他人事のように感じながら、ククルはただそこにいた。
だからアレックから、馬車が事故に遭い、父と母、そしてアルドの父ルードが亡くなったことを聞いても何も言えなかった。
泣くでもなく、取り乱すでもなく。
そんなククルを憂うように見つめ、アレックは頭を撫でる。
「…ジェットにはミルドレッドのギルドから連絡してもらった」
「…エト兄さん?」
ようやく口を開いたククルに、アレックが少し安堵の表情を見せる。
「ああ。ククルにはジェットも、俺たちもいるよ」
力の籠もったアレックの言葉がじわりと染み入ってくる。
アレックの優しい手。心配そうなフィーナ。レムはずっと傍にいてくれて。そしてテオは、気遣う表情を見せながら、それでも何も言わずに手を握ってくれている。きっとジェットも来てくれるだろう。
―――でもここに、父と母は戻らない。
ククルの瞳から涙が溢れる。
自分の身に起きたことを、ようやく現実として認識した。
ひとしきり泣いたあと、ククルは一度店に戻ることにした。今日中に下処理をしておかなければ明日まで持たない食材もある。わかっていて無駄にすることはできない。
ひとりで行くと言ったのだが、テオは裏口まででもいいからついていくと譲らなかった。
再び町へと戻るアレックと宿を出る。夜にはまだ早いが、雲が厚く薄暗い。続く町明かりの方へと歩き出すアレックを見送り、ククルは振り返った。
明かりのつく宿。無人の食堂には、もちろん明かりはついていない。
(…店だけ…暗い…)
胸が締め付けられるような衝撃を感じ、ククルはびくりと身じろいだ。
「ククル?」
テオの声に我に返る。大丈夫と返し、軽くかぶりを振って裏口へと回った。
中に入り、ふたつのランプに明かりをつける。
宣言通り入ろうとしないテオの手を取り、ククルは中へと引き込んだ。
「濡れるから。…でも、ここで待ってて」
一瞬驚いたようにククルを見たものの、何も聞かずにテオは頷いた。
「わかった。ここにいるから」
ありがとうと小さく返し、ククルはランプをひとつ持って作業部屋に入った。竈の上には大きな鍋がふたつ。出来上がったシチューと、肉と野菜を煮ただけのものだ。
クライヴは毎日翌日分の仕込みをしていると思っていたのだが、翌々日の分だったらしい。
店側の厨房にふたつの鍋を運び、今日の分と合わせて三つを温める。残る食材の下処理を済ませる最中、ふとがらんとした店内に気付いた。
―――いつも父がいて、母がいて。店を開ければお客が来て。賑やかで明るかった店内は、今は見る影もない。
父も母ももういない。
ここに―――丘の上食堂に、ふたりが戻る日はもう来ないのだ。
止まっていた涙が再び溢れる。
己の大切な日常が失われたことを痛感し、ククルは堪えきれない嗚咽と共にその場に崩折れた。
店の厨房から物音がしなくなってしばらく。聞こえてくる押し殺した泣き声に、座り込んでいるテオは瞳を伏せる。
本当は今すぐにでもククルの傍に行きたかった。
自分がいるから。ずっといるから。だからひとりで泣かなくていいと、そう言いたかった。
膝を抱え込み、顔をうずめる。
しかし自分がそう言ったところで、それがどれだけククルの力になれるというのか。
悲しむククルにかける言葉のひとつも思いつかない自分が心底情けない。
(…クライヴさん、シリルさん、俺、どうすれば…)
ふたりは自分にとっても親同然。喪失感に胸が詰まる。何故、どうして、そんな言葉ばかり頭に浮かぶ。
自分でさえそうなのだ。ククルがどれ程辛いのかなど、考えるまでもない。
握る拳に力が入る。
―――ずっと傍にいた。いつから好きだとか、そんな程度の話ではない。
彼女を守りたい。いつも幸せそうに笑っていてほしい。
その為に、自分には何ができる?
「テオ」
かけられた声にびくりと顔を上げる。
店の厨房からククルが顔を出していた。
「今日の分のシチュー、持っていって皆で食べよう」
「…運ぶよ」
立ち上がり傍へ行く。目元を赤く腫らしたククルに手を伸ばしかけ、やめる。
「ありがとう、テオ」
ふと目が合ったククルがそう言って少し微笑んでくれたのだが。
その笑みはまだ、自分の望むそれではなかった。