三八三年 実の十三日
早朝の自室で指輪を前に座るククル。
昨日はあれから店に戻り、いつも通りに施錠を確認してからテオは帰った。
互いに少し気恥ずかしく、少々ぎこちなくなってジェットに訝しげな目で見られはしたが。
指輪をチェーンから外し、指にはめてはまた戻し。
緩む頬に、誰もいないとわかりつつ慌てて首を振る。
突然家族を失って、一年と少し。
自分はひとりではないのだと、実感する日々だった。
そして今、テオからもらった約束が本当に嬉しい。
まだ先の話だが、それでも自分たちの生活は変わらない。
これからもずっと、ふたり並んで。両親の残した店に立てることが嬉しかった。
チェーンに通した指輪を首から下げ、服の中にしまう。
まだふたりだけの、大事な約束。
胸にしまって、席を立った。
客はジェットたちとロイヴェインのみ。アレックたちも含め、皆で朝食を取ろうと決めていた。
朝食くらいひとりで大丈夫だというテオの前、ジェットとククルが座る。
「本当にありがとう、エト兄さん」
何度も礼を言うククルに、もういいって、とジェットが笑う。
「俺だってクゥの誕生日にいられて嬉しかった」
頭を撫でるとククルからも笑みが洩れる。
和やかなこの時間が堪らなく嬉しい。
そして同時に、心からこの空気に浸れることが本当に幸せだった。
ロイヴェインから渡されたギャレットの手紙には、調査はまだだがこれで終われるだろうということと。
不在の間に聞き取りを進めておくので、何も心配せずにククルを祝ってくるようにと書かれてあった。
確証もなくギャレットがそんなことを明言するわけはなく。なら自分はそれを信じて目一杯ククルを祝い、甘やかそうと決めた。
祝う人数が多すぎて、あまりでしゃばる場がなかったが。
昨夜テオが帰ってから、ククルとふたり、少し話した。
一連のことに片が付きそうなことはまだ話していない。しかし自分たちの様子から何かあったとは勘付いているようで、向けられる労いがくすぐったかった。
兄夫婦が亡くなってから、一年と少し。
二十年越しの悲願を叶え、未だ纏わる悪夢もようやく消えようとしている。
すべてを終えて。それでも空っぽの自分にならないのは、今まで支えてくれた皆がいてくれるからなのだろう。
「クゥ」
手伝いたそうにテオを見ていたククルが自分を見返す。
「何?」
「ありがとな」
「どうしてエト兄さんがお礼を言うの?」
不思議そうな顔で尋ね返すククルをもう一度撫でて。
ジェットはただ、幸せを噛みしめた。
全員での朝食を終え、ジェットたちとロイヴェインが帰路に就く。
「ありがとう、ロイ。少しは休めた?」
「大丈夫だって言ってるのに。何回聞くの」
くすくす笑ってから、ロイヴェインはにこやかにククルを見つめる。
「また次の訓練のときにね」
「ええ。待ってるわ」
その言葉を本当に嬉しそうに受け取って、またね、と瞳を細めた。
それからテオへと視線を移し、軽く息をつく。
「大丈夫だとは思うけど。ギルド員が馬鹿やらないとは限らないから。ちゃんと守れよ?」
「わかってる」
「今回できなかった別メニュー、練り直しとくから楽しみにしといて」
「…わかった」
渋々のテオの返答に笑いながら、ロイヴェインがテオの前に拳を突き出した。
「またな」
出された拳とかけられた声に、一瞬瞠目してから。
「…ああ。またな」
拳を合わせ、テオも笑った。
「ありがとう、ククル!」
満面の笑みでリックが駆け寄る。
「次も俺がお手本役だから、お菓子作る時間はなさそうだけど。来れるのは楽しみにしてるから」
「私こそありがとう。待ってるわね」
互いに笑い合っていると、ナリスが近付いてきた。
「ありがとう。ゆっくり休んでね」
「もう十分休んだわ」
そう返すと、ククルらしいねと笑われる。
「ゴードンで話を聞いたときには本当に驚いたけど。何もなくて本当によかった」
心配と安堵の混ざる眼差しに、いつもこうして心配をしてもらっていたなと思う。
「私はもう大丈夫。エト兄さんたちをよろしくね」
「わかった。任せて」
「何で俺のほうが頼まれる側なんだよ?」
ぬっと顔を出したジェットがそうぼやく。
「間違ってないと思うけど」
「リック、お前…」
ぼそりと呟いたリックを睨んでから、ジェットは溜息をついた。
「扱いが軽いんだよな…」
「仕方ないだろう。実際ナリスのほうがしっかりしているんだからな」
呆れたようにジェットを見ながらダリューンが口を出す。
「ダンもこっち側なんだぞ?」
「身の程はわきまえている」
異論はないと、そう答え。
「世話になった」
いつものように頭を撫でるダリューンに、ククルも笑う。
「ありがとう、ダン。気を付けて帰ってね」
「ああ」
「ほら、エト兄さんも」
肩を叩かれ、ジェットも諦めたようにもう一度嘆息した。
「元気でな」
ククルをぎゅっと抱きしめて、ジェットが呟く。
「エト兄さんもね」
宥めるように背を叩き、笑みを見せるククル。
「待ってるから」
「ああ。またすぐ来る」
もう一度ぎゅっと力を込めてから、ジェットはククルを解放した。
「クゥを頼むな」
手を伸ばし、少々乱暴にテオの頭も撫でる。
「わかった」
されるがままだが、それでも真摯な眼差しで見返すテオ。
ジェットはふっと息をつき、手を下ろした。
ジェットたちが帰り、急に静かになった店内で。
まだ昼前だからと手伝わせてもらえないククルが、少しふてくされて座っていた。
「もういいじゃない」
「駄目。座ってて」
カウンターの中、何度目かになるやりとりにテオは苦笑する。
目に見えてしょんぼりするククルを見ると、どうしても甘やかしてしまいそうになる。それを自制するのが大変だから、もう本当にやめてほしいのだが。
「…どうしても?」
わかっているのかいないのか。しつこく聞いてくるククルに溜息をつく。
「…そんなことばっかり言ってると渡すのやめるからな」
思わず口に出してしまってから失言に気付いた。
「渡す?」
きょとんと見返すククル。
目を逸らしてもじっと見つめられ、テオは観念して息をつく。
カウンター内に置いていた包みを取り出し、ククルに渡した。
「…最初はそっちを誕生日プレゼントにするつもりだったんだ」
それなりの大きさの包みを開けたククルが、硬直し、直後勢いよく顔を上げる。
「テオ!!」
思っていた以上の喰い付き振りに、もう苦笑するしかなかった。
焼いてみたいが型が手に入らない、と言っていたシフォンケーキ型を、エリシアに頼んで四つ作ってもらっていたのだ。
「…ありがとう…嬉しい……」
重ねていた側面をひとつずつ並べ、それぞれに底をはめ、どこか恍惚とした表情で見つめるククル。そのうちひとつを手に取って、上から見たり下から見たりとつぶさに観察を始める始末。
その様子に、リックにもらった木べらもものすごく見ていたことを思いだした。
やがて気が済んだのか、型を置いてじっと見つめてくる。
「テオ……」
「駄目」
何を言われるかはわかっていたので先に否定すると、眉を下げ、さらに見てくるククル。
「…冷まさないと型から外せないの。今から焼いたらお茶の時間には食べられると思うから…」
既に工程が頭に入っている辺り、よほど作りたかったのだとわかるのだが。
「駄目」
「ひとつしか作らないから。リックにもらった木べらも使ってみたいし…」
「駄目」
「お願い、テオ…」
しょんぼりしながらも、視線だけはまっすぐ自分を捕らえて。
こうなるともう、自分には手に負えない。
「………わかった。いいよ」
「ありがとうテオ!」
途端に元気になったククルが、満面の笑みで型を抱えて作業部屋に向かった。
それを見送り、嘆息するテオ。
ククルと恋仲になってすぐ、エリシアに指輪を頼んだ。
納期が短い、サイズくらい調べてこい、などなど、遠慮のない幼馴染には散々言われたが、型は間に合わなくてもいいからと頼み込んだ。
結局昨日、間に合わせてあげたわよ、とエリシアが持ってきてくれたのだが。
同時に渡さなくて正解だったと本気で思う。
指輪より型のほうを喜ばれるのは、何とも辛いものがある。
(…らしいけどさ)
自分もそうなると思ったからこそ、昨日のうちに型を渡さなかったのだ。
何度目かの溜息をついたとき、自室に取りに行ってたのだろう、本を抱えたままのククルがカウンター内へと駆け寄ってきた。
「どうかし―――」
飛び込んできたククルにキスをされ、最後まで言えず。
もちろん離れてからも続きは言えないまま立ち尽くすテオに、ククルが呟く。
「……もちろん約束のほうが嬉しいのよ?」
顔を赤らめ作業部屋へと逃げていくククルを、テオはただ惚けて見送った。
作業部屋に駆け込んでから本を置き、両手で顔を覆う。
ずっとほしかったものをもらって嬉しかったのは確かだが、それだけではない。
テオが自分のほしいものをわかってくれていたことが嬉しいのだ。
それに。
型に喜ぶ自分を見るテオの表情に、どこか諦めが浮かんだことに気付いた。
指輪は驚きから入り、じわじわと込み上げるような嬉しさで。
型は見てすぐにわかる嬉しさで。
だから外から見える様子が違い、テオには自分の喜びが正確に伝わっていなかったのだと、その顔でわかった。
その込み上げる喜びが今なお自分を満たしていることが、どうすればテオに伝わるのだろうかと。
そう思ったら、自然と身体が動いた。
まだこうしてお互い照れが勝つものの、少しずつその自然さを増していければと思う。
そっと服の上から指輪に触れ、ククルは微笑んだ。




