三八三年 実の五日 ①
訓練前々日。ゼクスたちはいつも通り昼を過ぎた頃に到着した。
「ククル!」
真っ先に駆け込んできたのはやはりアリヴェーラで。カウンターから迎えに出たククルに飛びついて、ぎゅっと抱きしめる。
「また来てくれてありがとう、アリー」
「何言ってるの。私は来たくて来てるんだから」
ぎゅうぎゅう抱きしめながら、ククルの肩越しにテオを見やる。
「テオも。久し振り」
「久し振り」
一通り挨拶をしたところで再び扉が開き、いつも通りふたり分の荷物を持ったロイヴェインが、予想通りの光景に苦笑を見せた。
「アリーはもう…」
「何よ。いいじゃない」
「よくない。荷物くらい持ってって」
アリヴェーラに荷物を渡してから、ククルに微笑む。
「今回もよろしくね」
向けられる笑みには翳りも憂いもなく、心からの言葉だということが伝わって。
よかったと、ククルも微笑む。
「ええ。ありがとう、ロイ」
柔らかい声音に嬉しそうに翡翠の瞳を細めてから、ロイヴェインはテオへと視線を移した。
「テオも。今回は新人ばっかりだから、あんまりいじめんなよ?」
「誰がいじめんだよ……」
「もちろんテオは別メニューだからな。楽できるとか思うなよ?」
「はいはい」
にぃっと笑うロイヴェインにテオがぞんざいにそう返しところで、ゼクスたち三人が入ってきた。
宿に荷物を置き、荷解きをする祖父を残して再び戻ってきたロイヴェイン。カウンター席で、落ち着いた様子のククルを見る。
正直、もう少し当てられるかと覚悟していたのだが、ククルとテオの距離は今までとそんなに変わりはないように思えた。
(…言ってないわけはないだろうけどさ)
あれだけヤキモキしていたテオが何も聞かないまま落ち着くわけもなく。つまりはそういうことなのだろうけれど。
仲睦まじい様子を見れば自分の諦めの手助けになるかとも思ったのだが、ふたりはどう見ても今まで通りで。
当てが外れたような、ほっとしたような。
そんな気持ちでククルを見つめていた、そのとき。
ぞわりとした感覚に、思わず立ち上がる。
「ロイ?」
気付いていないククルとテオが怪訝そうに自分を見るのを視界の端に捉えながら、しかしすぐに言葉が出なかった。
「ロイ!!」
二階に行っていたアリヴェーラが慌てて戻ってきたことで我に返る。
「アリー! じぃちゃんたちに!!」
「気を付けて!」
裏口に向かうアリヴェーラ。
「テオ、ククルをお願い」
ただ事ではないその様子に、テオは何も聞かず頷く。
近付く気配は覚えのないもので。
おそらくジェットやダリューンと互角、といったところだろう。
ただどこか刺すような―――鋭利に研がれたそれは、何かしらの目的を感じさせ、ぞわぞわと落ち着かない。
「…一応逃げる準備、しといてね」
目的がククルであるとは限らないが、ほかである可能性のほうが低い。
アリヴェーラと一緒に逃がしたほうがよかったかと今更思いながら、ロイヴェインは入口を睨み据えた。
カラン、と、張り詰めた空気にそぐわない長閑さでドアベルが鳴る。
扉を開けたまま店に入らず立ち止まる、外套姿の大柄な男。
「あ…」
ふっとククルの緊張が緩む。
「ワーグさん」
「やぁ、ククルさん」
男が外套のフードを外し、少し表情を緩めた。
「大丈夫。知り合いよ」
テオとロイヴェインに短く告げて、ククルはカウンターを出た。
「ふたりに紹介しても構いませんか?」
「もちろん。警戒されているようだからね」
頷くスタイン。ミルドレッドの警邏隊の隊長だと話すと、ふたりともほっと息をついた。
「どうかされたんですか?」
席を勧めようとククルがスタインの前に出た、その瞬間。
スタインの手が、ククルに伸びた。
「ククルっっ!!」
悲鳴のようなロイヴェインの声が聞こえたと同時に、スタインとロイヴェインが走り出す。
一瞬見えたのは、スタインに声を出す間もなく抱えあげられるククルの姿―――。
「ククルっ!」
名を叫び、テオも駆け出す。
店を出ると宿からはアリヴェーラとゼクスたち、そしてアレックが出てきていた。
ククルを抱えてでは逃げられないと悟ったのか、足を止めたスタインがククルを降ろしてこちらを振り返る。
「それ以上近寄るな」
うしろからするりとククルの首に腕を回して言い放つスタインに、一番近いロイヴェインが立ち止まった。
テオが追いつくと同時にアリヴェーラもロイヴェインに並ぶ。
「駄目よロイ」
拳を握りしめ、今にも飛びかからんばかりのロイヴェインを制し、ちらりとテオを見る。
「テオも。絶対に行かないで」
「敵わないのはわかってるけど―――」
「誰かに何かあればククルは冷静でいられない。特にテオ。あんたの役目はククルを落ち着かせることよ」
スタインに聞こえないよう、小声で続ける。
「どうにかできるだけの力はククルにもあるわ。…機会さえ、逃さなければね」
確かに、スタインの腕で首を絞められるような状態の割に、今のククルは取り乱した様子もない。
だが見ているこちらは気が気でないのだ。
(ククル……!!)
爪が喰い込む程拳を握りしめ、テオはククルを見つめる。
こちらに視線を向けたククルが、心配するなというように笑みを見せた。
ロイヴェインの声と同時に身体が浮き、思わぬ速さで動き出して。
遠ざかる店からロイヴェインとテオが飛び出してくるのが見えた。
宿からもアリヴェーラたちが、と思ったところで降ろされて、うしろから首に腕をかけられる。
一体何が起こっているのか。
ククルはまだ己の状況を正確には呑み込めていなかった。
しかしさほど恐怖を感じていないのは、スタインに掴まれるあの瞬間、彼が零した呟きを聞いたからだろうか。
(…すまないって聞こえたもの)
きっと何か理由がある。そう思えた。
「ワーグさん、何か……?」
「おとなしくついてきてくれないか」
低い声で、ぼそりとスタインが呟く。
「できる限り守ると約束する。……娘が…」
「ワーグさん…?」
首元を押さえられて見上げることはできなかったが、スタインは自分に害をなすつもりでないということは伝わった。
とにかくと、立ち止まる皆に大丈夫だからと笑みを向ける。
スタインは警邏隊の隊長。いくら皆が強くても、真正面からやりあえば怪我をしかねない。
「ワーグさん、話を…」
「黙っていてくれ。手荒なことはしたくないんだ」
取り付く島もないスタインに、どうしたら、とククルは考える。
このまま連れていかれていいとは思えない。
しかしスタインには話をする気も聞く気もない。
どうにかここで話をしてもらうには、やはり自分が捕まっていては駄目だ。
アリヴェーラを見ると、まっすぐ自分を見ている。
大丈夫だといい聞かせるような強い眼差しに、ククルは頷く代わりに笑みを深めた。
こういうときの為に、アリヴェーラに色々教えてもらってきたのだ。
前のようにうろたえるだけの自分ではない。だから、と、必死の形相で自分を見つめるテオに訴えかける。
落ち着き払ったククルの様子に、まだ表情は固いものの、テオが笑みを返してくれた。
もうあんな思いはさせたくない。
それに、自分はここにいたい。テオの隣にいたいのだ。
テオの為にも。自分の為にも。
テオの目の前で攫われるわけにはいかなかった。
ククルの意図はその場にいる者には伝わっていた。
もちろんそれがなくとも、ククルを盾にされている以上不用意に突っ込むわけにはいかなかったのだが。
そしてそれはスタインも同じ。一対一では勝てても、総戦力で劣る自分が背を向ければやられることはわかっているのだろう。
平行線の睨み合い。
一瞬でいい。どうにかあの男の注意を引ければと、アリヴェーラは考える。
ククルは落ち着いている。隙さえできれば上手く動いてくれると信じていた。
平常ではないこの状況。穏やかなように見えても消耗は激しいに違いない。願わくばククルの体力が持つうちに―――。
近寄る気配を感じ、はっと顔を上げる。
宿から出てきたレムが、異様な光景に足を止めた。
「戻れレムっ!!」
アレックの声にも動かないままのレムが、全員を見回す。
一瞬合った視線。お願い、と、託す。
レムは呆然とした様子でククルとスタインを見た。
「……ククル…?」
小さく呟き、はっとしたように駆け出す。
「ククル!」
「止まれっ!!」
スタインの大声にびくりと身を竦めたレムだが、ゆっくりふたりを見てふるふると首を振る。
「お願い。私が代わるから。ククルは駄目」
そう言いながら一歩近付く。
「レム!」
「動くな!!」
レムの下へ行こうとしたアレックが仕方なく止まった。
「お前も―――」
「駄目なの。お願い。まだ大事な時期なの」
スタインの言葉を遮り、まっすぐ見据えたままもう一度首を振る。
「ククルのっ…ククルのお腹には赤ちゃんがっ……」
沈黙が、場を占めた。
腕の力がほんの少し緩んだ。
ククルは首元の腕を押すように頭を下げ、すぐに思い切り仰け反る。
ガンっ、と後頭部への衝撃と共にくらりと平衡感覚を失った。
そしてアリヴェーラもまた、ククルが動いた瞬間に駆け出していた。
レムの言葉にスタインが動揺した、その一瞬の隙。
身長差を埋めるため屈ませておいてからの頭突きは満点の出来だった。
本来ならそのあと自力で距離を取らねばならないが、幸い人手はあるのだから。あとは任せてもらうことにする。
うずくまりかけるククルの腕を掴み、スタインから引き離す。少々乱暴に放り投げてしまったことはあとで謝ることにした。
顎を押さえよろけるスタイン。腕さえ掴めば、相手が強かろうと関係はない。反射的に腕を引こうとしたその力に乗せ、足をかけながら仰向けに押し倒す。
「ロイ!!」
馬乗りになって素早く両手首を取り、手を挙げさせるように地面に押しつけて。
まだ状況を把握しきれていないのだろうか、どこか呆然と自分を見上げるスタインに、楽しそうにアリヴェーラが笑みを見せた。




