三八三年 動の三十五日 ③
ククルが部屋に行ってから、一時間程経った頃。
寝間着にショールを羽織ったククルが、まだ少し緩慢な動きで降りてきた。
「ククル??」
思わぬ姿にぎょっとして、テオは慌てて視線を逸らす。
「ど、どうしたんだよ?」
そんな格好で、と言いかけて呑み込む。相手は病人、着替えてこいとは言えなかった。
「お水を飲みに来たの…」
どこかぼんやりとした口調でそう言って、そのまま厨房に入ろうとをするククル。とりあえず止めて、椅子に座らせる。
水を注いで渡すと、ありがとうと微笑まれた。
「母さん呼んでくるから。そのまま待ってて」
「大丈夫…。飲んだら戻るから、ここにいて…」
両手でグラスを持ち、少しずつ飲みながら答える。下ろした髪とその動作、そしてまだ夢現のような表情のせいか、いつも以上にか弱く見えて。
そんなククルにここにいてと言われ、病人相手にと思いながらもどうにも照れくさい。
ひとりできまり悪い思いをしていると、不意にククルが動きを止めた。
「…パイ、ちゃんと焼けてた…?」
急に見つめて尋ねられ、鼓動が跳ねる。
「き、きれいに焼けてたよ…」
「よかった…」
力の抜けた、へなりとした笑みを浮かべ、ククルが呟く。
「…テオのだから。休憩のときに食べてね…」
当然のように言われて瞠目するテオ。ククルは嬉しそうな表情のまま、また水を飲み始める。
両者無言で時が過ぎ、飲み干したククルがグラスを持ったまま立ち上がった。
「ごちそうさま…」
「俺が洗うから。貸して」
何をするつもりか気付いたテオがグラスを奪い取る。礼を言ってから、戻るねと歩き出すククル。
「待って、ククル。一緒に行くから」
どこか頼りないその動きを見ていられず、テオが呼び止めた。
かけていた鍋を火から下ろしておいてから、ククルについて歩き出す。
かなり迷ったが、階段の前で手を差し出した。
「ほら」
「ありがとう…」
迷わず握ってくれたククルを少し嬉しく思いながら、手を引いて二階へ上がる。
二階は幼い頃に来たきりだった。部屋がどこかわからず立ち止まったテオの手を、今度はククルが引いていく。
自室の扉を開け、そのまま入っていくククル。足を止めかけたテオだが、ククルのことを引っ張れずにそのままついていく。
(入っていいのかな……)
うろたえる自分には気付かずに、ククルはまっすぐベッドへと向かった。
ぽすんとベッドに座り、ふっと笑う。
「…ありがとう、テオ」
気を許しきったその表情。
自分にとっては落ち着けない状況ではあるが、穏やかなククルの様子が嬉しかった。
(…家族ってこと、か…)
異性としては見られていなさそうだと思うと、少し肩の力が抜けた。
「…手もちょっと熱いから、まだ熱下がってないんだろうし。もう少し休んでて」
「…わかった」
こくりと素直に頷いたククルが、もぞもぞとベッドに入る。
口元まで上掛けを引き上げて見上げる姿に、何とも言えず視線を逸した。
「…下にいるから」
「テオ」
呼ばれてそちらを向くと、自分に向けて手が伸ばされている。
両手で握ると、嬉しそうに笑われた。
「少しだけでいいから、ここにいてね…」
「えっっ??」
手を残したまま、引き込まれるように瞳を閉じるククル。
「ク、ククル…?」
手をどうすれば、と思わず周りを見回すが、もちろん誰もおらず。
そのまま動けず、立ち尽くすテオ。
(甘えられてる???)
熱のせいだろうが、いつもより柔らかく緩んだ様子のククル。
まだただの家族同然の幼馴染になりきれない自分には、少々刺激が強く。
やがて力の抜けた手をそっとベッドに置いて、テオは逃げるように部屋をあとにした。
跳ねまくる鼓動を忘れる為に作業に没頭し、早々に手が空いてしまったテオ。
(…いいのかな…)
作業部屋にある、ひとつだけ作られたパイ。
自分のだから食べてと、ククルは言った。
普段だったら宿の分も作るはずなのにと思いながら取りに行く。
お茶を淹れ、カウンター席に座って。
「いただきます…」
サクリとフォークが入る。
口に入れるといつもより甘い。よく見ると底にカスタードが敷いてあった。
(……美味しい)
いつものりんごだけのものより、甘く柔らかな味。
噛みしめ、うなだれる。
自分を慰めるために作ったのだろうと思っていたのに、あまりに色々重なり、勘違いしそうになる自分もいて。
馬鹿だな、と独りごちる。
家族同然として隣に立てるように。
今自分に必要なのは、それだけだ。
目覚めたククルがゆっくりと身を起こした。
身体は軽くなっている。どうやら熱も下がったようだ。
部屋を見回し、首を傾げる。
どこまでが夢で、どこからが現実か。
少し考える必要があった。
(部屋に戻って、フィーナさんが来て、寝て起きて、水を…)
がばりと己の格好を見て赤面する。
変な格好ではないが、寝間着は寝間着だ。しかも店には。
(テオがいたのに…!)
あのときは本当に何も考えられていなかった。
水が飲みたいから降りて。
テオがいて嬉しくて。
一緒に部屋まで来てくれたから、手を握ってもらって安心して眠りについた。
ただそれだけ、なのだが。
(私ったら……!!!)
テオが断らないのをいいことに、こどもみたいに甘えて。
熱に浮かされたのと、もうテオに素直な気持ちを口にしていいのだという思いが相まって、かなり甘えた態度を見せたような気がする。
恥ずかしさで動けず、ククルはしばらくそのままどうしようかとうろたえた。
ククルが着替えて降りてきたのは夕方前だった。
「ククル!」
「ごめんね、テオ。熱も下がったし、もう大丈夫だから」
いつも通りの受け答えに、テオはほっとする。
「よかった」
心からの呟きが洩れる。初めはどこか嬉しそうに微笑んでいたククルだが、次第に恥ずかしそうに瞳を伏せた。
「……あと、その…色々ごめんね。熱のせいで、ちょっとぼーっとしてて…」
「わわ、わかってるって」
思わずどもりながら返す。
気恥ずかしすぎて、いたたまれない。
あまり見ない表情のククルをかわいく思う気持ちと照れを何とか押し殺し、立て直した。
「……仕込み済んでるから。もう少し休んでも―――」
「ううん。ここにいさせて」
被せ気味の返答がククルらしく、ふっと力が抜ける。
「わかった。でも座ってて」
自然に浮かんだ笑みに、ククルもつられて笑いながらおとなしく座ってくれた。
「そういえば。あのパイ、俺が食べてよかったんだよな?」
お茶を淹れながらそう尋ねると、そうだと頷かれる。
「美味しかった。ありがとう」
「よかった」
ふわりと微笑むククルはやはりどこか嬉しそうで。
(……ホントにもう…)
いとも簡単に揺らぐ決意。テオは己の意志の薄弱さに落胆した。
ククルが熱を出した為、今日の夕食はククルとカスケード一家だけで取ることとなった。
「顔色はよくなったけど。無理しないのよ?」
あのあとすぐに起きたことを伝えられ、駆けつけてくれたフィーナ。まだ心配そうなその様子に、わかっていると頷く。
「ククルが熱出すなんて何年振り? よっぽど疲れてたんだね」
「ゆっくり休ませてもらったわ」
気付かなかったことを気に病むレムに大丈夫だと微笑んでから、同じテーブルに着くテオに視線を移すククル。
「それよりテオのほうが…」
「俺も午前中休ませてもらったから大丈夫」
「でも…」
結局仕込みもほとんどやらせた上に、自分用にスープまで作ってくれていた。
訓練前から疲れていると言われていたテオ。本当なら明日の昼まで休んでもらうはずだったのに、自分のせいでほとんど休めていないだろう。
「まぁ明日の様子を見てどっちが休むか決めてもいいしな」
埒の明かないその様子に、隣のテーブルのアレックが口を挟む。
「とりあえず、ふたりとも今夜はしっかり休め」
いいな、と念を押されて頷くふたり。
仕方なさそうに笑うテオに、申し訳ない気持ちになる。
休みも潰し、まだ話もできないまま。
思いを伝える前に謝らねばならないなと思う。
食事のあとお茶を飲み、手伝わせてもらえないまま閉店作業を終え。
残ろうかと言ってくれるレムに大丈夫だからと返し。
いつも通り施錠を確認してから帰ると言うテオとふたり、戻るアレックたちを見送った。




