三八三年 動の三十五日 ②
皆が去り、静けさを取り戻した食堂と宿。町を見下ろすテオの背をアレックが叩いた。
「部屋で休んでこい」
「何で俺だけ…」
ククルもレムも仕事はしなかったが、寝てこいとまでは言われていなかった。
不服そうに見返すテオに、アレックは息をつく。
「お前が一番身体を酷使しているからだ」
いいから休めと有無を言わさず告げられて、テオは皆にあとを頼んで仕方なく家へと向かった。
訓練前から、終わったら全部話すとククルに言われている。話してもらえるのだからそれまで気にしないようにと思おうとしても、どうしても気になって。
今朝、落ち着いた様子のウィルバートからは昨夜何を話したのかは全く読み取れず。帰り際もふたりにしてと言われたということは、そういうことなのかもしれないと。
いっそのこと今すっぱりと振られたほうが楽なのではと思える程、心中を渦巻く憶測と不安にどうにかなりそうだった。
休めと言われても、こんな心境で休まるはずもないのだが。
昼頃まで部屋に籠もり、ククルとただの家族同然の幼馴染になる覚悟を決めようと考えながら。
重い足取りで、テオは自室へと入った。
ひとりにすることをアレックたちに謝られながら、ククルは店へと戻った。
明日の昼まで客は来ない。テオが休んでいる今の間に、自分も落ち着こうと思っていた。
使った食器を片付け、残る食材を確認し。皆の昼食の準備もあるが、どうしても作りたいものがあったので、それをしながら考える。
ロイヴェインも、ウィルバートも。
ずっと待たせた挙げ句に突然断った自分を、それでも気遣い、今まで通りでと言ってくれた。
そしてふたりとも、自分のテオへの気持ちに気付いていた、と。
傍から見てわかる程透けて見えている気持ちを、どうして自分は今まで気付けなかったのか。
それだけは、本当に情けなく申し訳ない。
それでも変わらぬ関係を願ってくれたふたりには、もう感謝しかなく。これから少しずつでも、その優しさに報いていければと思う。
霞む視界に視線を落とし、ククルは手を止めた。
彼らを傷付けても。それでも、自分はテオでないと嫌だった。
ずっと家族同然だからだと思っていたその気持ちすべてが、テオを好きだという気持ちだということ。
家族同然も幼馴染も関係なく、テオだから特別だったのだと。
ようやく気付いたそれを。ずっとずっと待っていてくれたテオに、話そうと思っているのだけれど。
今更と呆れられそうで、少し怖い。
己の素直な気持ちを相手に伝えることがこれ程までに不安なものなのだと知ると同時に、それを乗り越えて自分に好きだと告げてくれた彼らの強さを、今になって身に沁みて感じた。
今はまだ、先行く彼らを追う立場の自分だが。
いつか並び立てるように。強くなりたいと、そう思った。
何とか昼まで時間を潰し、テオは部屋を出た。
ククルに何を言われても、受け入れようとは思っていた。自信はないが、せめて取り乱さないようにと言い聞かせる。
宿に戻るともう少し休めと言われそうなので、まずは店に向かった。
裏口から入ると、どこか甘い匂いがする。また菓子を焼いているのかと思いながら厨房へ行くと、気付いたククルがこちらを見た。
向けられた顔にテオが眉をしかめる。
「テ、テオ…?」
険しい顔にびくりとするククルへと近寄り、すっと額に触れた。
「なっ、何??」
上ずった声の問いには答えず、テオは溜息をつく。
「顔が赤いと思ったら。やっぱり熱い」
「え?」
きょとんとしながら自分の頬に手を当てるククル。
「変わらないけど…」
「手も熱いからわかんないだけだろ」
ほら、とククルの手を握る。
「…テオの手、冷たい…」
「ククルが熱いんだって」
「どうりで生地がだれると思った…」
「気付けって」
全く、と呟いて。
「あとで母さんかレムに来てもらうから。先部屋行って寝てて」
「大丈夫よ。仕込みも……」
「ククル」
有無を言わせぬ強い声で名を呼ぶと、ククルがしょぼんとうなだれた。
「…窯にパイが…。もうすぐ焼けるから…」
「出しとくから」
「気付かないくらいだし、平気なんだけど…」
「抱き上げて運ぶくらいの力は俺にもあるけど?」
「でも、テオも休まないと…」
「ホントに俺に運ばせたいの?」
そう言い一歩近付くと、かなりの勢いで飛び退かれた。
ただでさえ赤い顔がさらに紅潮していく。
「わ、わかったから」
そんなに嫌がらなくても、と少々傷付きながら、ほら、と促す。
じっと自分を見つめてから、諦めたのか視線を落とすククル。
「ごめんね…」
「いいから。ちゃんと寝てろよ?」
ここで甘さを見せるとまた渋りだすので少し強めに言うと、ようやくククルが二階へと行った。
それを見届け、嘆息する。
(いつから…)
朝には全く気付かなかった。
こんなことならもっと早く来ればよかったと思いながら、まずは窯の中を確認する。
中には掌程度の大きさのパイがひとつだけ。
ククルの言葉通り、すぐにいい色に焼き上がったパイを出す。香りからりんごのパイだとわかるが、いつもは切り分ける大きさで作られるそれが、今日はひとり仕様だった。
思わず自分用なのかと考える。
落ち込ませる話をするからと、気を遣ってくれたのだろうか。
わからないなと息をつき、とりあえず宿へと知らせに向かった。
部屋に戻ったククルはエプロンを外し、少し悩んでから寝間着に着替えた。
ロイヴェインとウィルバートにどう言えばいいのかと、訓練前からずっと考えていた。ふたりに話し終わったことで、落ち着いて気が抜けたのだろう。
まだテオに話さなければならないのにと思うものの、熱があることを自覚してしまえば確かに身体が重だるい。
ベッドに腰かけたところで、部屋の扉が叩かれた。
「ククル? 入るわね」
返事を待たずに入ってきたフィーナが、傍に寄って顔に触れる。
「ごめんね、気付かなくて」
「私も気付いてなくて…」
促されてベッドに横になりながら答えると、本当に、と苦笑された。
「ひとりで考えても答えが出ないときは頼ってね」
髪を払うように頭を撫で、フィーナが優しく声をかける。
「シリルの代わりにはなれないけれど。私にとってククルは娘なんだから」
「フィーナさん…」
フィーナはずっと自分が悩んでいたことを気付いていたのだと。それでも自分を信じて見守っていてくれたのだと、初めて知った。
熱のせいもあって緩い涙腺に戸惑いながら、ククルはフィーナを見上げる。
「…ありがとう……」
母の代わりにではなく、フィーナはフィーナとして自分を娘だと思ってくれていることが嬉しかった。
フィーナは微笑み、ハンカチでククルの涙を拭ってから、額に濡らしたタオルを載せる。
「しばらくここにいるから、ゆっくり休んで。おやすみなさい」
「…おやすみなさい…」
椅子に座るフィーナにそう返し、ククルは目を閉じた。
二階へ行ってしばらく、眠ったわ、と言ってフィーナが降りてきた。
「今日はもう誰も来ないし、テオもあまり休めた様子じゃないけど。このまま店のことを頼める?」
寝ていないことはばれているようだと苦笑しながら、それでもここにいていいと言われてほっとする。
「わかってる。何かあったら呼ぶから」
ククルが準備していた三人分の昼食を手渡し、宿へと戻るフィーナを見送った。
ひとりになった店内で、大丈夫かなと独りごちる。
夕方から住人たちに来てもらうつもりだったので、それも含めての仕込みは滞りなく進んでいた。気付かなかったというのは本当なのだろうが、自分がいればもっと早く休ませることができたのにと思う。
せめてもと思い、ククルの為の食事の準備をしながら。
家族同然として。自分には何ができるだろうと考えていた。




