三八三年 動の二十九日
朝、テオは約束通りいつもより遅めにやってきた。
少し疲れも取れたのか、取り立てて調子の悪そうな様子はない。
「今日はごめんな」
申し訳なさそうに視線を落とすテオに、気にしないでと返して座ってもらう。
四人での朝食を終え、テオにはそのままジェットたちを含めた宿泊客の朝食の準備にかかってもらった。
今朝はまだ訓練とは関係のないギルド員たちも泊まっているとはいえ、訓練中に比べれば人数は少ない。特に問題なく朝食の営業も済み、片付けはするからとテオを家に帰した。
ほとんど並んで立つ間もなく戻ってしまい、ククルは少し寂しさを感じながら仕込みを始める。
訓練生が来るまではとダリューンとナリスも交代で手伝いに来てくれたので、作業としては滞りなく進みはしたのだが、やはり感じる違和感に時折手が止まる。
甘えがあるなと自嘲しつつ、ククルはとにかく手を動かすことにした。
テオが再び戻ってきたのは昼食前、少し休んだと言いながら、手伝えなかったことを詫びられる。
「もう皆来るし、訓練もないし。あとはここにいていいって」
長かった、と笑うテオは普段と変わらぬ穏やかな表情で。
ようやく落ち着いて隣に立つことができて、ククルもほっとした。
ククルの瞳に安堵が浮かぶのを見て、テオは少し驚き、それから喜色を滲ませる。
ここに立つことを取り上げられることがどんなに辛いか、今回本当に思い知った。
ククルの気持ちがどうであれ、自分はククルを助けたいし、ここでの時間が大切なのだから。
それだけは失わずにいられたなら、もうそれでいい。
ククルを好きだという気持ちに蓋をするには時間がかかるかもしれないが、ここでの自分を必要とされているのなら、もうそれだけでいい。
今はまだ割り切れないが、いつかはそう思えるようになれるはずだから―――。
昼を過ぎ、ギルド員たちが到着した。
アリヴェーラに到着を知らされ、ククルたちは外へ出る。宿からはジェットたちも出迎えに来ていた。
ちょうど丘を登りきった一団、その先頭の黒髪の青年がまっすぐこちらへ向かってくる。
いつもよりは少なめの訓練生たちに待機を命じて、ウィルバートはふたりの前へとやってきた。
「またお世話になります」
そう言って頭を下げる様子は、あくまで事務長補佐としての態度で。
こちらこそお願いしますと、硬い挨拶を返すしかなかった。
そこで初めて気付いたように目を瞠り、ウィルバートが息をつく。
「すみません」
口調はそのままだが少し緩んだ雰囲気に、ウィルバートがいつになく緊張していたのだと知った。
そしてそれは間違いなく、自分の出した手紙のせいで。
「……ごめんなさい…」
やはりあんな手紙を出すべきではなかった。ロイヴェイン同様ウィルバートも、自分が何を話すつもりか勘付いている。
うつむき謝るククルに、ウィルバートは少し瞳を細め、謝らないでと小声で告げる。
「またゆっくり話せるときに。ジェットたちにも挨拶してくるよ」
言葉を崩してくれたのは自分を気遣ってだろう。
顔を上げたククルに柔らかな笑みを見せて、ウィルバートはジェットのほうへと歩き出した。
ウィルバートが離れたあと、駆け寄る足音にククルは視線を移した。
一団の中から走ってきた暗緑の髪の少年が、嬉しそうに笑う。
「改めて。エディル・アランドです。テオ、ククルさん、しばらくよろしくお願いします」
まっすぐ見据える黒い瞳に、ククルも微笑み会釈を返した。
「ククル・エルフィンです。呼び捨てで、楽に話してください」
「訓練が終われば遠慮なく。俺のことも同様に」
互いに顔を見合わせ笑い合う。
「やっぱり今回もやってんのか?」
ウィルバートとの挨拶は終わったのだろう、いつの間にか近付いてきていたジェットの声に、テオが肩をすくめた。
「ククルもエディルも楽しみにしてんだよ。な」
「そうなんだ。皆もうククルさんのこと呼び捨てなのに、俺だけ…」
どこか悔しそうに言うエディルに思わず謝りそうになる。
「別に待たなくていいのに…」
「いや、それは何ていうか、けじめとして」
ひとり頷いてから、エディルはジェットとテオを見た。
「ジェットさん。よろしくお願いします。テオは前回結構出てたって聞いたが、今回は?」
「どれくらいになるかはわからないけど。ちゃんと出るよ」
「おう。まとめて面倒見てやるからな」
何故かテオの頭を撫でながら笑い、ジェットはエディルの背後に来た男に手を上げた。
「ユーグも。久し振り」
「お久し振りです。ジェットさん」
ナリスと変わらない年に見えるその男は、エディルの背を叩いてから会釈した。
「エディルを預かっている、ユーグ・ミュスカーです。ククルさん、テオさん、エディルが本当にお世話になりました」
ギルド員らしからぬ丁寧な挨拶をされ、慌ててふたりも礼を返す。
「せっかくなので、私も参加できればと思います」
胸を借りますねと言われ、テオは本気で返答に困ってエディルを見たが。
「師匠は本気で言ってるから」
当たり前のように説明され、さらに言葉を失くした。
顔合わせを終え、訓練生たちが荷解きをする間。
部屋に戻ったウィルバートは息をつき椅子に座る。
今からククルがお茶と菓子を持ってくる。おそらくはアリヴェーラが一緒なので受け取るだけで終わるだろう。
―――話があると、手紙が来た。
何の話かなど考えるまでもなく。
来るべきときが来ただけだと、諦める気持ちと。
もっと何かできることはなかったのかと、悔やむ気持ちと。
それでもと、思う気持ちと。
手紙が来てから今日まで、諦める覚悟をしては揺らぎ、このままではと思いまた諦めようとしての繰り返しで。
今日、彼女を前にして。
わかったことは、すぐには無理だということだけ―――。
扉が叩かれ、立ち上がる。
扉を開けると、ククルが自分を見上げている。
微笑んで礼を言うウィルバートに、少しほっとしたような顔でククルがお茶とパウンドケーキが載ったトレイを手渡した。
やはりアリヴェーラがいたので、お互い何も話さないまま再び閉まる扉。
その前で立ち尽くし、ウィルバートは再び吐息をつく。
トレイの上、自分が好きだと言った、素朴なパウンドケーキが載っている。
自分の為ではなくても。それでも嬉しい。
テーブルに置き、その前に座り。
自分にとって特別なそれに手を付ける。
彼女から何を言われても、もちろん受け入れるつもりではある。
しかし、それまで。たとえあと数日でも。
もう少しだけ、好きでいたかった。




