三八三年 動の二十八日 ①
朝、裏口と入口の鍵を開け、朝食の支度を始めるククル。
アリヴェーラにこじれるわよと注意された。実際テオの態度も一歩引いたままで、ロイヴェインと何があったか気にしていることは明白だった。
今日はテオも一日訓練なのだろうし、この朝の僅かな時間を逃せばふたりで話すことも難しい。
もちろんアリヴェーラに頼めばふたりにしてもらえるだろうが、そうなると大仰になってしまい本題を切り出さねばならなくなりそうで、頼み辛い。
明日にはギルド員たちも到着し、明後日からは訓練が始まる。それを邪魔する気は微塵もないのだ。
ロイヴェインにも本当は訓練が終わってから話すつもりだった。
何も伝えないまま急に返事をするのもどうかと思い手紙を書いたのだが、確かに断る予告とも取れかねない。
その状況で訓練が終わるまで普通に接するというのも酷な話なのかもしれないが。
ならどうすればよかったのだろうかと、溜息と共に独りごちる。
本当に、上手く立ち回れない己に嫌気が差す。
ここまで気付かずに返事を先延ばしにしてしまった自分に原因があることはわかっていた。
再度の溜息をついたところでテオがやってきた。
今日もいつもより早めに来てくれたテオ。表情は昨日よりも穏やかだ。
「おはよう、テオ」
「おはよう」
瞳を細めて挨拶を返したテオが作業にかかる。
ロイヴェインが来る前に少しでも話しておかないとと思い、ククルが口を開きかけた、そのとき。
「ロイに返事したの?」
テオの問いに、ククルは目を瞠った。
いつものように手元を見たままのテオ。声音も表情もこちらを責めるものではなく、ただ聞いただけ、という感じではあるが。
どれだけ悩んでその言葉を口にしたのかは聞くまでもなく。
そうさせてしまった自分が本当に不甲斐ない。
声を出せば謝罪を告げそうで。とにかく返事をと、無言で頷く。
「…ウィルにもするの?」
あからさまにこちらを見はしなかったが、頷いたのは目の端で捉えていてくれたようで、重ねてそう問われる。
もう一度頷くと、そう、と小さな声が返ってきた。
しばらくの静寂の後、三度テオが問いかける。
「俺にも?」
ククルは息を呑み、返答に詰まった。
ここで頷き好きだと伝えれば、おそらく誤解はすべて解ける。
しかし。
「……訓練が終わったら、全部話すから」
ほかの人に返事を待ってもらったまま己の気持ちを伝えることは、どうしてもできなかった。
「それまで待ってて」
この言葉でどれだけ伝わるのか、自分にはわからなかったが。
テオが手を止め、ククルを見やる。
「わかった」
短く返された言葉はとても静かで、何の感情も読み取れなかった。
朝食の支度を再開しながら、テオは内心嘆息する。
昨日店を出ている間に宿に来たアリヴェーラに詰め寄られ、少しは動けと詰られた。
気にしているのは丸わかりなのに、何も聞いてこない。その態度をククルはどう受け取ればいいのか、と。
待つと言った自分が尋ねれば返事を急かしているように取られるかと思い、黙っていたのだが。
それならばと思い聞いてみると、返された言葉は結局待てというだけ。
そしてそれを告げるククルの顔はどこか申し訳なさそうで。
ああやっぱりと、テオは思う。
ククルが誰を選ぶのか。それとも誰も選ばないのか。
それはわからないが、おそらくもう自分にも時間はないのだろう。
家族同然として隣に立つ覚悟は、正直いってまだできていない。
(…本当に俺は口ばっかりだな……)
今回の訓練後の休暇は自分が取るように言われている。
精々訓練に打ち込んで疲れ果て、それを理由に店に立つことができないその一日をひとりで過ごし、せめて平常心で隣に立てるように取り繕う準備をしようと、そう決めた。
四人での朝食を終え、ジェットたちを含め宿泊客たちの朝食も済んだ。
大丈夫だとは言ったものの、することがないからと店に残ってくれるナリスとアリヴェーラと共に、訓練に行くテオを見送る。
昼食の準備も営業もこちらですると言うと、テオは珍しく喰い下がらずに頷いた。
眉間にしわを寄せるアリヴェーラとそれを見て苦笑するナリスには気付かないまま、ククルは仕込みを始める。
前回一緒に仕事をして少し仲良くなったようで、興味深げに恋の話を振るアリヴェーラと、照れもせずに惚気るナリスの話を聞き流しながら、それぞれに作業を割り当て進めていた。
少し落ち着いたところで明日の菓子の準備にかかることにすると、私も、とアリヴェーラがついてきてくれた。
初めて来る人が多くて好みもわからないので、前日に出す菓子はあまり凝ったものは作らない。
特に今回はウィルバートに迷惑をかけることがわかっているので、せめて好きなものを食べてもらおうと思い、パウンドケーキを焼くことにした。
これならわかると張り切るアリヴェーラに手伝ってもらいながら、手を止めずに考える。
ロイヴェイン同様、ウィルバートにも話があると手紙を書いた。
彼がそれをどう取っているかはわからないが、おそらくいつも以上に余計な気を遣わせることになるだろう。
アリヴェーラに隠れて吐息をついて。
今はまだ目の前のことに集中することにして、ククルはひたすらにバターを撹拌し続けた。
昼食に戻ってきた一行。
疲れた様子ではあるが前回のように突っ伏す程ではないリックと、今日の昼は店に立たないことになったテオが、共にだらりと椅子に座る。
「まだ半分……」
ぼそりと呟くリックに、テオは苦笑うしかない。
生徒ふたりに教官六人。人が変われば視点も変わり、視点が変われば教示も変わる。
次々に言われ、ついていくのに必死だった。
「大丈夫?」
水を置きに来たククルにそう問われ、問題ないと頷く。心配そうな眼差しを向けられるが、どんなに疲れても平気だと押し通すつもりだった。
少々体力はあるのでその分追い込まねばならないと思っていたが、ここ最近の不調を考えに入れていなかった。
ククルのおかげで今はそれ程ではないとはいえ、積み重なった疲労はすぐには抜けず。結果思っていたよりも動きが悪い。
もちろん気付かれているのだろう、最後のほうには教えの手が緩み、昼食前には午後も続けるかと確認された。
続けると言い切ったあとは、再度確認はされなかったが。
こんな調子で、と思う。
皆に心配され、気を遣われ。こんなままで、自分は本当に望むように振舞えるようになるのか。
そんなことを考えながら昼食を終え、もうしばらく休めと言われて座っていると、ククルがおかわりのお茶と菓子を持ってきた。
「明日のパウンドケーキの生地を作りすぎたから……」
そう言って出されたのは、蜜煮のりんごとチーズの焼き菓子。
前回の訓練中、自分が美味しいと言ったものだ。
結局こうして気を遣わせてるのかと思う一方、じわりと沁み入る喜びに視線を落とす。
本当に。いつまでたっても割り切れる気がしない。
「ククル」
何故か逃げるように離れる背中に声をかける。
そろりと振り返ったククルに、心のままに、瞳を細める。
「ありがとな」
礼を言うとふっと綻ぶその笑顔に。やはり好きだとしか、今は思えなかった。




