三八三年 動の二十六日 ①
夜、閉店間際にカランとドアベルが鳴った。
入口を見たククルは、入ってきた人物に驚きを見せる。
「ロイ、アリー…」
「こんばんは」
「ちょっと早いけど来ちゃった」
にっこり微笑むロイヴェインとアリヴェーラ。
「珍しい時間だな」
「うん、ちょっとね」
怪訝そうなテオにそう答えてから、ロイヴェインはククルの前に立つ。
「……外でいい?」
「え?」
見上げるククルに笑みを見せ、ロイヴェインは続ける。
「場所くらい選ばせてよ?」
ここじゃヤだよ、と冗談めかして笑うロイヴェインに、ククルは瞳を伏せて頷いた。
「テオ、あとお願い」
「ククル? 何…」
尋ねようとしたテオの前に、すっとアリヴェーラが手を出した。
「いいから。ククル、店は私が手伝うから」
エプロンを外したククルは畳む手を止めてアリヴェーラに目礼する。
「ありがとう」
何が何だかわからず呆然と突っ立つテオに、一瞬申し訳なさそうな眼差しを向け、ククルは畳んだエプロンを置いてカウンターを出た。
夜闇の中、眼下に並ぶ家々の明かり。
大好きな景色も今はどこか他人事のように見える。いつもの静寂が、これからのことを考えると少し胸に重い。
「テオに何も言ってないの?」
ふたりで外に出るなりのロイヴェインの声はどこか軽く、緊張で固まる自分とは大違いだとククルは思った。
「アリーが上手く言ってくれると思うけど。絶対誤解してるよね」
答えられないククルに笑みを見せ、ロイヴェインがまっすぐククルを見つめる。
「じゃあ、覚悟はしてきたから。ぱっと振っちゃって」
いきなり伝えてもいない本題を口にされ、ククルは瞠目しロイヴェインを見た。
確かに自分は話があると手紙を出した。しかし話の内容は何も書いていなかったのだが。
「それくらいわかるよ」
笑みに翳りが見えるのは、辺りが暗いからではないのだろう。
「お互い気にしたままなのも嫌だから、先に済ませちゃって。で、明日からは今までみたいにしてくれると嬉しい」
「ロイ……」
明るい態度も軽い口調も。アリヴェーラとふたりでこんな時間に先に来たのも。
すべて自分を気遣ってのものなのだと、ククルは気付いた。
優しい瞳で自分を見つめるロイヴェイン。しかしその瞳に影があるのは、間違いなく自分のせいで。
自分の口からちゃんと伝えなければならない。そう思うのに、言葉が出ない。
「……ごめんなさい……」
代わりに溢れる謝罪と涙に、ロイヴェインは少し瞳を細めて一歩近寄る。
「ククル」
右手で頬に触れ、親指で涙を拭う。それからゆっくり顔を寄せ、右頬の涙に唇をつけた。
しっかりと唇を押しつけてから、名残惜しそうに離れる。
「涙、止まった?」
驚いて声も出ないククルにそう笑い、もう一度顔を寄せるロイヴェイン。
「まだなら今度は唇にするけど?」
まだ頬に残ったままの右手の親指で唇に触れてそう問われ、ククルは小さく首を振る。
遠慮しないでいいのに、と翳りの残る瞳で笑い、ロイヴェインは右手を下ろした。
どこまでも自分を気遣うロイヴェイン。
彼の想いに応えることができない自分に、それでもまだこれだけ優しくしてくれる。
だから自分も、まっすぐ彼に向き合わなければならない。
息を吐き、両手を握りしめ。
ククルは顔を上げ、ロイヴェインを見つめた。
「…ロイ。ずっと返事を待ってもらってごめんね」
穏やかな瞳で見返すロイヴェイン。
好きだと言われる前もあとも、本当に色々あった。
「……好きになってくれてありがとう。たくさん助けてくれてありがとう。ロイのおかげで、私、少しは素直になれたと思う」
泣くのを我慢しなくていいと言われ。大丈夫だというだけでは心配だと言われ。
向き合うことは必要だと、両親の事故現場にも連れていってくれた。
人にはそう言うくせに、自身は素直なようで本心を見せず、笑顔に隠して無理をする。
今もそう。笑顔の裏の感情を見せないように、終始穏やかな表情で。
どこまでも。本当にどこまでもこちらに気を遣ってばかりのロイヴェイン。思えばキスをされたあのときだけが、彼の感情のままの行動だったのかもしれない。
あのときの怒りも動揺ももう自分にはない。もちろん少々複雑な気持ちはあるが、それを許して余りある程自分を助け、支えてくれた。
その献身に、それでも自分は応えられない。
「……でも、ごめんなさい…。…私…」
うつむきそうになるのを堪えながら、ただ淡く微笑むロイヴェインを見返して。
「…テオが、好きなの…」
初めて声にしたその言葉は、ククル自身にもストンと落ちて。
目の前のロイヴェインにどれだけ感謝を抱いていても、やはり自分が隣にいたいのは彼ではないのだと、そう感じた。
微笑んだままのロイヴェインが、そっか、と呟く。
「気付いちゃったか」
思ってもない言葉を落とされて、ククルはロイヴェインを見上げた。
余程狼狽した顔をしていたのか、ようやくロイヴェインが笑みに感情を乗せる。
「何、その顔」
くすりと笑い、吐息をついた。
「ククルは最初っからテオしか見てなかったよ。ククルも、テオも、気付いてなかったけどさ」
「え? え??」
自分が気持ちに気付いたのはついこの間のはずなのに、と、さらに慌てるククルに。
まだいとおしそうな眼差しを向けながら、声だけは明るくロイヴェインが告げる。
「割り込めたらなって思ってたんだけど。無理だったや」
仕方ないかと嘆息し、少しためらうように視線を揺らして。
ロイヴェインが改めてククルに向き直る。
「ね、ククル。…友達では、いてくれる?」
「友達?」
告げられた言葉とロイヴェインとを見比べ、ククルは考えるように眉を寄せた。
もちろん否はない。しかし目の前の彼との関係性としては、どうにもしっくりこない。
答えてもらえず少し不安げな顔をするロイヴェインを見て、ククルはさらに焦る。
「ご、ごめんね。友達が嫌なんじゃなくて、もっと、何ていうか…」
自分を窘め導くようなところもあり、励ましてくれたり、助けてくれたり。こちらの言葉に礼を言われることもあった。四人での朝食は本当に穏やかで楽しく。
家族ではないけれど、友達と言われると少し遠く感じる。
何かいい言葉はないかと必死に考える中で、ふと訓練に来ているギルド員たちを思い出した。
暫しの間とはいえ生活を共にし、共に競い成長し。
最終日が近付くにつれ仲良くなる彼らを見るのは嬉しくもあり、羨ましくもあった。
そう。自分も。頼るだけではなく頼られる相手になれればと。
差し出された手を取らずにいながら、身勝手な願いかもしれないが。
心配そうに自分を見つめるロイヴェインに、どうにか辿り着いた己の心情に一番近い言葉を選び取り、渡す。
「…今はまだ、私はロイに頼ってばっかりだけど。いつか『仲間』として立てれば嬉しい」
「仲間…?」
自分の言う『仲間』像が浮かばないのだろう、少しきょとんと見返すロイヴェインに、言葉を選びながらどうにか伝える。
最初は怪訝そうだったロイヴェインだが、説明が進むにつれ喜びが滲んでいくのがわかった。
「……ありがと、ククル。でもね」
説明し終わった自分に頷き、そう返したロイヴェイン。その瞳にはまだ消えぬ翳りと、新たに喜色が見えるのに。
「…俺はもう、ククルに助けられたんだよ」
それでも少し伏せられた翡翠の瞳は、どこか泣きそうにも見えた。




