三八三年 雨の四十九日 ②
「おはよう、ロイ」
顔を上げたロイヴェインにククルが挨拶をする。ふっと表情を和ませ、ロイヴェインは店内に入った。
「おはよう。俺の分も用意しといてくれたんだ?」
「テオが、ロイも来るからって」
ロイヴェインのほうは見ずにお茶を淹れるテオ。その様子に少し笑い、ククルは四人分の朝食をカウンターに並べる。
そのトレイにお茶を置き、皆席に着いた。
いただきます、と食べ始める。
ふたりのときはテオが作ることも多いのだが、今日は珍しくテオが来るのが遅かったので自分が作った。
作るのも食べるのも手早くできるからと、いつも通りサンドイッチにしたが、せっかくロイヴェインとアリヴェーラがいるのなら教わったパンケーキにしてもよかったなと今更思う。
「どうしたの?」
考え込んでいると、アリヴェーラに声をかけられた。
「こうして食べるのも、すっかりいつものことになったなって思って」
そう答えると、アリヴェーラの向こうでテオが少し喉を詰めたように咳込む。
「…いつもって?」
その様子を一瞥したロイヴェインが隣のククルに尋ねた。
「前にアリーが来てくれたときから一緒に朝食を食べるようになったの。エト兄さんとダンも付き合ってくれて」
嬉しそうなその表情に、よかったわねとアリヴェーラは笑い、ククルを挟んで反対側のロイヴェインは、ククルとアリヴェーラ越しに視線を逸らすテオを見る。
「…ほかに誰もいないときはテオとふたりで食べてるんだ?」
「ええ」
「そうなんだ……」
ぼそりと呟くロイヴェイン。
結局朝食の間、テオはロイヴェインを見なかった。
朝食客も捌けた頃、一旦宿に戻っていたロイヴェインが戻ってきた。
カウンター席の真ん中に座り、訴えかけるようにじっとテオを見る。
今朝、どうせ食べに来るんだろと言われたが、言った本人はあれを機にちゃっかり居付いたようで。
どうりで自分が行くのをすんなり受け入れるはずだ。
昨日の昼からも宿に戻る様子もなく。おそらくずっと店にいるんだろうと、やっかみを込めてジト目で見続ける。
最初は気付かぬ振りをしていたテオだったが、やがて嘆息し、仕込みの手を止めた。
「ソージュ、明日までだし。アリーたちがいてくれるうちに引き継ぎしてくる」
「わかったわ」
少し怪訝そうにしながらもククルは頷き、テオは道具を片付けて宿へと行った。
あとは、とアリヴェーラに視線をやると、わざとらしく息をついて睨まれた。
「馬鹿なマネしない?」
「しないよ」
その即答に再び息を吐き、仕方ないわね、と呟かれる。
「作業部屋にいるから。あのバカに何かされたら大声を出すのよ?」
「ロイはそんなことしないわよ」
ククルの返事が胸に刺さる。
嫌味でも牽制でもない、心からの言葉。
こんな自分にまだそれだけの信頼を寄せてくれているのかと、嬉しさと申し訳なさにうなだれた。
アリヴェーラ立ち去る足音が聞こえなくなってから、ゆっくりと顔を上げる。
ふたりきりになったことなど意に介した様子もなく仕込みを続けるククル。警戒されていない安堵と意識されていない落胆を感じながら、穏やかなその姿に自然と笑みが浮かんだ。
本当に、彼女は変わらない。
「ククル」
手を止め、顔を上げるククルに微笑んで。
「俺にも手伝わせて?」
そう願うと、少し驚いてから頷いてくれた。
カウンター内へ入り、ククルの指示で作業を始める。
料理でも菓子でも。共に作業中のククルはとても真摯で、かつこちらにも効率よく作業を詰め込むので余計な手を出す暇などないが、今はそれでよかった。
時折話しながら、穏やかな時間に身を任せる。
もう一度謝って許しを請うのも、好きだと告げるのも、今日はやめた。
今はただククルの為にできることを探そうと、そう思った。
作業順を考えながら、ククルは隣でどこか嬉しそうに作業をするロイヴェインを横目で見る。
器用なロイヴェインには作業自体は安心して任せられるので、自分が考えるのは何をするかだけだ。
「楽しい?」
あまりにもにこにことしているので思わずそう尋ねると、楽しいよ、と弾んだ声が返ってくる。
「俺はククルに言われたことしてるだけだけど。ちゃんと料理してる気分」
「ロイならすぐに覚えられると思うけど」
実際以前に教えたことを覚えていてくれて、シチュー用の野菜だと言っただけで適した切り方をしてくれていた。
時間とその気さえあれば、テオと変わらず動けるようになるのかもしれない。
「ククル?」
名を呼ばれ、はっと我に返る。
「どうかした?」
怪訝そうに聞かれ、手を止めていたことに気付いた。
「何でもないわ」
そう笑い、作業を再開する。
己の心によぎった何か。
不安のように心を乱し、納得のように平穏を与えて。すぐに霧散してしまったそれを探すものの、結局手繰り寄せることができなかった。
午後からはまた菓子を焼くと言い出したアリヴェーラと、手伝うと言い張るロイヴェインとの三人で作業部屋に詰め、土産に持って帰ってもらう分も含めて菓子を焼いた。
手際もよく体力もあるふたりの助手はとても優秀で、あまりに順調に作業が進むことにつられ、居並ぶ菓子も増えに増え。覗きに来たテオに苦笑され、町の皆に配ってくればと言われる始末。
それでもテオが止めないのは、これが気晴らしになっているのだと知っているからだろう。
そうして穏やかに一日が過ぎ、ロイヴェインもテオも店を出てから。
少しいいかと、アリヴェーラに声をかけられた。
「どうしたの?」
カウンター席に並んで座り、ククルはアリヴェーラを見る。
「ちょっと話がしたかったの」
ふふっと笑ってアリヴェーラもククルを覗き込んだ。
「元気そうで安心したわ」
「…皆のおかげよ」
皆が次々と来てくれるおかげで、励まされ、力をもらい、こうして立つことができている。
「アリーにもたくさん心配かけたわね」
「いいのよ。私がククルの心配をしたかったんだから」
手を伸ばし、ぎゅっとククルを抱きしめる。
「もう大丈夫なんて思わなくていいの。大丈夫なときも、そうじゃないときも、あっていいのよ」
「…そうね」
アリヴェーラにそう言われ、浮きも沈みも認めることで、本当に落ち着くことができた。
「ちゃんとわかってるわ」
「いい子ね」
「アリーったら」
しばらくふたりで笑ってから、ふっとアリヴェーラが真顔に戻った。
「…ロイは迷惑をかけなかった?」
「アリー?」
翡翠の瞳に、少し迷うような影が見える。
「…ごめんね。ロイはロイなりに悩んでたみたいだから。早まったことをしてないといいんだけどって思って」
「早まったこと?」
首を傾げるククルに、アリヴェーラは何でもないわと笑みを見せた。
客間に戻ったアリヴェーラは、とりあえずはと安堵する。
昨夜といい、今朝といい。こちらの気配に気付かないほど動揺しているロイヴェイン。
泣かせただの後悔しているだの言っているので、もしかして既に手を出してしまったのではと心配したのだが。
それにしては落ち着いているククルに、大丈夫かと息をつく。
ククルとロイヴェインの間にあった、何かについて。
今回ようやく言質を取れたので問い詰めようかと思ったのだが、気にした様子のないククルを見ていると自分は知らないままのほうがいいのかもしれない。
(ま、すぐには許してあげないけどね)
何かをしたのは事実なのだろうから。
精々いつ聞かれるかとビクビクしていればいいと思いながら、アリヴェーラは嘆息した。




