三八三年 雨の四十九日 ①
朝、朝食にはまだ早い時間。宿の部屋でひとり、ベッドに腰掛けるロイヴェイン。
今日もククルの朝食の時間に間に合うように行こうと、ロイヴェインは考えていた。
もしこの時間にふたりきりになれたなら、あの日のことを改めて謝って、許してもらえたなら、と思っていたのだが。
寝ずに来たのに眠りは浅く、おかげで考える時間は十分にあった。
昨日テオに言われたこと。
自分はあのことを忘れない。それは決めている。
しかし彼女には、忘れてもらっていいと本当に思っているのだ。
彼女に触れる度に思い出して怯えられないかと不安になる。でも触れたくて、抱きしめたくて、キスしたくて。
思い出させたいわけじゃない。
ただ、好きだと伝えたいだけなのだ。
自分であれば、怯えられていないか確認できる。
しかし、ほかの誰かがしたことで、自分まで避けられるかもしれないなんて。
不用意に触れたら怖がらせるかもしれないし、また怯えられるのは見たくない。
だから、聞くしかなかった。
それなのに、テオは。
何も知らないくせに。傍にいながらみすみすククルをあんな目に遭わせたくせに。
傍にいるのが自分だったらあんなことにはならなかった。させなかった。
なのに、守れなかったお前がそれを言うのか、と―――。
そう、思わず口に出た。
深く溜息をつき、ばたりとうしろに倒れ込む。
守れなかったこと。
そのくせ変わらず隣にいること。
それが悔しく、羨ましく。
八つ当たりなのはわかっている。
嫉妬だということも気付いている。
おそらくテオだって、後悔や自責を感じている。
天井を見上げ、もう一度息を吐いて。
昨夜投げつけられた、アリヴェーラの言葉。
ククルの為に。こんな自分に何ができる?
結論など出ないまま宿を出ると、既にテオが待っていた。
「昨日はごめん」
何、と聞くより早く謝られる。
「ククル、落ち着いてはいるけど、去年と一緒であんまり泣いたりしてないから。またいつあんなふうになるかわからないから、思い出させるようなことしてほしくなくて」
口を挟ませないようにだろうか、矢継ぎ早に話すテオ。
少し引っかかり、謝ろうとしていたロイヴェインは言葉を変える。
「あんなふうって、こないだのミルドレッドからの帰りの…?」
テオは驚いたように見返し、そっか、と呟いた。
「ロイは知らなかったんだな」
そうして話されたククルの姿は、自分が知るそれとは程遠く。
呆然と見返すロイヴェインに、テオは嘆息して視線を落とす。
「それもあったし。ついキツくなった。…嫉妬してなかったとは言わないけど」
仕方なさそうに自嘲を浮かべ、わかってるんだ、と呟く。
「俺はククルを守れなかった。何言われたって仕方ない」
「いや…ククルを泣かせた俺が言えることじゃなかった」
悪かった、と、頭を下げて。
「…ホントに今でも後悔してる。ククルは許してくれてるけど、それでもいつ……」
拒絶、されるかと。
言葉にできず、吐息を洩らす。
「…自業自得なんだけどさ。どうしていいかわかんないんだよ」
沈む声音に、テオは責めも慰めもしなかった。
以前ククルを泣かせたと聞いたときは、かなり強気な態度だったロイヴェイン。
その彼の落ち込む姿に、余程堪えたのだろうとテオは思う。
嫉妬もある。癪でもある。
でも、これ以上ククルを悲しませたくないと思う気持ちは、おそらく同じで。
(…お互い頼りないけどな)
息を吐ききりロイヴェインを見やると、向こうも同じく顔を上げた。
「…俺も忘れる」
「……何したか聞かないんだ?」
少し軽口の戻ったロイヴェインを、半眼で見返して首を振る。
「聞かない。ククルが知ってほしくなさそうだし。許してるならいい」
「じゃあ何されたか聞く?」
思わぬ言葉を続けられ、テオはすぐに意味が理解できなかった。
「されたって??」
「俺が、ククルに、されたこと」
からかうような色を浮かべ、自分を見返す翡翠の瞳。
「…ロイ」
その手には乗らないと、わざと低く名を呼ぶと、ロイヴェインは肩をすくめて笑った。
「全部食べたら忘れてくれるって言って、サンドイッチ出されたんだけどさ。めっちゃ辛くて」
何を言ってるのかとロイヴェインを見るが、微笑むその顔に毒気を抜かれる。
恋敵という関係では、お互い納得したといっても素直に並び立つこともできず。
このまま店に行くと、絶対ククルに何があったかと聞かれる。ロイヴェインなりにこの空気を変えようとしているのだろう。
尤も、もう少し違うやり方もあるだろうとは思うのだが。
少し表情を崩し、テオはそうだよな、と呟く。
「ロイ、辛いの駄目だもんな」
「何でテオまで??」
「ククルから、ロイの分は香辛料控えるように言われてる」
店の調理は自分も任される。ククルが気付いて配慮していることは、自分も知らされているのだ。
知られているとは思っていなかったらしい。動揺するロイヴェインに笑みを見せる。
「ククルがわかってるのに苦手な物出すなんて。よっぽど怒らせたな?」
からかわれたお返しとばかりにそう告げると、ロイヴェインは仏頂面でうるさいよ、と返した。
どうせ朝食食べに来るんだろ、と言ったテオ。すぐ入口を開けるからと、裏へと回った。
入口が開くのを待ちながら、ロイヴェインはほっと息をつく。
テオが軽口に付き合ってくれたおかげで、どうにか重苦しさを払拭することができた。
あのまま店に行けば、ククルにもアリヴェーラにも何かがあったと悟られる。ククルを心配させるわけにもいかないし、アリヴェーラにバレればゼクス以上の厳しい追求が待っていることは目に見えていた。
そうなったときに話さなければならないのは、己がククルにした所業で。
それを話せばどうなるかなんて、考えたくもない。
鍵が外される音がして、入口の扉が少し開いた。何の気なしに続けて扉を開けたロイヴェインは、目の前に立つ己そっくりの顔に硬直した。
「おはよう」
満面の笑みに背筋が凍る。
「……おはよう。アリー、今日は早いね……」
今来たのだろう、アリヴェーラのうしろで立ち尽くすテオと、カウンターの中で微笑むククルが見える。
「誰かさんたちがこそこそしてるから。目が覚めたのよ」
笑みはそのままに、アリヴェーラはロイヴェインの耳元に顔を寄せた。
「何に後悔してるのか、帰ってからじっくり聞かせてもらうわよ」
ふふっと笑い、ロイヴェインから離れるアリヴェーラ。
入口で突っ立ったまま、どうごまかせばいいのかと、ロイヴェインは心中嘆息した。




