三八三年 雨の三十六日 ③
テオと共に宿から戻ってきたアリヴェーラは閉店まで店に立ち、女同士の話があるからと、閉店作業もそこそこにテオを追い出した。
「話って?」
火を落とす前に淹れたお茶を前にカウンター席に並んで座る。
「話なんて何でもいいのよ」
尋ねるククルにアリヴェーラは穏やかに微笑んだ。
「もちろん恋の話でも」
ふふっと笑って、そういえば、と続ける。
「ウィルバートさん、本当に心配してたわよ? ククルのことよろしくって、何度も言われたもの」
「ウィルが…」
ここを離れてなお心配してくれているウィルバート。本当に、感謝に堪えない。
「皆ククルのことを大事に思ってるのね。おじいちゃんたちも、もちろんロイも、来たがってたわ」
心配をかけていることは容易に想像がつく。ウィルバートが戻ればギルドから連絡があるとは思うが、それよりも。
「手紙を書くわね」
「ありがとう。お願いね」
手紙を書いて、菓子を添えて。元気にしていると伝えよう。
「詳しいことは書かなくていいわよ。私が帰ってから上手く言っておくから」
どこまで書くべきか考える前にアリヴェーラがそう言ってくれたので、ありがたく甘えることにする。
いくらたいしたことではないだろうと思っても、自分のされたことを言葉にするのはやはり少し抵抗があった。
「ククル」
気持ちが沈んだことを見透かされ、アリヴェーラに肩を抱かれる。
「一度に全部吹っ切らなくていいの。思い出して怖くなるときも、腹が立つときも、あっていいのよ」
前を見たまま、淡々と話すアリヴェーラ。
「ただ、そんなときは絶対にひとりでいちゃ駄目よ? 話さなくてもいいから、誰かといるのよ?」
静かなその声はじわりと胸に染み込み、温かなもので満たしていくように感じられ。
滲む涙に、ククルはうつむく。
「理由なんかなくても一緒にいてくれる人が、ククルの傍にはたくさんいるでしょう?」
私だって、と呟き、アリヴェーラは笑った。
「いつもいられないけど。ここにいる間はいっぱい甘えていいわよ」
わざと茶化して言うアリヴェーラに、ククルも瞳を細めて笑う。
「ありがとう。甘えさせてもらうわね」
零れた涙を自ら拭い、ククルは顔を上げた。
「アリーにお願いがあるの」
少し落ち着いてから、ククルが口火を切る。
「なぁに?」
「私にまた、身の守り方を教えてほしいの」
告げられた言葉に、アリヴェーラはじっとククルを見つめる。
「前に教えたのと同じことでいいの?」
ククルは頷いて申し訳なさそうに視線を落とした。
「…あのとき、怖くて全然動けなくて。あんなにアリーに教えてもらっていたのに、私、何もできなかった…」
「なかなか咄嗟には動けないものよ」
仕方ないことだと言うアリヴェーラに首を振る。
「それじゃ駄目なの。私は自分にできることをしないと」
いつまでも皆に気遣われ、手を煩わせたくなかった。
「私はもう、あんな思いをさせたくないの」
顔を上げて言い切ったククルの真剣な眼差しに、アリヴェーラも真摯なそれを返す。
「咄嗟に動けるようになるには、身体が覚え込むまで反復しないとならないわよ?」
「わかったわ」
迷いなく頷くククルに、頷き返すアリヴェーラ。
「早速甘えてくれて嬉しいわ」
細められるその翡翠の瞳に、ククルはよろしくお願いしますと頭を下げた。
自室に戻り、扉を閉めて。
一度に吹っ切らなくていいと言ってくれたアリヴェーラ。早く立ち直らなければと思っていた自分に、このままでいいと許しをくれた。
心配をかけないように焦るのではなく、浮きも沈みもあるがままでいいのだと。
そう言われ、肩の力が抜けた。
身の守り方もまた教えてもらえることになり、これで少しは強く在る為にできることが増えるかもしれない。
来てくれたことに感謝をしつつ、ククルはゼクスたちに手紙を書こうと机に向かった。
便箋を前に息をつく。
ウィルバートの帰り際。手を取られて驚きはしたが、もちろん嫌悪感はなく。
熱の籠もる眼差しも言葉も、いたたまれなくなるものの、怖くも不快でもない。
異性としてかは別としてウィルバートに好意を持っているからかもしれないが、自分が考えなければならないのは異性としてどう思うかであって。
結局結論は出ず、ククルは嘆息する。
ロイヴェインにしてもラウルにしても同じことで。
特にロイヴェインからは正直色々されてはいる。それでも許してしまっているのは、上手くはぐらかされることと、おそらく彼の為人を知り、好ましく思うからなのだろうが。
異性としてかとなると、やはり答えに窮する。
テオに至っては、異性云々の前にテオであるからで。
嘆息し、改めて机に向かって。
とりあえず今日は手紙を書こうと、そう思った。
客間に通されたアリヴェーラ。相変わらず装うのが上手いククルに、仕方ないわねと嘆息する。
辛いなら辛いと、そう言ってくれるのを待っている相手もいるだろうに。頑なにひとりで立とうとするその姿に、昔の自分を思い出した。
自分の経験が少しでもククルの役に立てばと、そう思う。
本当なら、もっと泣いて、もっと悲しんで、もっと怒って、感情を出してしまったほうがいいのだろう。
内に溜めてしまって、変に恐怖心が残らなければいいのだが。
(…相手がいれば手っ取り早いのに)
間違いなくその行動に出そうな己の弟を思い起こし、アリヴェーラは再び溜息をついた。
襲われたというのが性的な意味でなら、同性の自分が行くのが一番だということはロイヴェインも納得していることだろう。
しかしそれでも、自分も行きたいと言い出すと思っていたのに。
ゼクスから話を聞いたロイヴェインは、呆然と立ち尽くしたあと、泣きそうな顔でうなだれて、お願い、と自分に言った。
自分に行く資格はないから。ククルをお願い、と。
ロイヴェインが変わったきっかけが、おそらくククルと何かあったからだということには気付いていたが。
まさか同じようなことをしたのではないかと疑いつつも、今まで見たことがない程落ち込むロイヴェインに何も聞けなかった。
(……ホントに馬鹿よね)
あれ程焦がれ、想いを寄せる相手がこんなにも傷付いているのに。
かつての己の行動のせいで、慰めるどころか顔を見にくることすらできないだなんて。
ククルの口振りからは取り立ててロイヴェインのことを避けている様子もないので、おそらく手紙は書いてもらえることだろう。
どうしようもない愚弟でも、ロイヴェインは自分の弟で。今はククルの為に真面目に頑張っているのだから。
自分が戻るよりも少し早く、安心できればいいわね、と。
ここに来られない弟に向け、感謝しなさいよ、と独りごちた。




