三八二年 雨の四十九日
朝、とうに日は昇っているのだが、どうしても部屋から出る気になれず、ウィルバートはベッドに腰掛けていた。
(…しくじった、よな…)
昨夜の己の醜態には、文字通り頭を抱えるしかなかった。
疲れていた、なんて理由にもならない。自分はただ、心の澱をかき混ぜられ、苛立って六つも年下の少女に八つ当たりしただけなのだから。
もはや溜息しか出てこない。
休んで少し冷静になってみれば、ここ数日の自分の行動は不可解だった。
昨日はともかく、おとといの拠点はミルドレッドに置くべきだった。ジェットの代わりの店番も、頼まれてもないのにする必要などない。
―――普段の自分ならまず取ることのないその行動。
そのままうしろに倒れ込み、両手で顔を覆う。
(ここに来てから…調子の狂うことばっかりだ)
素の自分なんて、今まで隠し通してきたのに。
深く、息をつく。
昨夜も自分を見つめていた紫の瞳に動揺して。謝りもせずに逃げてきてしまった。
―――本当に、自分は彼女に一体何を求めていたのだろう?
同じように悩ませたいわけでも、答えがほしいわけでもないというのに。
(…まずは、謝らないとな…)
自分の事情なんて彼女が知るはずもないし、考慮されることでもない。自分はただ、彼女のあるかどうかもわからない不平不満をあおりたてただけなのだ。
もはや何度目かもわからない溜息と共に、ウィルバートは反転し、ベッド突っ伏した。
朝食の客が完全に出払った頃を見計らって、ウィルバートはようやく丘の上食堂に顔を出した。
「ウィルバートさん、おはようございます」
いつもと変わらぬ笑顔で出迎えてくれたククルに、安堵しながら店に入る。テオが宿に戻っていることは確認済みだ。
「あの、ククルさん。昨夜はすみませんでした」
「気にしていませんから。座ってください」
頭を下げると慌てた声が降ってきた。正直謝り足りないと思うのだが、気に病んだ様子がないのが救いだった。
カウンターの真ん中に案内され、朝食をどうするか尋ねられる。お茶だけでと返すと、ヨーグルトと果物もありますよと微笑まれた。
「…では、それで」
「すぐ用意しますね」
仕込みの手を止め、用意を始めるククル。
程なくしてウィルバートの前にトレイが置かれた。
「お待たせしました」
ポットとカップ、ヨーグルトとオレンジ、そして少し多めの蜂蜜が載っている。
やっぱり甘党ってバレてるな、と、内心苦笑しながら礼を言い、お茶を注いだ。数口飲んでから蜂蜜を加える。
柔らかな甘さに、ウィルバートは自然と息をついた。
安心したように微笑んで、ククルは何も言わずに仕込みを再開した。
野菜を切る音、ぐつぐつと煮える音、自分の扱う食器の音。居心地は悪くない、でも慣れない静けさに、ウィルバートは目を伏せる。
(…普通の家って、こんな感じなんだろうか)
自分は今まで家庭の食事には縁がなかった。ひとりきりでの食事、もしくは人数が多くて騒がしい、それこそ食堂での食事だった。
ここは食堂なのに―――そんなことを考えながら視線を上げると、気付いたククルと目が合った。
「おかわりどうですか?」
ふわりと微笑まれ、息を呑む。
「え、いや、大丈夫です」
「わかりました。ゆっくりしていってくださいね」
完全に詰まってしまったが、気にした様子もなく返される。
―――どうしても、いつもの調子に戻れない。
自己嫌悪を押し殺して、ウィルバートは再び静寂に戻る前に謝り直すことにした。
「その…。先程も言いましたけど、昨夜は本当にすみません」
再度の謝罪にククルがきょとんと見返す。
「何ていうか、自分の境遇と重なるところがあって、それでつい…」
ウィルバートは慎重に言葉を選ぼうとしたのだが、弁解するつもりはないのに、どうにも言い訳めいた言葉しか出てこなかった。
こんな言葉しか出ない自分にますます焦る。
(あぁもう、本当に俺、どうかしてる…)
さらに言葉を重ねようとして、ふとククルの表情に気付いた。
呆れも不信もない。昨夜と同じ、まっすぐ自分を見る瞳。
視線が合うと、ふっと和らぐ。
「そうだったんですね。いつもと感じが違うので驚きはしましたけど…。何だか少し嬉しかったです」
何てことないように続けられた言葉に、ウィルバートの思考は完全に停止した。
「…嬉しかった…?」
はい、と屈託なく頷かれる。
「ウィルバートさんみたいな立派な人でも、同じようなこと思うんだって」
ふふっとククルが笑う。
「宿も食堂も休みなんてないですからね。昔からテオたちとよく愚痴を言ってました。色々やりたくても暇がないって」
今だって同じですよ、とわざとらしい溜息をついてみせる。
「私ももう少し凝ったお菓子を作ったりもしたいんですけど、なかなか難しいですよね」
そう言う彼女の声に、隣人や彼女自身への憐憫は一切ない。ただの事実として告げられただけだ。
「でも結局、今の生活が好きなんですよね。色々あっても、ごちそうさま、美味しかったよって言ってもらえると嬉しいんです」
幸せそうに、目の前の少女は言い切った。
―――一体自分に何が起きているのだろうか?
己の心境を把握しきれないまま、ウィルバートはただ目の前の少女を見つめることしかできなかった。
何かを諭されたわけでもない。
何か答えを示されたわけでもない。
ただ、自分と同じで嬉しいと、そう言われただけだ。
ただそれだけなのに、どうしてこんなに満たされた気持ちになっているのだろう。
(…俺…?)
「ウィルバートさん?」
怪訝そうに名を呼ばれ、随分と呆けて見ていたことに気が付いた。
「あっ、すみません」
「いえ、私のほうこそ自分のことばかりですみません」
慌てて取り繕った謝罪に返された声音は、とても柔らかく聞こえて。
ウィルバートは無意識に伸ばしかけた手を、何とかカップへと逸らす。
「…そう、ですね。俺も愚痴を言える相手を探すことにします」
いつものようにと己に言い聞かせての台詞はどうやら上手くいったらしい。
ククルの瞳に一瞬浮かんだ安堵の色に、ようやく自分を立て直せたのだと知る。
内心ほっとしながら、手元のカップに口をつける。
カウンターの向こう、ククルはうーんと考え込むように呟いた。
「そうですよね、相手が必要ですよね。私じゃウィルバートさんの仕事の大変さはわからないでしょうし、エト兄さん…は当てにならないし」
「んぐっっ」
唯一の肉親をバッサリ斬って捨てるククル。吹き出しそうになったお茶を無理矢理飲み込んだウィルバートは、ひとしきりむせたあと涙目で顔を上げる。
「ククルさんっ」
「す、すみません…」
非難の眼差しに気付いたのか、ククルが小さくなって謝ってくる。
「わかりますけどね? 俺だってジェットの愚痴は言ってもジェットに愚痴を聞いてもらおうなんて思いませんからね?」
「それ! エト兄さんの愚痴なら私だってたくさんあります!」
負けませんよ、と無邪気に笑う。
「大体、エト兄さんは自分勝手なんです! 何でもひとりで決めて、好きなようにやって…」
周りへの気遣いが足りない、自分の扱いが幼い頃のまま、人前だろうが抱きついてくる―――。
淀みなく出る文句の羅列。さらに続けようとしたククルと目が合い、同時に吹き出した。
「では、ククルさんと俺はジェットの愚痴仲間ということで」
何とか笑いが収まってからの宣言に、ククルは頷く。
「そうですね。大事で大切なエト兄さんのことを、一緒に語る仲間ってことですね」
「叔父バカが過ぎますけどね。まぁ俺にとっても気構えなくてもいい程度には親しい相手、ですよ」
そう苦笑してから、さて、と立ち上がる。
「長居してしまってすみません。ごちそうさまです。今日も美味しかったですよ」
「ありがとうございます」
望む言葉をきちんと告げられ、ククルははにかんだ笑みを見せる。それから思い出したように、小さな包みをふたつ手渡した。
余り物ですが、と言うククルに礼を返し、宿に戻ったウィルバート。
ベッド脇のテーブルに包みを置き、椅子に座って頬杖をつく。
そのまましばらく考え込んでから、置いてあって包みに手を伸ばす。甘い香りで気付いてはいたが、やはり中には焼菓子が入っていた。
食堂で出たような何かを混ぜ込んだものではない、素朴なパウンドケーキ。
飾らないそれに、どこまでもありのままの作り手の姿が重なる。
ここ数日の、不可解な行動。
その理由が、さっきわかった。
目を閉じ、溜息をついてから。ウィルバートはパウンドケーキに口をつけた。
少女に手渡されたそれは、今まで食べたどんな菓子よりも甘く感じた―――。
昼もとうに過ぎ、そろそろ片付けも終わろうかという頃。テーブルを拭いていたククルは不意に鳴ったドアベルに振り返る。
「朝も昼も遅くてすみません。今からでも大丈夫ですか?」
日に青く透ける黒髪の青年が、申し訳なさそうに尋ねた。
「もちろんですよ、ウィルバートさん。どうぞ」
カウンターに案内していると、作業部屋で洗い物をしていたテオが顔を出す。
「こんにちは。珍しいですね」
「こんにちは。今日は寝坊してしまって」
「やっぱり疲れてたんですね」
ごゆっくりどうぞ、とつけ足して、テオは作業部屋へ戻っていった。
何でも用意できると言ったのだが、シチューを頼まれた。昼の間温めてあった上に、サラダもパンも配膳するだけだ。どうやら気を遣ってくれたらしい。
すぐ出された食事に礼を言い、ウィルバートが食べ始める。カウンター内からちらりとその様子を見、ククルは内心よかったとほっとする。
昨夜の追い詰められたような表情でも、今朝の焦ったような表情でもない。自分が知る、落ち着いた優しい顔だ。
気付かれないうちに視線を外し、夕食の仕込みを始める。あとはいつも通り、時折食事の進み具合を見ればいい。
そうして仕込みを進めることしばらく。ふと視線に気付き、ウィルバートを見返す。半分程食べた彼は、美味しいですよと笑ってくれた。
(今朝あんなこと言ったから…)
自分が望む言葉だとわかっていて言われるのは、何だか少し照れくさい。
「ありがとうございます。…お茶、淹れますね」
ごまかすようにそう返して、ククルはお湯を沸かし始めた。
本当に、どれだけ気を遣われているのだろう。ジェットも彼の半分でも気を遣ってくれれば、きっと自分たちの愚痴も減るに違いない―――。
「ククル」
逸れた思考を聞き慣れた声が引き戻した。奥からテオが顔を出している。一瞥だけして、ククルは作業に戻った。
「終わった。そっちは?」
「こっちは大丈夫」
「じゃあ宿行ってくる。戻るの夕方でいい?」
「うん。お願いね」
「了解。ウィルバートさん、先失礼します」
ぺこりと頭を下げて、テオは奥へ戻っていった。ウィルバートがいるので裏口から出るのだろう。
話している間に淹れたお茶を、食べ終えたトレイと入れ替えようと手を伸ばす。
「ウィルバートさん、お茶を―――」
「ウィルでいいです」
少し強い口調でどうぞの言葉を遮られ、思わず手が止まった。
紺の瞳が翳ったのはほんの一瞬。疑問を抱く間もなく笑みに消される。
「俺とククルさんは愚痴仲間なんで。ウィルと呼んでください」
駄目ですかね、と問われる。
どうして急にとは思ったが、否はないのですぐに頷いた。
「ではウィルさん、お茶を―――」
「ウィル、で。敬称もなしでお願いします」
再び言葉を遮られる。
「え、でも…」
相手は年上の男性、しかもここへは仕事で来ている。幼い頃から知っているダリューンとナリスとは、やはり少し違うのだ。
明らかに躊躇を見せるククルに、笑顔のままウィルバートが続ける。
「俺だけククルさんのことを呼び捨てにするのも何ですし。あ、それともジェットに怒られますかね?」
「そんなことは…」
町の皆には呼び捨てで呼ばれている。自分が呼ばれることに抵抗は全くないのだが。
「なら、俺もククルと呼ばせてもらいますので。お互いに、でどうでしょう?」
本当にいいのだろうかと思うのだが、断る理由もなく。
「わかりました。お言葉に甘えますね」
そう答えたククルに、ウィルバートは少しほっとしたように息をついて。
「ありがとう。これからもよろしく、ククル」
「はい。よろしくお願いします、ウィル」
呼ばれた名に、嬉しそうに微笑んだ。
「そういえば、まだお礼を言ってませんでした。今朝のケーキ、美味しかったです」
思い出したかのように礼を言うウィルバート。
「よければまた作ってください」
「自分たち用に作った一番簡単なものなんですけど…」
もう少し手の込んだものも作れますよ、と言いかけるが、結局二の句は継げなかった。
すぐさまかぶりを振った目の前の青年が、ふっと微笑む。
「あれが、いいんです。…素朴で、飾らないあれが―――」
大事なものでも見つめるような瞳が、まっすぐ自分を捕える。
「―――好き、なんですよ」
続けられた言葉に、ククルはウィルバートを見返して。
「自分が作ったものを気に入ってもらえて嬉しいです」
そう言って、微笑んだ。




