三八三年 雨の三十三日 ③
一時間も経たないうちにアレックが戻ってきた。
ミルドレッドへの道中で慌てた様子のギルド員ふたりと鉢合わせて声をかけたところ、男の所属するパーティーのリーダーとメンバーで、今朝から姿が見えない男を探していたらしい。
共に来たリーダーは男を確認し、まずは迷惑をかけたとククルたちにも謝罪した。男がしたことについては確認が取れ次第、ギルドとして対応すると言われる。
ミルドレッドに戻っていたメンバーが、もうひとりのメンバーとミランを連れてきたのはそれからさらに一時間程あとのこと。
ギルド側との話はすべてアレックと、ククルから詳細を聞いたフィーナが請け負ってくれた。
店で待つよう言われているククルは、同じく宿には来るなと言われているテオと共に、いつも通りの仕事をしながら待っていた。
ククルの隣、仕事の手はそのままに。
テオはこっそりとククルの様子を窺う。
レムと泣いて落ち着いたのか、あれ以降は普段の様子と変わりなく。
そのあと自室でフィーナに何があったかを説明してからも、特に動揺も見られないままだった。
自分が来たとき、ククルは男に抱きしめられ、キスされそうになっていて。
エプロンの上、首元からおそらく下まで、ブラウスのボタンは外されていた。
何をされたかなんて、とても直接は聞けず。またもどかしい思いだけが積もる。
気にならないと言えば嘘になる。
しかし、せっかく落ち着いているククルを問い詰めるようなことはしたくなかった。
溜息を呑み込み、仕方ないからと心中呟いたとき。
「テオ」
こちらを見ぬまま、ぽつりとククルが名を呼んだ。
「ありがとう。あのときテオが来てくれて、本当にほっとしたの」
再度礼を言われ、そんなこと、とテオは返す。
「…もっと早く来れてたらよかったんだけど……」
やはり残る後悔を口にするが、ククルは肯定も否定もしなかった。
互いに口を噤み、手を動かすことしばらく。
「…朝のことは、フィーナさんから聞いてね」
「ククル?」
思わず顔を見て声を上げるが、ククルは手元を見たままで続ける。
「…そんなにひどいことはされてない…と思うんだけど……」
小さくなる呟きと共に、その手が止まった。
「…怖くて…言えそうにないから…」
「…怖い…?」
言葉の意味を理解するのに、しばらくかかった。
「話すのが怖いってこと…?」
見つめるククルの横顔が、少し曇る。
「…聞いたテオがどう思うのか……心配で…」
「俺、が?」
ためらいながらも頷くククル。
瞳を伏せるその顔に、彼女が本当に怯えているのがわかって。
(……俺のことで?)
不謹慎なのはわかっている。
しかし、怖がる程自分の反応を気にしてくれことが、少し嬉しくもあった。
話さなければと思っていた。
テオにはあんな場面を見られているのだ、変に誤解をされるより、何があったのかをちゃんと知ってもらったほうがいい。
だから話さなければと思っていたのだが、いざそうしようと思ったら怖くなった。
自分がされたことを知ったらテオはどう思うのだろうか、と。
不用意に近付き知らない男に触れられたことも、抵抗できずそれを許した自分も。
そんなことをされたのかと。それを許したのかと。
呆れられはしないかと、怖かった。
そして何より、ほかの男にされたことを自分の口からテオに伝えるということに臆し、とても言い出せない。
だからフィーナから聞いてもらおうと思った。
もしするとそれすら卑怯だと言われるかもしれないが、自分にはもうそれしかなく。
顔が見られずにうつむいていると、隣でテオが息を吐くのがわかった。
「ばかだな」
呆れたようにではなく、優しい声音。
顔を上げたククルの目に、微笑むテオの姿が映る。
「俺がどう思うのかなんて。すぐわかるだろ?」
自然に伸ばされた手に、逃げるなどという選択すらなく。
ぽふんと頭に手が置かれる。
「ククルは大丈夫かって。心配するに決まってるだろ」
当然だとばかりに告げられた言葉に、ククルはまっすぐテオを見たまま動きを止めて。
「……テオ」
安心させるように笑みを見せるテオ。
どこまでも優しくて。
どこまでも自分のことばかり気遣ってくれて。
ただ幼馴染というだけでその優しさに甘えてばかりの自分を、それでも見捨てず支えてくれる。
自分にとって特別な存在であるテオ。
(…幼馴染だから…家族同然だから…だけど…)
幼馴染で、家族同然で、今は共に食堂に立っている。
それが理由であることは間違いなく。
そして同時に。
(…テオだから……)
それが彼であるからだということも、もう疑いようがなかった。
ふっと、ククルの表情が緩む。
「ありがとう」
柔らかなその声音に、テオは一度だけ頭を撫で、手を下ろした。
夕方前、アレックとミランが店にやってきた。
「申し訳なかった」
深々と頭を垂れるミランに、ククルは慌てて頭を上げるよう頼む。
「私にも落ち度はありましたから」
いや、とミランが首を振った。
「我々の管理不行き届きにほかならない。ククルさんが望むなら警邏隊に突き出しても構わないが…」
「私からは何も。すべてギルドにお任せします」
ディアレスたちのときのように、何もされていないとは言えなかった。
ミランはもう一度すまなかったと頭を下げてから、申し訳なさそうにククルを見る。
「何かあればと言いながら、結局はこちらが迷惑をかけることになってしまった。本当に何と詫びれば…」
「モーリッツさんのせいではないですから」
被せ気味に告げるククルに、ミランは息をつき、ありがとうと呟いた。
詳しいことはまた本部から連絡があると言い、ミランは男とそのパーティーと共にミルドレッドに戻っていった。
リーダーには再度謝罪されたが、男とは顔を合わせずに済むよう配慮されていたので、あれきり顔は見ていない。
ようやく落ち着き、息をつくククル。
ミランが落ち着くまで待機するよう伝えてくれているが、宿泊客は今日もいる。もう来てもらっても大丈夫だと声をかけなければならない。
「ククルはここに…でもひとりになるか……」
すっかり心配性になっているテオが、ククルをひとり残すのもククルにひとり行かせるのもためらっている間に、伝えることがあるとフィーナが店に来た。
「今日はうちに来なさい」
珍しく有無を言わさずそう告げるフィーナに、もちろん断ることはできず。
その日は同じく心配性のレムにくっつかれながら、ククルは眠りについた。




