三八三年 雨の三十三日 ②
テオがククルの傍らから立ち上がる。
ククルを置いてここを離れるわけにはいかないので、店の扉を強めに揺らし、ドアベルを何度か鳴らした。
程なく駆けつけて来たアレックは、倒れるククルと男に足を止めてから、テオへと近付く。
「…ごめん。カッとなって話も聞かずに一方的にやった」
「いや、いい。よくやった」
謝るテオの頭を撫で、アレックはククルを抱きあげた。
「寝かせてくる。剣を外して縛っておいてくれ」
頷いたテオは二階へ上がるアレックを見送り、テオは縛るものを探して男を拘束した。
戻ったアレックはテオからわかる限りの事情を聞き、拘束した男を宿の空き部屋に放り込み。フィーナとレムに事情を説明し、レムを連れて店に戻った。
「レムはククルについてやっててくれ。テオはここに。俺はソージュに声をかけてからミルドレッドに行ってくる」
「行くなら俺が…」
早口で伝えるアレックにテオが食い下がるが、すぐに却下される。
「ここにはお前がいたほうがいい。ククルとレムを頼む」
そう言い、アレックは出ていった。
「じゃあククルのところに行くね」
「レム、ちょっと…」
エプロンの下のボタンも留めておいてもらえるように頼むと、レムは途端に泣き出しそうな顔になる。
「レムがそんな顔だとククルが余計心配するから」
「わかってる…」
頭を撫でて、頼むな、と告げる。
頷いたレムが二階へ上がった。
ひとり一階に残り、仕込みの続きをするテオ。
日々の仕事が滞れば、きっとククルは自分を責めるだろうから。それだけを言い聞かせて手を動かす。
こんなことにならないようにと時間をずらしたことが裏目に出た。普通はギルド員が来ない時間にどうしてあの男が来たのかはわからないが、今までなら自分もまだ仕込みをしていた時間なのにと思うと悔やまれてならない。
自分を見た途端に気失う程追い詰められていたククル。ひとりの間のククルの恐怖は、おそらく自分が考えるよりも大きかったのだろう。
どうしてもっと早く来なかったのか。
どうしてここを離れたのか。
どうして彼女をひとりにしたのか。
しても仕方ない後悔ばかりが押し寄せる。
どうしてまた、彼女を泣かせるようなことになったのか。
(…ごめんな……)
謝ることしかできない自分が不甲斐なく。
テオは嘆息し、仕込みを続けた。
目を開けると自室だった。
「ククル!」
すぐ傍で聞こえたレムの声に、ゆっくりそちらを見る。
「よかった。気付いたんだね」
心からの安堵の声に、ククルは瞬きゆっくり身を起こした。
何があったのかと聞きかけて、身の内に残るぞわりとした感覚に気付く。
思わず身を抱いてから、最後に見た姿を思い出した。
「テオはっ??」
「お兄ちゃんは大丈夫。何ともないよ」
一瞬驚いた顔をしたものの、レムはすぐに答えてくれた。
「よかった……」
自然に洩れた呟きに、レムが少し瞳を細める。
「もうちょっと休む? お水とか持ってこようか?」
「大丈夫…」
まだ少しぼんやりとしている頭で考える。
朝、テオが行ってしばらくしてあの男が―――。
思わずレムを見る。
自分とレムがここにいる。
あのときはまだ朝だった。
「レム、今時間は??」
あまりの剣幕さに少し圧倒されながら、お昼前、とレムが答える。
「ククル、すぐに気が付いたから。そんなに経ってないよ」
「仕込みしなきゃ」
「ククルってば!」
立ち上がろうとするククルを止めるレム。
「ちょっと待って! 大丈夫なの?」
もう一度元の位置に戻されたククルは、でも、と呟く。
「レムだってここにいてくれたなら、宿だって大変だろうし。仕込みもお昼も…」
「宿はソージュが来てくれてるし、お昼は宿泊の人だけにするからお兄ちゃんだけでも大丈夫だって」
落ち着いて、とレムに言われて、ククルは一度息をつき。
「私は大丈夫だから。店に行きたい」
はっきりと、そう告げた。
触れられた感触を拭うように身を清め、服を着替える。
外されていたはずのボタンもいつの間にか留まっていた。テオが気付いていなければと思うが、おそらく知られているのだろう。
訪れた時間といい、ひとりだったことといい。不審に思いつつ迂闊に近付いた結果、こんなことになった。
あのときテオが来てくれなければ、触られる程度では済まなかったかもしれない。
皆に気を付けるよう言われていたのに。アリヴェーラに教わった逃げ方もすっかり忘れ、何も抵抗できずにされるがままで。
―――本当に、自分が情けない。
吐息をつき、かぶりを振る。
部屋の外で待っていてくれたレムと一緒に一階へ降りると、足音に気付いたテオがこちらを見ていた。
何か言いかけ、ためらいやめるテオに、ククルは笑みを見せる。
「助けてくれてありがとう、テオ」
かけられた言葉に、テオは失笑を返し首を振った。
「ごめん、俺がいなかったから…」
「テオは何も悪くない」
きっぱりとククルが言い切る。
「むしろ私のせいだもの。皆にも言われて気を遣ってもらってたのに。変だと思いながら不用意に近付いて…」
「どっちのせいでもないよ!!」
うしろで聞いていたレムが堪らず声を上げた。
「ククルもお兄ちゃんも悪くない! ふたりともそんなこと言わないでよ!」
「レム…」
今まで堪えていたのだろう、ポロポロ涙を零すレムに、ククルは近付き抱きしめる。
「ごめんね、レム」
「悪くないんだからね」
抱きつき返してそう呟くレムの声に。
ククルの瞳にも、じわりと涙が浮かんだ。
「ククルは怒っていい。悲しんでいい。自分のせいだなんて、絶対に思わなくていいんだから」
ククルを抱きしめ、泣きながら。それでもレムは強い口調で続ける。
「自分の気持ちに我慢なんかしなくていい。ぶつけていいの。それで当たり前なんだよ」
名を呼ぼうと口を開くが声は出ず。
代わりに溢れた涙を隠すように、ククルは顔を伏せた。
「ありがとう、レム」
お互い泣きやみ、まだ赤い目で微笑み合う。
「テオも。ありがとう。怪我がなくてよかった」
「あんな奴相手に怪我なんかするかよ…」
小声でそう言ってから、テオはまだ心配そうな瞳でククルを見やった。
「ククルは?」
「何もないわ。テオが来てくれてほっとしただけ」
「そっか」
ようやく見せた安堵の表情も、やはりどこか翳りはあるが。
「…私も仕込み、していい?」
そう尋ねると、少し微笑み、どうぞと場所を空けてくれた。
フィーナに知らせてくる、とレムは宿へと戻り。店にふたり、並んで仕込みを再開する。
いつも通りの静寂の中、ククルは隣のテオのことを考えていた。
あの時。動けず、声も出せずに。ただ心の中、助けてと願うことしかできなかった。
思い浮かんだ姿は、父でも叔父でもなく、テオの姿で。
ここに人が来るとすれば、もちろんテオが一番可能性がある。父も叔父もここに来るはずがないことはわかっている。
だから、なのだろうか。
それとも、また別の理由なのだろうか。
テオの姿を見た瞬間、本当に安心して。もう大丈夫、心配ないと、心から思った。
安心しすぎて気失い、迷惑をかけたが。
自分にとってテオはそれだけ大きな存在であるのだという再認と共に。
今ふたりで並んでいつも通りにいられることで落ち着きを取り戻せているのだと、ククルは感じた。




