三八三年 雨の三十三日 ①
朝食の客が捌けてしばらく、片付けを済ませてテオが店を出る。
昼食後、北からのギルド員たちが到着する時間に店にいられるように、午前中に宿の仕事をするようになった。
ジェットたちが帰ってからも相変わらず訪れるギルド員の数は多く、ククルが話しかけられることもあるが、特に挙動が不審な者はいない。
ジェットが帰った翌日にギルド員から声をかけられたきり、こちらがひやりとする場面もなく。ククルの様子も落ち着いていた。
このまま無駄な努力で終わってくれればと願いながら。テオはいつものように宿へと戻った。
ひとり店に残り、仕込みを始めるククル。
あの日以来、心配したテオたちが色々と考えてくれて、ギルド員が多い時間にはひとりにならないようになった。
気の回し過ぎではないかとも思ったが、皆に気を付けてと言われているので素直に甘えている。
テオにはいつも進め過ぎだと言われるが、戻ってくる昼前までにできる限り仕込みを進めておくことにしていた。もし宿が忙しくなったときに、テオにこちらを気にせず動いてもらえるようにと思っている。
そうしていつも通りに仕込みをしていると。
カラン、と不意に鳴ったドアベルに顔を上げると、若い男がひとり立っていた。男は店内を見回してから、ククルに微笑む。
帯剣しているのでギルド員なのだろうが、北から来るにしても随分と時間が早く、しかも単独。少し不審に思いながら、ククルはいらっしゃいませ、と声をかけた。
男がテーブル席に着いたので、水とメニューを持っていく。
「ククルさん、だよね?」
「はい…」
水を置くと同時に名を呼ばれ、頷くククル。男はにっこり笑い、はじめましてと告げた。
「ギルドで噂になってるから、どんな子かと思って会いに来たんだ」
うしろに一歩下がりかけたククルの手を、さっと男が掴む。
「思ってたよりかわいい子で嬉しい」
「放してくださいっ」
「そんなこと言わないで。ちょっと話しようよ?」
逃げようとするが、立ち上がった男に掴まれた手を引かれ、反対の肩も掴まれる。
「放してっ」
「落ち着いて? 話すだけだって」
耳元で囁かれ、ぞわりと悪寒が走る。
掴まれた手も肩も、耳にかかる息も、何もかもが悍ましく。
知らない相手に不躾に触れられることがこれ程までに気持ちの悪いものなのかと、ククルは初めて知った。
「嫌、寄らないで」
必死に抗うククルだが、もちろん力で敵うわけがない。
男は苦笑しつつ、それでも手は放さずに続ける。
「だから、話を―――」
「放してっっ」
既に恐慌状態のククルに男の優しい声音は逆効果でしかなかった。
もがくククルを見下ろす男の眼差しが、すっと冷える。
「…話をしたいって言ってるだけなのに。そんなに拒絶されると傷付くなぁ?」
肩を掴む手に力が入る。
「それとも。お望み通りにしたほうが言う事聞いてくれる?」
手と肩を同時に引かれた次の瞬間、男に抱きしめられていた。
「やっっ」
肩を掴んでいた手が後頭部へ回される。
「俺は話したかっただけなんだけど。あおった君のせいだからね?」
再び耳元で囁かれ、生温かいものが首筋に触れた。
全身に走る悪寒にククルは身を硬くする。
「…嫌…やめて……」
「いいから。力抜いて」
甘い声で囁かれても悍ましいだけで。
逃げないとと思うものの、恐怖で身動きが取れない。
男は掴んでいたククルの手を放し、首元を這う唇を先導するように、エプロンの上のブラウスのボタンをひとつふたつと外していく。
一旦止まった手が背中側のエプロンの結び目を解き、緩んだエプロンの下、さらにボタンを外していく。
怖い、助けて、と。叫びたいのに声にならない。
「やめて…」
ようやく絞り出した小さな声に、男は胸元から顔を上げた。
「萎えるなぁ、もう…」
ぐっとククルを引き寄せて無理矢理上を向かせ、男は笑った。
「とりあえず一回黙ろうか?」
押さえられた頭に、ククルは何をされるのかに気付いた。
動かない身体。出ない声。
助けてと叫ぶ胸の中、浮かんだ姿は―――。
「ククルっ!!」
聞き慣れた声に視線を向けると、裏口から来たのだろうテオが驚いてこちらを見ていた。
その姿に、張り詰めていた気が緩む。
「…テオ」
呟きと同時に涙が溢れ。
そのままククルは意識を手放した。
裏口から店に戻ると男の声が聞こえた。
慌てて店のほうへ行くと、ククルが見知らぬ男にキスされそうになっていて。
名を呼ぶと、男は動きを止め、ククルは自分を見て涙を流し、そのまま気失った。
力の抜けたククルの身体に、男が我に返ってククルを床に降ろす。
「気失っちゃったか」
息をつき、男がテオを見る。
「邪魔しないでほしいな?」
「……にやった…」
ぼそりと呟くテオ。
「ククルに、何やったんだ…?」
床に寝かされたククル。エプロンの下、ブラウスのボタンが外されていることにテオは気付いていた。
「何って。野暮なこと聞くなよ」
開き直るつもりなのか、悪びれずそう言った男に。
もう、怒りしかなかった。
踏み込み、距離を詰め。驚く男の胸倉を掴み、反対の手で腹部に思い切り叩き込んでから引き倒す。
起きてくるかと待っていたが、それきり男は動かなかった。
ふぅ、と息を吐いてからククルの前に膝をつく。
頬の涙を拭い、少し躊躇したが、エプロンの上のボタンだけ留めた。
目を閉じたままのククルの髪を優しく撫で、視線を落とす。
「…ごめん……」
結局自分は、また何もできなかった。




